「奥州伊達郡をゆく〜阿武急沿線の宮詣で〜 その1・霊山」


<平成17年9月参拝・9月記載>

その1・霊山 「伊達郡を想う」「信夫山」「阿武隈急行」「掛田駅」「霊山神社
その2・保原 「保原」「保原ノ天照神明宮」「保原ノ厳島神社」
その3・高子 「奥州伊達氏発祥の地」「高子ノ亀岡八幡神社」
その4・梁川 「梁川」「伊達政宗・持宗の乱」「伊達天文大乱」「梁川ノ亀岡八幡神社」「梁川天神社」
その5・飯坂 「福島交通飯坂線」「飯坂ノ八幡神社」


伊達郡を想う
私の郷里は福島県。福島県伊達郡保原町。
インターネット上でのハンドルネームたる「伊達青衝」の伊達は郷里にちなむ。

奥州伊達郡は伊達の故郷でもある。いまでこそ「仙台藩伊達氏」は宮城県の代表格ではあるが、その伊達氏の発祥は福島県伊達郡である。

そんな伊達の故地を辿りながら、阿武隈の郷里を歩いていきたいと思う。念願の夢でもあった。神社詣でをするようになって約4年。いまだに郷里の神社に接したことがなかった。行きたいと願いつつ、ようやく郷里に足を踏み入れる機会を得た。神社詣での原点へ帰るかの想い。「郷里の鎮守」、それに接する想いは格段のものがあった。この心持ちを大事にして、故郷へ帰る

私は伊達を愛している。私の願いとして、このサイトで伊達の歴史と神社を愛でたかったのだ。
かつて、サイト内でも散文的に「伊達」に触れている。
いくつか重複するであろう話題の欠片。その欠片をもつないでおきたかった。
私は伊達の歴史を愛している。
とくに熱くなる思い。伊達の歴史と南北朝期。奥州人がはじめて中央朝廷から頼られた瞬間。
北畠顕家公率いる奥州軍が中央に轟いた南北朝。

私のサイト内には「伊達の歴史」と「南北朝の奥州」が散見する。

たとえば・・・
東北本線城跡紀行」<白河(白河結城氏)><二本松(伊達輝宗・政宗)><伊達郡(伊達氏)
奥州棚倉を想う・赤舘城趾(白河結城氏(小峰氏)・伊達氏)
お伊勢参り後の風景・結城神社(白河結城氏)
大阪の神社詣で紀行・阿倍野神社(北畠顕家)
南奥州仙台訪拝記・多賀城神社(北畠顕家)

今回は、上記に散見した「伊達氏」「南北朝の奥州」をそうまとめするとともに、紀行文的体制を整えることにしたいと想っている。ゆえに「神社」以外の話題が多々みられることをご承知願いたい。


信夫山
東北の玄関口「大宮」。北に向かう。
6時30分の新幹線にのれば7時38分に福島。約1時間で到着。昔に比べれば郷里も近くなったものである。
なつかしい福島駅。高架駅から窓の外をみれば「信夫山」が誇らしげに迎えてくれる。
「あぁ、福島に帰ってきたな。」
この感覚は、郷里の人間でなければわからないだろう。踏みしめる大地。その一歩一歩が懐かしさに包まれていた。

奥州を代表する歌枕の地。多くの名歌が詠まれてきた。信夫山をみれば、福島人はいやおうなしに感傷にふけりたくなる。

   しのぶ山 しのびて通ふ 道もがな 人の心の 奥も見るべく <伊勢物語 在原業平>

   陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れんと思ふ われならなくに<古今集 源融>

   早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺 <奥の細道 松尾芭蕉>

信夫山
福島駅から信夫山を遠望する

信夫山。福島の顔でもある。私はいつもこの山をみて、福島を実感する。
福島駅の北側に山裾をのばしていて、北上する新幹線電車はトンネルをほる。一方で東北本線は山裾を西側に迂回する。福島駅からさらに北上する時には、いつも気にする山でもあり、その山は福島の「霊峰」でもある。

山頂付近には「羽黒神社」。山裾の南には「福島県護國神社」「黒沼神社」。そして西に延びる山裾には「月山神社」「湯殿山神社」。
霊峰「信夫山」は、単峰ではない。
信夫山は西側の羽山(湯殿山)、中央部の羽黒山(谷山)、東側の熊野山(金華山)の三山(信夫三山)を総称している。
そして、別名を「青葉山」という。
仙台藩初代藩主伊達政宗は伊達氏の故地を偲び仙台城を「青葉山・青葉城」と称した。
そんな信夫山は、いまでも多くの人々から「偲び心」を喚起させる。

