「南奥州仙台訪拝記・その3」
<平成16年3月参拝>
その1.ムーンライト仙台/塩竈神社/志波彦神社/御釜神社
その2.陸奥総社宮/多賀城祉/多賀城神社
その3.仙台市内神社(大崎八幡宮・青葉神社・仙台東照宮)
その4.竹駒神社
JR仙台駅はなつかしい。なつかしいけど感覚的には初めてに等しい都市でもある。立体歩道橋から下におり、バス乗り場で右往左往する。どれにのればいいのか、という慣れない土地のバス路線に勝手に憤りを感じつつ、あきらめて窓口でうかがう。
窓口で路線図と乗り放題切符を購入し、まずは「大崎八幡宮」へと向かう。この神社は「国宝」であり、安土桃山の様式を色濃く残す神社。10時50分にバスを降り、社頭を仰ぐ。
「大崎八幡宮」(国宝社殿・村社)
<宮城県仙台市青葉区八幡鎮座・朱印>
主祭神:応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
由緒
平安期の征夷大将軍坂上田村麻呂が武門守護神であった宇佐八幡宮を岩手県水沢市に勧進し鎮守府八幡を創始したことにはじまる。
また、天喜5年(1057)に源頼義・義家父子が奥州に赴いた際に創建ともいう。正平16年(1361)に義家の末裔である大崎兼家が社殿を再興し、その後は奥州管領職であった大崎氏が宮城県遠田郡田尻町の本拠地にて守護神として崇敬してきたために大崎八幡宮と呼称された。
大崎氏滅亡後に支配権を引き継いだ伊達政宗は岩出山城内に小祠として御神体を移し、仙台開府後の慶長12年(1607)に仙台城乾の方角にあたる現在地に造営されたのが現在の大崎八幡宮である。なお、この際に伊達旧領の米沢にて代々崇敬してきた成島八幡宮を合祀している。
安土桃山建築の美をつたえている当社本殿は国宝、長床は重文に指定されている。
*本殿は平成16年3月時点で修復作業中
明治4年に村社に列格し、大崎八幡神社と呼称。平成9年に大崎八幡宮の呼称に復した。
正面大鳥居 |
石段上からのがめる |
参道 |
拝殿(本殿は修復中・・・) |
期待に胸をふくらませて、石段をのぼり参道をすすむ。そして拝殿前でため息。本殿は修復工事中、だった。そういうときもあるさ、ということで参拝。修復工事の時に赴くのは面白くないが、後世に伝えるためには欠かせないことでもある。詣でたという事実に喜び、修復後の再訪を期待。
バス路線はわからない。途中で乗りかえるという器用な芸当もできないので、一度素直に駅まで戻る。駅まで戻って次に再びバスに乗り込む。向かう先は「北仙台駅」のバス停。駅であるなら電車で行きたいところではあるが、バス乗り放題切符があるのならばそれを有効活用したほうが良いに決まっている。ただ、青春18きっぷを使用しているからJRも乗り放題、ではあるのだが。単純にバスの方が接続が良かっただけ、ともいう。
バスに揺られて「北仙台駅」到着。ここから「青葉神社」まで歩く。あらかじめ地図で確認しており、さらには手元の地図を見ながら歩いているはずなのだが、迷う。不思議なものであった。
どうやら曲がる道を間違えたらしい。ぐるっと迂回するかたちで、疲労を蓄積させて神社前に到着。
時間にして12時30分だった。
「青葉神社」 (県社)
<青葉町鎮座>
主祭神:武振彦命(タケフルヒコ命=伊達政宗公)
由緒
明治4年(1871)に仙台伊達藩主伊達宗基は版籍奉還し東京に赴いた。そのときに旧藩士・領民らが藩祖政宗公の大功徳を慕って廟祠建立を請願。明治7年11月に青葉神社が創立となった。
青葉神社正面 |
境内風景 |
拝殿 |
社殿横影 |
鬱蒼たる樹木に覆われる石段をゆっくりと登り、参道を歩む。気持ちとしては城跡のような気配。どことなくそんな気配が漂っているのも、当社が小高い丘に鎮座しているからだろう。
