「奥州伊達郡をゆく〜阿武急沿線の宮詣で〜 その3・高子」
<平成17年9月参拝・11月記載>
その1・霊山 「伊達郡を想う「信夫山」「阿武隈急行」「掛田駅」「霊山神社」
その2・保原 「保原町」「保原ノ天照神明宮」「保原ノ厳島神社」
その3・高子 「奥州伊達氏発祥の地」「高子ノ亀岡八幡神社」
その4・梁川 「梁川」「伊達政宗・持宗の乱」「伊達天文大乱」「梁川ノ亀岡八幡神社」「梁川天神社」
その5・飯坂 「福島交通飯坂線」「飯坂ノ八幡神社」
「高子」
朝、保原駅から掛田に赴き、そして霊山神社から保原に戻ってきた私。
保原駅から二駅戻れば「高子駅」がある。
11時30分過ぎに駅に到着。駅から北側にこんもりとした岡がある。目指す場所は非常にわかりやすく、そして清清しいまでに神奈備型であった。
「奥州伊達氏発祥の地〜中世期の伊達一族」
高子。中世期に中村氏が居館を求めた地。すなわち伊達一族の始まりの地、なのだ。
福島県伊達郡の中世期は、すなわち伊達一族の歴史でもある。
常陸国中村氏が伊達郡の地頭として入部した建久元年(1190)から、鎌倉期・南北朝期・室町戦国期を経て、天正19年(1591)に豊臣秀吉によって伊達一族が伊達郡から移封されるまで、伊達氏と伊達郡はともに歴史を刻んできた。
源頼朝の奥州合戦。その時の功によって常陸国伊佐庄中村の常陸入道念西が伊達郡をさずかる。伊達念西はどこに居館したのか。桑折西山城説と保原高子館説。その高子が当地であった。
中村念西朝宗は伊達郡高子が岡に館を設けて「伊達氏」を称した、とされる。「高子が岡」は堅固を誇り、館の頂上には巨岩が表出し、岩上からは伊達郡が遠望でき、斜面は阿武隈川に落ちる要害の地でもあった。そして伊達朝宗は桑折西山に墓がある。高子が岡を要害の地として整備し、伊達郡郡地頭として桑折の常陸館に在したのであろうか。いずれにせよ伊達創業の歴史を刻むのが「高子が岡」。
初代朝宗から伊達郡を経営してきた伊達氏は南北朝期に波乱を迎える。
南北朝期の伊達惣領は、7代伊達行朝(行宗)であった。伊達行朝は、国守・奥州鎮守府将軍に任命された北畠顕家を中心とした奥州朝廷のブレーンとして建武政府を支えてきたが、足利尊氏が朝廷に反旗を翻すと、その余波は奥州をも巻き込むことになる。
北畠顕家側と足利氏から奥州の押さえとして派遣された足利一族の斯波家長奥州大将軍とのあいだで南北朝の争乱が開始。伊達氏・結城氏・田村氏らが北畠顕家・義良親王を奉じれば、相馬氏は斯波家長を支援。
建武3年(1336)。南朝奥州勢は足利尊氏を追討駆逐し京都まで馳せるが、奥州に戻れば相馬氏・岡本氏などと合戦を繰り拡げる混沌がまっていた。
後醍醐天皇は、京都奪回のために再度、鎮守府大将軍北畠顕家に上洛を促す。建武4年(1337)1月に北畠顕家は義良親王を連れ守備困難となった多賀府を離れ南下するが状況は悪化しており、北畠顕家は伊達氏拠点の霊山城に入城。周囲を北朝方に取り囲まれ身動きが取れない状態となり、霊山そのものすら危うくなってきた。
8月、北畠顕家は、北党の猛攻のわずかなすきを見つけて霊山を突破。関東・東海道で次々と遮る足利勢を打ち破り、北畠顕家率いる奥州軍団は京を目指し各地で激戦を繰り広げるも建武5年(1338)に天王寺にて奥州軍は潰滅。北畠顕家は戦死。
北畠顕家戦死後の伊達惣領行朝拠点の霊山城は北朝方の攻撃を凌ぎ、しばらくの小康状態が続いていた。