今回は一路、伊達郡に向かう。信夫山を登る日が、近いことをかんじつつ、その山を左手に遠望しつつ、私は「阿武隈急行線」に乗る。


阿武隈急行
阿武隈急行線は、福島駅から槻木駅を結ぶ。国鉄「丸森線」を第三セクターとして引き継いだ路線である。
東北本線は、福島−槻木間で急勾配が介在しており輸送量が増加した戦後に、増強できずに問題化していた。仙台以北の優等列車を常磐線経由で運転させていたのも、この区間の「急勾配」が問題だったため。
1953年に東北本線の迂回路として計画され、福島−丸森−槻木の「国鉄丸森線」の工事が1964に着工。
1968年に「槻木−丸森」間が開通。しかし東北本線の複線電化により輸送量増強の目途がついたために、国鉄丸森線の残り区間開業は見送り。非電化盲腸線のままの営業を余儀なくされ1981年に第1次特定地方交通線として廃止が承認され、ほとんど路盤の完成していた建設線も工事凍結。
1986年7月1日に「国鉄丸森線」は廃止され、第三セクター「阿武隈急行阿武隈急行線」として転換開業。
阿武隈急行は非電化暫定開業。2年後の1988年に工事が凍結していた福島−丸森間を延伸し、同時に交流電化工事を完了。かねてより念願であった福島−槻木間の全線開業となる。

阿武隈急行
保原駅入線の福島行き
阿武隈急行
やながわ希望の森公園前駅を発車した槻木行き
阿武隈急行
高子駅を発車する富野行き
阿武隈急行
高子駅に入線する槻木行き

福島駅を08時03分に発車した「阿武急」は、阿武隈川をわたり伊達郡の地を走る。最初の目的駅たる保原駅には08時21分に到着。
ここからが私の試行錯誤。
保原から霊山神社に行く手段。いや霊山神社にいく手段そのものが、ほとんどない。
選択肢はバスかタクシー。
バスは平日と土曜日しかなく、日祝は全面運休。そして今日は土曜日。
しかしバスといっても運転本数はシビア。
掛田から霊山神社に行くバスは土曜日に6本。0636・0900・1130・1630・1740・1840のみ(平成17年ダイヤ)。
そして掛田に行く方法は福島からバスにのれば0810発0856着の便がある。
しかし私は保原にいる。保原から掛田にいくバスの乗っていては、掛田発のバスに乗れない。
そもそも保原にいったのが間違いだったのかもしれないが、福島からバスという発想が頭になかったのだから致し方がない。
大前提として「掛田駅」にいきたかった、というのも問題ではある。

とにかく。保原からタクシーにのる。選択肢はこれだけ。しかし保原から霊山神社に行くのではなく、「掛田駅」までお願いする。
約10分で到着。保原−掛田のタクシーは1720円だった。


掛田駅
正確には「掛田バス停」であろう。しかし「掛田駅」と呼称。ここはもともと駅だったのだ。
ただしバス路線図は「掛田駅前バス停」。バスはもちろん「駅」に止まるのではなく「駅前」にとまるのだ。

掛田駅は「福島交通軌道線掛田線」の終着駅。現存する掛田駅舎は当時の名残。
福島交通軌道線は1908年に開業し、1971年に軌道線全廃。伊達郡の足としてながく親しまれていた。
私の父は伊達郡で過ごしていたので、路面電車への愛着が深いが、あいにく私が産まれた頃にはすでに「廃線」となっていたわけで、私は福島交通軌道線への思い入れはない。
ただ、祖父母宅のすぐちかくの保原町役場裏に「軌道線の電車」が置いてあり、子供時代によく遊んだゆえに、そういう懐かしさはある。
福島交通軌道線(路面電車)は福島駅を基点に福島から伊達郡を網羅していた
飯坂東線   :福島駅前−長岡分岐点−聖光学院前−湯野(飯坂温泉)  1967年に長岡分岐点−湯野廃止
飯坂東線枝線:聖光学院前−伊達駅前
保原線     :長岡分岐点−保原
梁川線     :保原−梁川
掛田線     :保原−掛田
そんな名残の福島交通軌道線の掛田線の名残。やはりこの「駅」をみてかったのだ。
それゆえに保原から349号線を走るのだ。意外とアップダウンの激しい道に驚きながら、ただしタクシーで。

