「大坂の神社詣紀行・その2」
<平成15年3月4月参拝・平成15年7月記>

その1・目次/「大坂へ」「大鳥神社(和泉国一の宮)」「住吉大社(摂津一の宮)」

その2・目次/「阪堺電気軌道」「阿部野神社」「今宮戎神社

その3・目次/「坐摩神社(摂津一の宮)」「生國魂神社」「高津宮」

その4・目次/「四条畷神社」


「阪堺電気軌道」
 大阪らしさを演出する路面電車。もともとは住吉大社と四天王寺をという大阪を代表する寺社を結ぶ計画から始まったという。
 明治30年に大阪馬車鉄道として創業し、明治42年に南海鉄道(南海電鉄)に合併される。しかし赤字対策として南海電鉄は昭和55年に子会社として再発足させ阪堺電気軌道として大阪と堺をむすぶ紀州街道の重要な足として親しまれている。

阪堺電気軌道
天王寺駅前
阪堺電気軌道
実際は専用軌道が多い

 やっぱり、路面電車は愉快やなあ、という感慨と共に私はガタガタとゆられる。
 住吉大社の真正面から路面電車に乗り込める交通の良さ。電車だけあって運転間隔も豊富。それゆえに住吉さんで長居をしてしまい、ちょっと予定もあやしくなる。もっとも予定らしいものはどこにもなく、それこそ4時30分頃に「なんば」にいれば良いだけ。
 ただ住吉さんのちかくにある生根神社とかには行き忘れたりしてしまったが。目的駅の「天神ノ森」はすぐそこ。天神さんがあるらしいが、とにかく私は阿部野神社を目指す。



「阿部野神社」(別格官幣社)
朱印・大阪府大阪市阿倍野区北畠鎮座>

祭神:
北畠親房公(きたばたけちかふさ)
北畠顕家公(きたばたけあきいえ)

由緒:
 北畠親房は後醍醐天皇の信任篤く、吉野朝の要ともいうべき人物。
 楠正成が湊川にて戦死し、新田義貞が北陸にて亡び、名和長年も亡く、そして建武4年(1337)に奥州鎮守府将軍たる自らの息子、北畠顕家が阿部野にて討ち死にしてからの吉野朝は、まさしく北畠親房の双肩にかかっていた。
 東国・奥羽の要であった北畠顕家の死後、状況を打開する為、延元3年(1338)に起死回生の手段として南朝方は東国に一大軍船団を派遣。船団は北畠家の戦略拠点たる伊勢湊を出港するが、途中遠州灘で暴風雨におそわれ船団は散り散りとなってしまう。
 義良親王(後村上帝)と結城宗広・北畠顕信(陸奥介兼鎮守府将軍・親房の次子・顕家の弟)が乗船していた東北行きの船は三河湾篠島に漂流し、伊勢守となっていた北畠顕能(親房の三男)が伊勢に再び迎えいれる。
 東海に上陸予定だった宗良親王はもともと予定していた遠江に漂着しそのまま井伊城に入城。
 そして東国に上陸予定だった北畠親房の船は遠く常陸霞ヶ浦に漂流し、小田城、次いで関城に入城。関東に7年間もとどまり宮方を指揮し、結城親朝とひたすらに交渉(結局、親朝は北朝に与してしまうが)する一方で常陸小田城内で「神皇正統記」を書きあげる。
 吉野、そして伊勢、さらには常陸の地で、京都奪回の戦略を重ねつつ北朝を悩ませつづけ北畠親房は、吉野帰朝後の正平9年(1354)10月18日に62歳で薨じられた。

 北畠顕家は親房の御長子。建武の新政で鎮守府大将軍に弱冠16歳であった北畠顕家が任じられ、後醍醐天皇の皇子である陸奥守・義良親王(後村上帝)を連れ国府多賀城に赴く。
 足利尊氏が反旗を翻すと、奥州鎮守府将軍に任命された北畠顕家側と奥州の押さえとして派遣された足利一族の斯波家長奥州大将軍とのあいだで南北朝の争乱が奥州でも開始された。南朝の奥州勢が優勢であった際には京都の尊氏を駆逐するために、奥州軍は北畠顕家のもとはるばる京都まで遠征し、尊氏を九州まで追い落としその名を轟かしたこともあったが(建武3年1336)、その足場である奥州は足利尊氏が京都に戻り勢力を回復すると北朝方の相馬や岡本、南朝方の結城、伊達、田村などの争いでさらなる混沌としていた。