北畠親房が延元3年(1338年)に海路で常陸に入り、小田城に入城した際、伊達行朝はこれに従い、自身は一族の守る伊佐城入場城。常陸国中村の伊達祖発祥の中村氏居城の伊佐城にて攻防戦を繰り広げていたが、北畠親房が吉野の戻ると戦況は悪化し、常陸中村から奥州帰還。
期間後も南朝として奮戦するも、戦況はかんばしくなく、ついには伊達行朝も貞和3年に南朝一大拠点の霊山の落城を迎えて降伏。その翌年に行朝は没している。
南朝方として奮戦した伊達家も一度は衰退したが、次第に力を盛り返していた。8代宗遠9代政宗のころ勢力を広げ、特に9代政宗は伊達氏中興の祖と称されている。11代持宗のころ信夫荘に侵入しさらに勢力を拡張、伊達郡梁川城を拠点とし、12代成宗は足利義政に接し大膳大夫就任の礼と奥州探題職就任の礼、2度の上洛をしている。
「高子ノ亀岡八幡神社」(亀岡八幡宮)
(福島県伊達郡保原町大字上保原字丹露盤・高子)
高子岡城跡(高子館跡)は伊達氏の祖である伊達朝宗の居城跡。山上に鎮座する八幡宮は鎌倉の鶴岡八幡を勧請したものであり、亀岡八幡宮と呼称。伊達氏の移封とともに神社も移り、現在は仙台市川内亀岡町に亀岡八幡は鎮座している。
高子が岡遠望 |
高子が岡の亀岡八幡神社 |
亀岡八幡神社 |
果樹林のなかの参道 |
拝殿 |
本殿 |
山頂、名勝「丹露盤」 |
伊達郡を見おろす「高子が岡」山頂 |
高子が岡。中世伊達氏の居館跡。保原を郷里にしていながら、高子にそんな由来があるとも知らなかった。
高子といえば、子供心に「遊園地」の記憶があるが、その遊園地<高子沼グリーンランド>も廃園。そしていまは「高子沼」<高子沼の周りには金鉱山跡の坑口があり、伊達政宗がそれを隠すために堤を築いて高子沼をつくったという伝説もある>が茫然と水を蓄えているだけかとおもっていた。
ところがそこに神社があった。それも伊達氏発祥に由来する神社があった。
高子の駅をおりたち、山に向かってあぜ道をあゆむ私。そこに得も言われる興奮があった。伊達郡を郷里として、伊達の名前をサイト上で僭称している私としては、これ以上の感慨はなかった。
青空の下に独立した小さな山がある。その山の下には鳥居があり、一本の参道が延びる。その参道を登れば、両脇は果樹園となり、甘酸っぱい気持ちに包まれる。頂には小さな八幡様。さらに奧には展望台。
そこは歴史を刻み、伊達を物語る場所であった。今は、静かに神がおさまる山であった。
展望台は丹露盤という名勝。高子二十境の一つ「丹露盤」という全国区的には地味な歴史名勝。私もはじめて知った名勝。高子に居住した熊阪氏三代の白雲館の盟主であった熊阪覇陵定昭(1709−1764)が文化活動の中で名所「二十境」を定めたもの、という。
その丹露盤で、持参のパンを食する。ちょうど昼時の十二時。せっかく奥州福島にいるのだから、そんな味気ないパンを食するものどうかと思うが、私のカバンのなかには「ここで食べたい」という思いがあった。青空の下、伊達郡の上で、静かに岩に腰掛けて食する、この上ない贅沢がそこにはあった。のんびりと、のびやかに、伊達発祥の地で心を遊ばせる。また、忘れられない土地が一ヶ所胸の中にに刻まれたようであった。
12時20分。「高子駅」から阿武隈急行に乗り込んで「やながわ希望の森公園前」に向かう。着時間は12時40分。ほどよく眠くなる昼下がり。
伊達発祥の地から、伊達全盛期を迎える梁川に私は向かう。
伊達郡を、阿武急を、伊達の神社を辿る私の足どりは軽やかであった。
参考文献
保原町史・第一巻 通史
案内看板、由緒書き等。
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名大辞典