「大坂の神社詣紀行」
<平成15年3月4月参拝・平成15年7月記>
その1・目次/「大坂へ」「大鳥神社(和泉国一の宮)」「住吉大社(摂津一の宮)」
その2・目次/「阪堺電気軌道」「阿部野神社」「今宮戎神社」
その3・目次/「坐摩神社(摂津一の宮)」「生國魂神社」「高津神社」
その4・目次/「四条畷神社」
「大坂へ」
3月末日。
大坂に用事があった。たいした用事ではなかったが、それでも大坂に行く。普段の私なら間違いなく夜行列車を選択するであろう大阪行きではあるが、今回はなぜだか飛行機を選択してしまう。大坂ぐらいなら新幹線と飛行機の金額的優越と時間的優越をはかりにかける位の価値はある。
早朝の空港。空港は朝から活動していた。いや24時間活動しているのだろう。
羽田に向かうモノレールは混み合い、空港待合室はニュースで見かけるような雑踏。はじめての空間は何もかもが物珍しかった。私は飛行機に乗ったのが物心ついて以来、初めてのこと。幼年期。それこそ記憶にもないぐらいの幼年期に一度だけ飛行機とやらには乗ったことがあるらしいが、そんなことは乗ったという記録にははいらない。自分でチケットを取得して搭乗に至るまでの一連の流れをわかっていない私。はじめてだらけの貴重な経験に、飛び立つ前からドキドキしていた。
見よう見まねで、案内を受けつつ搭乗手続きを無難にこなし、飛行機のイスに落ち着く。窓際で、なおかつ添乗員作業場の近く。うれしいやら、なにやら、とにかく私の観察眼は冴えわたっていた。
飛行機は羽田空港を飛び立つ。普通に飛び立つ。フライト時間はちょうど1時間。だいたい7時に東京にいる人間が8時に大坂にいるのが、なにやら可笑しかった。
地図をみる。手元の地図をみながらはるか下界に広がる国土をながめる。まったく地図の通りであった。
遠江の海岸をなぞり、伊勢志摩を拝む。なにやら神宮さんの気配を感じてしまうぐらいに私の感覚は空の上から敏感であった。大和国を空から辿る。まさしく大和国らしい古墳群が目に飛び込む。
古墳の名前まではわからないが、古墳であることはわかる。歴史の教科書でみた、そのままの航空写真。それをなんの変哲もない飛行機の窓からながめるとは予想だもしなかった。そもそも、飛行機からは雲しか見えないだろう。風景なんて拝めないだろう、といった、そんな感覚でいたのだから。
朝8時30分。大坂伊丹空港。街の中の空港というが、空港はただ広く、とくに猥雑な感じもしない。大坂という土地は精神感覚的にはあまり芳しくない。ただ和泉河内摂津という歴史的美称は、その言霊を具現化するだけで、得も言われぬ心地よさを感じる。
伊丹空港に着いたは良いが、このあとの予定はかなり空虚。なんとなく「一の宮」に行こうとしか考えていない。夕方4時5時ごろには「なんば」に居なくてはいけないというのが明確な予定。私が大坂に来た理由はとある「ライブ」に参加するためだから。
とりあえず、目の前にいたバスに乗ってみる。行き先は「なんば」。これで方向は確定。実は兵庫方面と大阪方面でも迷っていたのだ。
バスで爆睡すると、「なんば駅」に到着する。ここから南海電鉄で南下することになりそうだ。
関西の私鉄は正直、苦手。寝ぼけ眼の私はここから時間的無駄遣いをして参拝を開始してしまう。
この時の経路は
「南海なんば駅」−「浜寺公園駅」−徒歩15分−「大鳥神社」−「JR鳳駅」−「天王寺駅」−「阪堺電気軌道」−「住吉大社前」−「住吉大社」
という手順。
なにが無駄かというと天王寺まで戻るのがおかしい。鳳−天王寺−住吉の行き来が時間的無駄ではあったが、そこはしょうがない。私は「浜寺公園駅」にいきたかったのだ。もっともそれも「阪堺電気」でいけばよいのだが。