旧・掛田駅
旧・掛田駅(掛田バス停)
旧・掛田駅
福島交通のバスが昼寝する旧掛田駅
旧・掛田駅
正面
旧・掛田駅
駅のおもむきがのこる・・・。
以下は、参考写真。このあとわたしは保原におもむいて、そして電車の有様に愕然とする。
新庁舎(伊達市市役所)に移転した旧保原町役場の裏で、ただ朽ちていく・・・。
旧保原町役場裏で朽ちる福島交通軌道線の電車
旧保原町役場裏で朽ちる福島交通軌道線の電車
役目を終えた旧・保原町役場とともに朽ちるのか・・・
役目を終えた旧・保原町役場とともに朽ちるのか・・・

掛田駅でボーっとする。タクシーで飛ばしたおかげで8時40分に駅に到着。
バス出発は9時。たっぷりと駅舎をぐるぐるする。

「掛田」

掛田の地は「懸田氏」の本拠地。
南北朝期には、伊達行朝(伊達7代)が掛田氏を配して南朝北畠顕家に味方。建武二年(1335)に懸田茶臼山を本拠にした懸田定隆は北畠顕家に従い阿倍野で顕家公とともに戦死。
応永20年(1413)に懸田定勝は伊達持宗(伊達11代)とともに信夫大仏城で挙兵し鎌倉公方足利持氏と敵対。
伊達天文大乱では伊達植宗に味方し伊達稙宗方の有力な拠点となった。天文大乱終息後に伊達晴宗によって掛田茶臼山城は破却。懸田俊宗は伊達晴宗に対して挙兵するも天文22年に伊達晴宗に攻められて懸田氏は滅亡。つねに伊達と共にあった懸田氏の終焉であった。


9時。乗客は私一人。慌ただしく乗り継いだ「霊山神社」行き。ここまでの熱意をそそぐ価値は本人にしか理解できないだろう。
伊達を愛し、伊達郡を愛でる。埼玉の地から恋い焦がれて、念願の伊達の土地に足を踏み込む心持ち。
伊達郡を代表する神社は、もちろん霊山神社。
私が大好きな南朝北畠顕家公ゆかりの神社。
その短絡的な発想が、ここまでの熱意で私を動かしていた。

バスに乗って霊山神社に向かう。霊山町内は200円という価格設定もうれしいバスであった。「福島交通バス」ではあるが町営バスを兼ねていて「霊山町代替バス」という扱いでもあった。
バスは9時18分に到着。乗客は私だけで、乗り降りは一度もなかったが定刻よりも2分遅れていた。
バスを降りれば、そこは霊山の空気。

全国には、忘れずの山「不忘山」と呼ばれた山がいくつかある。
霊山(標高825メートル)もそう呼ばれることがあった。
貞観元年(859年)比叡山延暦寺の円仁(慈覚大師)が山に寺を開き、釈迦が修行したインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえて、霊山(りょうぜん)としたという霊峰。

「霊山」。旧名を「不忘山」。子供の頃から、田舎に帰るたびに気になっていた「霊山」。
ここは山ではなく社ではある。しかし霊山の象徴でもある。
社頭に北畠顕家公の像が迎えてくれる。いよいよ来た。そんな私は、異常なまでに心を高ぶらせていた。


霊山神社(別格官幣社・りょうぜん神社・東北総鎮護)
<福島県伊達郡霊山町大石鎮座・朱印>

祭神
北畠親房公(大納言)
北畠顕家公(北畠親房の長男・権中納言・陸奥守・鎮守府大将軍)
北畠顕信公(北畠親房の次男・春日中将・陸奥介・鎮守府将軍)
北畠守親公(北畠顕信の次男・大納言・陸奥国司・浪岡北畠氏の河原御所の祖)

明治9年。明治天皇による東北御巡幸の際に伊達郡桑折町の半田銀山より遙かに霊山をのぞまれて、義良親王と北畠一門の霊を弔い、北畠一族を祀る神社の設立の義が生じたことにはじまる。
明治12年に信夫伊達両郡の信達地域の民は北畠一門を祀る神社創建を政府に請願。はじめ霊山山頂に定められたが、霊山支城の古屋館旧跡に明治14年に「霊山神社」創建。明治18年に別格官幣社に列せられた。
明治41年には皇太子(大正天皇)が御登山御参拝をされている。


時は南北朝。ちょっと長々と失礼。

北畠顕家は親房の御長子。
建武の新政で鎮守府大将軍に弱冠16歳であった北畠顕家が任じられ、後醍醐天皇の皇子である陸奥守・義良親王(後村上帝)を連れ国府多賀城に赴く。
足利尊氏が反旗を翻すと、奥州鎮守府将軍に任命された北畠顕家側と奥州の押さえとして派遣された足利一族の斯波家長奥州大将軍とのあいだで南北朝の争乱が奥州でも開始された。南朝の奥州勢が優勢であった際には京都の尊氏を駆逐するために、奥州軍は北畠顕家のもとはるばる京都まで遠征し、尊氏を九州まで追い落としその名を轟かしたこともあったが(建武3年1336)、その足場である奥州は足利尊氏が京都に戻り勢力を回復すると北朝方の相馬や岡本、南朝方の結城、伊達、田村などの争いでさらなる混沌としていた。