急に視界がひらける。木々の隙間からさしこむ日差しが参道を明るく照らす。本殿では祓いの儀式を行っているらしい。一組の家族連れが頭を垂れていた。そんな気配をかんじながら参拝をする。伊達政宗という奥州が生んだ英雄に敬意を表しつつ。
極めて静かな境内は私一人で満喫するのは広すぎる。下界の喧噪も遮られ、もったいないばかりに静寂を楽しむ。
青葉神社の石段を下り、神社前の道路に戻る。こちらもこちらで嘘のように賑々しい喧噪に包まれてる。神社という媒体によって両極端な気配を醸し出すのも、また一興であろう。
迷うことなく道なりに歩んで、北仙台駅に到着。しばしの電車待ちのあと、一駅隣の東照宮駅を目指す。東照宮駅は「時間無人駅」であった。時間によって駅員がいたりいなかったりする駅。そして自動改札駅でもある。
私は青春18きっぷ利用者。冷静にならなくても・・・通れないし。一人取り残された私はインターフォンで「18きっぷ」ゆえの通過許可を願う。
「仙台東照宮」(県社)
<宮城県仙台市東照宮鎮座・朱印>
祭神:徳川家康公
天正19年(1591)に徳川家康が葛西大崎一揆の視察を終えて帰途のおりに、当時は天神社境内であった当地にて休息されたとされ鎮座地に選定されたという。
仙台二代藩主伊達忠宗は慶安2年(1649)に東照宮造営を徳川家光に願い出て許可され、仙台藩の総力を挙げて5年後の承応3年(1654)3月に完成した。
以後は、伊達氏代々の守護神としてあつく崇敬された。明治維新後に藩の保護をはなれ一時衰退するも、氏子の整備により整備。明治12年に郷社列格し、大正4年に県社に昇格した。
昭和10年に不慮の火災によって幣拝殿が焼失。昭和39年に復している。昭和28年に本殿・唐門・透塀・石鳥居(附石燈籠34基)が重文に指定。昭和55年に随身門(附左右袖塀)が重文に指定されている。
正面 |
石鳥居(重文) |
参道 |
参道石段は4.3.4.3.3.4.4.3.2.4.3.4のリズム |
随身門(重文) |
拝殿 |
拝殿横姿 |
唐門・透塀・本殿(重文) |
本殿(重文) |
東照宮から真っ直ぐに道が延びる |
13時15分。
駅のほど近くに鎮座して東照宮は距離にして300メートルほど離れている。
線路からまっすぐに歩んで、質素ながらに豪壮さをかんじさせる重文の石鳥居をぬける。石灯籠を両脇にしたがえた石段の最上部には、落ち着き払った重厚な随身門の姿を捕らえることができる。
東照宮の石段はリズミカルとも言うし、不均等とも言う。通常の石段は歩幅は一定に延びるもの。ところが当社の石段は、途中途中で段数がとぎれる。それが不均等なようでもあるが、斜面を巧みに利したバランスで配列されているのが極めて興味深い。そんな石段をのぼりきると、随身門を仰ぎ見る形になる。重要文化財たる随身門は歴史の風雪が感じられ、東照宮一般の絢爛豪華な印象とは裏腹な落ち着いた質朴さに、反面的な豪壮さをかんじさせてくれる。
そのさきの石段をのぼると、社殿に出会える。社地は開放的であり、社殿は格調高い気配を漂わせていた。
いつもどおりに札所で朱印を頂戴し、改め境内を散策する。
本殿・唐門も重要文化財に指定されている建築物。拝殿とは一線を画されている。奥州大名たる伊達氏の渾身を込めた東照宮は、その姿を趣向をこらしており、見るものに飽きを感じさせない高貴な気配を漂わせる。
この先は完全に未定。ゆっくりと境内を散策し、JR仙山線にのりこみ仙台駅まで戻る。
さてどうしよう。もう予定は皆無。大まじめに皆無。
2時をすぎるころあい。余裕があれば青葉城趾と護國神社に赴きたいところだが、もう一度バスに乗るのも時間が心配。
せっかく仙台にいるのだから、ということで牛タンなどを食しながら、さらにぼーっとする。
そろそろ疲れてきたようだ。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版