 後醍醐天皇は、京都奪回のために再度、鎮守府大将軍北畠顕家に上洛を促す。建武4年(1337)1月に北畠顕家は義良親王を連れ守備困難となった多賀府を離れ南下するが、状況は悪化しており北畠顕家は霊山城に入城。周囲を北朝方に取り囲まれ身動きが取れない状態となり、霊山そのものすら危うくなってきた。
 8月、北畠顕家は、北党の猛攻のわずかなすきを見つけて霊山を突破。奥州の南朝軍を結集し、一路南下を開始するが、足利の本拠たる関東を突破するのに困難を極め各地で苦戦を重ねる。関東の実質的支配者たる小山朝郷の拠点・小山城で四ヶ月の攻防をしたのちに攻略。すぐさま、この年の12月23日に足利義詮(のちの二代将軍)の軍勢を打ち破り、鎌倉入り。鎌倉の斯波家長を自殺させる。
 休む間もなく建武5年(1338)1月2日に東征を開始。東海道で次々と遮る足利勢を打ち破り、北畠顕家率いる奥州騎馬軍団が京を目指し、さらには打ち破られた足利勢も軍勢をまとめて東海道を追撃。
 美濃のバサラ大名たる土岐頼遠が1月28日に関ヶ原にて北畠顕家勢を迎え撃つも、自らが追われる立場の顕家は火の玉となって勇躍突撃し撃破。
 しかし顕家勢は、土岐頼遠を撃破したあと、京に向かわずに伊勢に転進してしまう。伊勢には顕家の父である北畠親房がいた。なんといっても、顕家は21歳。ふと魔がさしてしまったのか。ただこの空虚たる転進が、好機を逸してしまった。
 2月21日に伊勢から奈良に進出し北上して京をうかがう。しかし伊勢に立ち寄った為か、一ヶ月の休息後の戦意は持続しておらず顕家勢は足利勢に強襲され敗退。顕家は河内に後退し、楠一族との連携を期すも、準備の整わないうちに、再び先制攻撃を受けてしまい、いままで軍中に連れていた義良親王を吉野に帰し、3月8日に軍勢をまとめて天王寺に突撃。和泉守細川顕氏を散散に打ち破ると、京都の足利方は本格的な大軍をバサラ大名の高師直にたくし、高師直は勇躍出陣。
 建武5年(北朝暦延元3年・1338年)5月15日。北畠顕家は敵主力の出陣を前にして死を予感し吉野の後醍醐帝に痛烈なる諫奏文を書く。5月22日にのちに有名となる「石津の合戦」が勃発。北畠顕家軍は北上し、高師直軍は南下。主力が真っ向から正面激突し、最初は顕家軍が優勢ではあったが、奥州からの軍旅を癒しきれていない顕家軍と、京都に控えていた新鋭の師直軍との差は徐々に明白となり、遂には顕家軍は各所にて破られはじめる。顕家は吉野を目指し高師直軍を突破しようとするも激闘の末、阿部野の地にて露と消えた。このとき脇についていた名和義高、村上義重らの諸将も壮烈な戦死をした。また顕家の戦死を知った南部師行は、その部下108名が顕家に殉死したという。

 足利軍は一万八千に対し、顕家軍はわずかに3000。前年8月奥州出立以来、10ヶ月にわたる激戦の労苦は阿部野に消え、顕家公に御魂は護國の神として、今は静かに鎮まっている。

 阿部野神社の鎮座地は、北畠顕家が足利軍と激戦した古戦場の地。明治15年1月に阿部野神社と号して創立。同23年3月に御鎮座、その後「別格官幣社」に列格。
(神社由緒書きでは御鎮座が23年だが、東京堂出版の神社辞典及び角川地名辞典は御鎮座を20年とす。どちらが誤植?)
 昭和20年に戦災で社殿が焼失し、現社殿は昭和43年に再建されたもの。

 摂社には「御魂振之宮」「勲之宮」などがある。「御魂振之宮」は奥社として三輪大神・少名彦大神・天照大御神・菅原道真公。「勲之宮」は顕家公に殉じられた南部師行と一族家臣の御霊を祀っている。

 ちなみに「阿部野」と表記するのは阿部野神社と近鉄南大阪線の阿部野橋駅。その他は「阿倍野」と表記。南大阪線内でも「阿部野橋駅」の次は「阿倍野駅」だったりする。ほか「あべの橋」という表記もあるが・・・。

<御由緒書・神社辞典・神まうで・保原町史第一巻・角川地名辞典大阪府他を参照>

余談ながら、顕家公について由緒以外に書きすぎた・・・。
ちなみに私の本籍地は奥州伊達郡なものでつい・・・。霊山を望める地なので・・・。

阿部野神社
正面参道
大日本は神國なり、とあります
阿部野神社
阿部野神社正面
阿部野神社
拝殿遠望
阿部野神社
拝殿
阿部野神社
北畠顕家公像
住宅地の閑静な神社。
阿部野石津の激戦も忘却のかなた。
淡く咲く桜の花弁が、
そこはかとなく顕家公を偲ぶよすが・・・。