後醍醐天皇は、京都奪回のために再度、鎮守府大将軍北畠顕家に上洛を促す。建武4年(1337)1月に北畠顕家は義良親王を連れ守備困難となった多賀府を離れ南下するが状況は悪化しており、北畠顕家は伊達氏拠点の霊山城に入城。周囲を北朝方に取り囲まれ身動きが取れない状態となり、霊山そのものすら危うくなってきた。
8月、北畠顕家は、北党の猛攻のわずかなすきを見つけて霊山を突破。奥州の南朝軍を結集し、一路南下を開始するが、足利の本拠たる関東を突破するのに困難を極め各地で苦戦を重ねる。関東の実質的支配者たる小山朝郷の拠点・小山城で四ヶ月の攻防をしたのちに攻略。すぐさま、この年の12月23日に足利義詮(のちの二代将軍)の軍勢を打ち破り、鎌倉入り。鎌倉の斯波家長を自殺させる。
休む間もなく建武5年(1338)1月2日に東征を開始。東海道で次々と遮る足利勢を打ち破り、北畠顕家率いる奥州騎馬軍団が京を目指し、さらには打ち破られた足利勢も軍勢をまとめて東海道を追撃。
美濃の土岐頼遠が1月28日に関ヶ原にて北畠顕家勢を迎え撃つも、自らが追われる立場の顕家は火の玉となって勇躍突撃し撃破。
しかし顕家勢は、土岐頼遠を撃破したあと、京に向かわずに父である北畠親房のいた伊勢に転進してしまう。
2月21日に伊勢から奈良に進出し北上して京をうかがう。しかし伊勢に立ち寄った為か、一ヶ月の休息後の戦意は持続しておらず顕家勢は足利勢に強襲され敗退。顕家は河内に後退し、楠一族との連携を期すも、準備の整わないうちに、再び先制攻撃をうけてしまう。いままで軍中に連れていた義良親王を吉野に帰し、3月8日に軍勢をまとめて天王寺に突撃。和泉守細川顕氏を散散に打ち破ると、京都の足利方は本格的な大軍を高師直にたくし、高師直は勇躍出陣。
建武5年(北朝暦延元3年・1338年)5月15日。北畠顕家は敵主力の出陣を前にして死を予感し吉野の後醍醐帝に痛烈なる諫奏文を書く。5月22日に「石津の合戦」が勃発。北畠顕家軍は北上し、高師直軍は南下。主力が真っ向から正面激突し、最初は顕家軍が優勢ではあったが、奥州からの軍旅を癒しきれていない顕家軍と、京都に控えていた新鋭の師直軍との差は徐々に明白となり、遂には顕家軍は各所にて破られはじめる。顕家は吉野を目指し高師直軍を突破しようとするも激闘の末、阿部野の地にて露と消えた。このとき名和義高、村上義重らの諸将も壮烈な戦死をした。また顕家の戦死を知った奥州の南部師行と部下108名が顕家に殉死。
足利軍は18000に対し、顕家軍はわずかに3000。前年8月奥州出立以来、10ヶ月にわたる激戦の労苦は阿部野に消えた。


北畠親房は後醍醐天皇の信任篤く、吉野朝の要ともいうべき人物。
楠正成が湊川にて戦死し、新田義貞が北陸にて亡び、名和長年も亡く、そして建武4年(1337)に奥州鎮守府大将軍たる息子、北畠顕家が阿部野にて討ち死にしてからの吉野朝は、まさしく北畠親房の双肩にかかっていた。
東国・奥羽の要であった北畠顕家の死後、延元3年(1338)に起死回生の手段として南朝方は東国に一大軍船団を派遣。船団は北畠家の戦略拠点たる伊勢湊を出港するが、途中遠州灘で暴風雨におそわれ船団は散り散りとなってしまう。義良親王(後村上帝)と結城宗広・北畠顕信(陸奥介兼鎮守府将軍・親房の次子・顕家の弟)が乗船していた東北行きの船は三河湾篠島に漂流し、伊勢守となっていた北畠顕能(親房の三男)が伊勢に再び迎えいれる。東海に上陸予定だった宗良親王はもともと予定していた遠江に漂着しそのまま井伊城に入城。
そして東国に上陸予定だった北畠親房・伊達行朝の船は遠く常陸霞ヶ浦に漂流し、親房は小田城・関城に入城。伊達行朝は、自らの勢力にあった伊佐城に入城。
北畠親房は関東に7年間とどまり東国の宮方を指揮。結城親朝とひたすらに交渉(結局、親朝は北朝に与してしまうが)する一方で常陸小田城内で「神皇正統記」を書きあげる。
吉野、そして伊勢、さらには常陸の地で、京都奪回の戦略を重ねつつ北朝を悩ませつづけ北畠親房は、吉野帰朝後の正平9年(1354)10月18日に62歳で薨じられた。


