「南奥州仙台訪拝記・その2」
<平成16年3月参拝>

その1.ムーンライト仙台/塩竈神社/志波彦神社/御釜神社

その2.陸奥総社宮多賀城祉多賀城神社

その3.仙台市内神社(大崎八幡宮・青葉神社・仙台東照宮)

その4.竹駒神社


本塩釜駅からタクシーにのりこみ、陸奥総社宮に到着。「ここでいいの?」という疑問符を浮かべる運転手に礼をのべて下車。
時間は午前9時。この時間帯で塩竈を立ち去るという行動力に我ながら呆れてしまう。



陸奥総社宮」(陸奥総社・村社)
<宮城県多賀城市市川奏社鎮座>

主祭神:陸奥式内諸神

由緒
延喜式内社陸奥国100座を合祀する陸奥総社。多賀城政庁東門跡地と加瀬沼の間に鎮座。創立年代は明かではないが1000年をさかのぼるとされる。
陸奥国の三十一郡のうち延喜式内の大社は十五社、小社は八十五社列格しており、多賀城国府とともに当社は陸奥国の中心をなしていたとされる。
近世にいたり、伊達氏の崇敬があつく、享保19(1716)に社殿が改築されている。

陸奥総社
境内入口
陸奥総社
正面
陸奥総社
拝殿
陸奥総社
本殿

入口には陸奥国の延喜式内社100座の社名が列記してある。これだけでも「陸奥国総社」にきたのだな、と感慨深くなる。社殿はさほどに大きいわけではない。むしろ「総社」として考えると地味な部類だろう。
陸奥国という古代以来の巨大な国を信仰の面で支えてきたやしろ。多賀城国府とともに歩んできたであろう当社に敬意を表する。このあとは信仰の土地から政治軍事の中心地に足を向けるとしよう。

境内をゆっくりと散策し、手元の地図をひろげる。こころもとない地図ではあるが、ないよりかはまし。


「多賀城跡
総社宮から南下するとすぐさま「多賀城趾」の痕跡に出会う。史学出身の人間としては、ながめているだけでも楽しい空間。ゆっくりと空をみあげ、風土を感じ、そして遺跡にふれ歴史に思いをはせる瞬間。古代史を彩る空気を胸一杯に吸い込んで、私の心は豊かになる。青空の下で、両手を広げて、両手を回して、身体でよろこぶ。そんな多賀城趾のみちすがら。

小道を歩いていると作業着の人にであう。「おはようございます」「どこからきたの?」「ごくろうさまです」。会話が弾む。すらすらと歴史が口を飛び出す。私も歴史家のはしくれ、であった。どうやら城跡管理事務所の人らしい。

陸奥総社宮のほど近くにある外郭東門は国府多賀城と国府津(塩釜港)をむすぶ門。
そこから300メートルほどの開かれた丘陵地の小道を、のんびりと歩むと作貫地区に到達。
多賀城作貫地区は多賀城政庁の東に位置し、奈良平安期には役所として機能。中世期には豪族の居館、江戸期には塩竈神社の神官屋敷として使われてきたとされる場所。
その隣に塩竈街道に続く丘陵がある。ここが神亀元年(724)に大野東人によって奥州支配の為に築かれたとされる多賀城祉政庁跡。

多賀城跡
東門跡。右奧が陸奥総社宮の杜
多賀城跡
多賀城跡のみちすがら
多賀城跡
多賀城跡作貫地区
多賀城跡
多賀城跡政庁地区
多賀城跡
多賀城跡政庁地区
多賀城跡
多賀城跡政庁地区

本庁ともいうべき、城跡の中心に足をふみいれる。総社から1.2キロほど歩いてきた私は気がつかなかったが、この一体はかなりの高台であった。眼下に豊かな陸奥の平原が広がる。この地に来てみてわかることがある。「なるほど、奥州の要だ」という事実。この雄大なる台地に立ち、古代奥州人に想いをはせる。奥州の血をひく一人として。