 普通に道に迷いました。10ほど歩いて(本来は5分もかからない)坂の中の住宅密集地をなんとか抜けると、台地のうえに幼稚園があった。経験上、幼稚園は神社と関係が深いものなので、さらに歩くとやっと鳥居を発見。あとから気が付いたが、どうやら脇鳥居だったようだが。つまり正面をまっすぐあるくと阪堺電気軌道の線路に辿り着いたりして、帰り道がとても口惜しかった、というだけ。

 阿部野神社。なんというか、心がはやる。奥州伊達の人間として、冷静ではいられなかった。私の郷里たる「霊山」の地をたつこと10ヶ月。あまたの奥州の軍勢が露と消え、ただただ若き顕家公の道しるべとなり倒れていく光景が目に浮かぶ。
 拜殿前で、労苦を想う。ただただ顕家公と東国の同朋を想う。
 想わず、親房公を忘れるほどに。

 社務所は無人。というのもなにやら本殿の方でお祓いの儀式をしているようだったから、それは承知。ゆっくりと参拝して、境内を回る。社殿をかこむ狭い回廊は南朝の略歴が記載されている。普段は流し読む私も、なんとはなく、噛み締めるように熟読する。単純明快に太平記の世界を思い起こさせてくれる神社を満喫する。

 儀式も落ち着いたらしいので、朱印を頂戴する。なんとはなくに「武蔵国からきたの? 御苦労様です」といういつものやりとり。よくやるやりとりではあるが、こんな心遣いが私にはうれしい。


 阿部野神社をあとにする。
 今度は阪堺電気軌道にて恵比寿町まで向かう。すなわち終点の駅まで。恵比寿町は「えべっさん」がある街だから、商業街。
 とりあえず空腹だったので食事をして、から「えべっさん」にむかう。西に200メートルほど歩く。ちなみに北に向かうとそのまま「大阪の電気街」に突入するが、今回は普通に神社詣で。電気屋で遊んでくる気分ではないし、第一、今の職場が秋葉原なので、仕事的な観察眼になりそうなのが良くない。



「今宮戎神社」(郷社)
<大阪府浪速区恵比寿町鎮座>

祭神:
天照坐皇大御神・事代主命・素戔嗚命・月読命・稚日女命

由緒:
 通称、「えべっさん」
 創建は推古天皇8年に聖徳太子が四天王寺の西方守護神として鎮斎し、市場鎮護の神とされたという。大阪の庶民信仰である「えびす神」を祀る神社として近世以来、親しまれ信仰されてきた。
 後宇田天皇のころ、宮中に鮮魚を奉献したという記録があり、以後南北朝期にはとぎれていたが、江戸時代には毎年正月に鮮魚を奉献していた。宮中に鮮魚を奉じるために、京都四条油小路に家屋を拝領するが、この地が八坂神社(祇園社)の氏地であったことから祇園祭にも奉仕するようになったという。
 毎年1月9・10・11日に行われている祭礼の「十日戎」は大阪の代表的な新年行事として全国的に名高い。

 社殿は昭和20年3月に戦災にて焼失。同31年11月に再建された。

 ちなみに角川地名辞典によると旧村社。神社辞典によると旧郷社。

今宮戎神社
正面入口
今宮戎神社
拝殿
今宮戎神社
本殿
今宮戎神社。
おもったほどには大きくはなかった。

境内の中心軸がずれているような気がします。
鳥居の先、ちょっと右側に社殿があるのがわかるとおりに。

 正月のえべっさんがあまりにも有名だから、なんとなく立ち寄ってみた。予想よりもちいさな神社。それでも、大阪の中心部の神社としては広い境内なのだろう。ただ、境内が殺風景なのには苦笑ぎみではあったが。
 あまり歴史的風情が湧いてこず、私のイメージも希薄。あの正月の熱気が微塵にも感じられない境内は、私以外は誰もおらず、ただ商業地の神様として静かに眠っているかのようだった。

 そろそろ時間が心配になってきた。そうはいっても1時30分。ただ、私はせっかちだし、荷物も邪魔になってきたのでさきにホテルに行こうかと思う。
 ホテルは谷町四丁目。大阪の地下鉄なんてぜんぜん分らない私であったが、この今宮戎神社から200メートルほど東に歩いて「大国町駅」から「谷町四丁目駅」にむかう。
 予約していたホテルには2時過ぎに到着。まさかこのまま休憩するわけにもいかないので荷物だけ部屋に置かせて貰う。部屋の窓からは大阪城の天守閣がみえる好立地。城に行く時間はないのだけれど。
 それにしても「谷町四丁目」は良いところ。お堀のほとりで、近くにはNHK大阪に府庁に府警本部。どうも官公庁の中心地で私が場違いなようなところ。そんなホテルは新装したばかりの駅徒歩3分なホテルで、ネットで割引予約。さらには部屋にはインターネット繋ぎ放題環境。
 いいところだけれども、この時間からネットをやるわけにもいかないので、荷物を置いて、神社散策を再開。続いては地下鉄「本町駅」の坐摩神社にむかう。さいわいにして「谷町四丁目駅」からは二つ先。


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