北畠顕信は北畠顕家の弟。北畠顕家死後、兄の志を継ぐ。
陸奥介兼鎮守府将軍となった北畠顕信は、興国元年(1340)に鎮守府将軍として奥州入り。宇津峰城(福島須賀川)に入城し、一時期は陸奥国府を奪還。
しかし興国3年(1342)に北朝が一大攻勢を開始し南朝各城が落城。関東で長年苦闘していた北畠親房は伊勢に戻り、一大拠点であった関城・大宝城が落城。
興国4年(1343年)に伊佐城(伊佐氏居城。伊達氏発祥の中村氏)で孤塁奮戦していた伊達行朝も、伊達郡に退去。同じ年に陸奥国府をささえきれなくなった北畠顕信は、宇津峰宮守永親王(尊良親王の子守永親王)を奉じて再び須賀川の宇津峰城に後退。
正平2年(1347)には宇津峰城が落城し、北畠顕信は北奧に撤退。
正平6年(1351)に尊氏・直義兄弟の相剋が波及し、尊氏方の奥州探題畠山高国・国氏(二本松)と直義方の吉良貞家とが多賀国府近辺で争乱。やぶれた畠山高国・国氏は自害。この「観応の擾乱」の内部抗争の機をつかみ北畠顕信は、積極攻勢にでて多賀城国府を奪回。しかし翌年に吉良勢に奪還され宇津峰城に撤退。
正平8年(1353)には南朝方の一大拠点であった伊達行朝の霊山城が落城し、田村氏拠点でもある北畠顕信の宇津峰城も落城。
北畠顕信は出羽国の立谷沢城に撤退。東北の南朝は南部氏を中心として出羽・北奥羽で一大勢力を築く。
しかし、以後の北畠顕信は正平11年まで南出羽で奮戦しているも、その後の消息は不明。伊勢に戻ったとも奥州で没したとも言われている。


北畠守親は北畠顕信の次男。父のあとを次いで陸奥国司となる。
北畠顕家の子であった北畠顕成が南部氏の庇護を受けて浪岡で「浪岡北畠氏」を誕生させる。陸奥国司たる北畠守親の動向は奥州南朝の不鮮明さと共に不明な点が多いが、北畠守親は「浪岡御所」四代北畠顕義が幼少であったため、その後見役として浪岡に入り川原に御所を構え川原御所を称したともされている。また一説には守親が「浪岡御所(浪岡北畠氏)」をはじめたともされている。

霊山神社
北畠顕家公像
霊山神社
正面。後方の山が霊山支城の古屋館旧跡にして霊山神社
霊山神社
神門
霊山神社
境内
霊山神社
拝殿
霊山神社
本殿
霊山神社
正面参道・・・驚きの急勾配だった
霊山神社
正面参道からの徒歩専用入口
霊山神社 左:霊山方向をのぞむ

9時30分。麓から車道を兼ねているつづら折りの参道を登って、神門に到達。神門の左側には社務所があり、清々しさを感じる日差しの向こう側には社殿が鎮座している。日差しの照りつけの明るさが、南朝の白鳥であった北畠顕家を偲ぶには恰好の舞台を演出してくれる。
社務所で朱印を頂戴する。阿武隈のちょっとした雑談。電車とタクシーとバスを乗り継いできた私にちょっとあきれ顔。「このあとはどちらにまいられます?」との質問に「阿武急沿線の神社を詣でようかな」と返答。
ただもうしばらくは「霊山の風」を感じていたかった。

10時過ぎ。麓までもどってくる。私もいつまでもぼーっとしているわけにはいかなかったのだ。
携帯電話は圈外。公衆電話でタクシーを呼ぼうとするも、・・・この電話は壊れてますか??
しょうがないから商店で電話を借りる。ひさしぶりに、いや15年ぶりにぐらいに黒電話を使ったのですが。
ちょっと感動しつつ、黒電話でジーコジーコと回しながらタクシーを呼んで10時10分、霊山神社をあとにする。


参考文献
案内看板、由緒書き等。
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名大辞典


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