「多賀城神社」

祭神:
後村上天皇・北畠親房・北畠顕家・伊達行朝・結城宗広等、南朝諸将

由緒
建武の新政によって弱冠16歳であった北畠顕家(親房の子)が陸奥守に任じられ、後醍醐天皇の皇子である6歳の義良親王(後村上帝)を連れ、そして親王の補佐役として建武中興の元勲であり南朝の要であった北畠親房らが、多賀城国府に下向。そして陸奥豪族たる伊達行朝や結城宗広らが陸奥南朝をささえ、多賀国府の評定衆として陸奥南朝をささえていた。親王は陸奥宮とよばれ、正式な陸奥太守となった。
北畠顕家のもとに再興された多賀国府は奥州小幕府と呼称されるほどの大政庁となり、東国の南朝一大拠点となった。

建武二年に足利尊氏が反旗を翻すと、奥州鎮守府将軍に任命された北畠顕家側と奥州の押さえとして派遣された足利一族の斯波家長奥州大将軍とのあいだで南北朝の争乱が奥州でも開始された。南朝の奥州勢が優勢であった際には京都の尊氏を駆逐するために、奥州軍は北畠顕家のもとはるばる京都まで遠征し、尊氏を九州まで追い落としその名を轟かしたこともあったが(建武3年1336)、その足場である奥州は足利尊氏が京都に戻り勢力を回復すると北朝方の相馬や岡本、南朝方の結城、伊達、田村などの争いでさらなる混沌としていた

足利尊氏が勢力を拡張していくにつれて後醍醐天皇は再度鎮守府将軍北畠顕家に上洛を促す。本拠地たる多賀城からも離れがたい状態であったが、苦心のすえ建武4年(1337)1月に北畠顕家は義良親王を連れ守備困難となった多賀府を離れ伊達氏を頼り南下。しかし況は悪化しており北畠顕家は霊山城に入城。周囲を北朝方に取り囲まれ身動きが取れない状態となり、霊山そのものすら危うくなってきた。8月、北畠顕家は、北党の猛攻のわずかなすきを見つけて霊山を脱出。宇都宮に向かうが、進路を妨げる敵が多く各地で苦戦を重ねる。この年の12月にやっと鎌倉に辿り着つ。

休む間もなく建武5年(1338)1月2日に鎌倉から東征を開始。北畠顕家と奥州兵はその後も各地で転戦し、2月に伊勢から奈良に向かい敗退。最後は5月に和泉で北畠顕家が戦死してしまう。

奥州の鎮守たる多賀城は北朝の手に落ちるも、観応の擾乱によって足利尊氏・直義が争うと、隙をついて顕家の弟である北畠顕信が正平7年(1351)に多賀国府を回復。しかし、一時的なものであり、北朝の吉良貞家によって奪回されてしまう。その後も南北攻防の焦点となるも、足利尊氏が斯波家兼を奥州探題に任命し斯波氏が奥州を現地を支配すると、徐々に政治の中心は斯波氏やのちの大崎氏に移り、多賀国府はその役目を終えてしまう。

多賀城神社としての由来に戻る。
後村上天皇をはじめとする南朝の諸将をまつる神社創建が計画されるも、大東亜戦争が勃発し計画は頓挫。
戦後、再び神社建立の気運が高まり、海軍工廠内に置かれていた奉安殿を払いうけ、昭和27年に政庁裏に社殿建立したことにはじまる。
昭和48年に現在地に遷座。

多賀城神社
多賀城神社
多賀城神社
多賀城神社

多賀城。歴史の流れをたどれば、枚挙にいとまがない。そんな濃厚な歴史の中で、私は南北朝の奥州に輝きをはなった北畠顕家に想いをはせる。陸奥人を率い二度の上洛でもって、北朝足利家を震え上がらせた人物。

今、多賀城で北畠顕家を想うのは尋常ではないのか。遺跡の中央で空をながめ、多賀城の空気を吸い込む。多賀城跡のすぐ北隣にその名も「多賀城神社」という社が鎮座している。小さな社は、大きな歴史を抱え、南北朝の御霊をまつっていた。

名残惜しいが、多賀城跡をあとにする。JRの駅まで歩こうと思う。地図をみると「陸前山王駅」と「国府多賀城駅」が同等の1.2キロほどの距離であった。どちらに歩いてもかまわないのだが、なんとなく先に進みたかったので「陸前山王駅」に向かう。
時間は10時ちかく。大体1時間を陸奥総社と多賀城祉についやしていたみたいだ。

ちょうど遅れていた東北本線に運良く乗り込み、さしあたっては「仙台駅」にむかう。そのさきはあいかわらず未定の範疇だが、単純明快に行きたいところに行けばよいのだろう。


参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版



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