南海電鉄・浜寺公園駅本屋 |
朝9時30分頃。浜寺公園駅に到着。どうにも選択肢を間違えた気分。
私は鉄道ファンでもある。鉄道建築物にもそれなりの思い入れがある。それなのに駅をながめるために東口から西口まで歩いただけでかなりお疲れモード。駅舎で佇むが、所詮はそれだけ。写真を撮ったらながめるだけ。
意を決して大鳥神社まで歩くことにする。極めて直線的で面白みに欠ける道路を歩くこと20分。目の前には「ここに神社があるぞ」と強烈な個性を発している森がある。それも正面突き当たりに。
「大鳥神社」(大鳥大社・式内名神大社・和泉国一の宮・官幣大社)
<朱印・大阪府堺市鳳北町鎮座>
祭神:
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
大鳥連祖神(オオトリムラジノミオヤノカミ)
由緒:
月次新嘗の官幣に預かる延喜式内名神大社。和泉国一の宮。防災雨祈の御併願社八十五社の一つ。
日本武尊が東征帰路に薨去なされ、その御屍が白鳥と化して飛び立ち、最後に当地に留まられたことから、社を建立して日本武尊を祀ったことに始まるという。(1850余年前)
大鳥連祖神は和泉国に栄えた神別であり、大中臣と祖先を同じくする大鳥氏という氏族の祖を祀ったもので、天児屋根命を祖先とする。
明治四年、官幣大社に列格。
本殿は大鳥造と呼称される独特の建築様式。構造は出雲大社造に酷似しており、古い形式を伝えている。社殿は天正年間の兵乱で焼失後に慶長7年に豊臣秀頼、寛文二年に徳川家綱の命により再建。明治38年に雷火の為に炎上し、現社殿は明治42年に再建されたもの。
境内は1万5千余坪、白鳳が飛来してこの地に留まり、一夜にして種々の樹木が繁茂したことから「千種の森」と呼称されている。
摂社の大鳥美波比神社・大鳥北浜神社・大鳥浜神社・大鳥井瀬神社は式内社。本社とあわせて「大鳥五社明神」と称せられた。
<御由緒書参照>
大鳥大社・正面 |
大鳥大社・本社 |
外拝殿 |
大鳥大社・内拝殿 |
本殿 |
摂社・大鳥美波比神社 |
正面に大鳥神社がみえてくる。社号標と鳥居の前には横断歩道と信号がある。なにやら信号機が神社正面の気の流れをふさいでいるような感じ。ただ、流れを考えると社号標自体が中央にドカンと佇んでいる。
境内を歩むとヤマトタケルの像が目に入り、その先に車が止まっており、その左側に本社があった。車は丁度祓いを受けているらしく、写真撮影的に邪魔。とはいうものの私は待つ以外にすることがない。
人の気配がとぎれ、そして子供連れの御宮詣で集団が押し寄せる。神社が呼吸をしているかのように静動が明白であった。
朱印を頂く。その間に拝殿で参拝をすますのもいつも通りの流れ。拝殿はまったく拝殿らしくなく私としてもなれない拝殿は落著きがない。大鳥造りの本殿があり、本殿は回廊で囲まれている。本殿正面の内拝殿から別棟の柱のみの建築物が細長く延びており、それがすなわち外拝殿。この拝殿は四方にひらけており、その気になればすぐにでもあがれる構造。さすがにそんな気は起きないが。
摂社にも詣でるが、私はいつも通りに勉強不足。摂社が式内社であることを存じていなかった。おかげさまで、扱いはかなり希薄。それがそこはかとなく口惜しい。
大鳥大社をあとにしたのが10時15分。そしてその30分後に天王寺駅に私はいた。本来なら浜寺公園まで戻ったほうが安上がりなのだが、もう歩きたくないので安易な電車移動。JR鳳駅からJR天王寺駅まで戻って、大阪の路面電車たる阪堺電気軌道に乗り込む。
そういえば今日はなにも食べていない。仁徳天皇陵の脇を電車で素通りしていたことに思いもよらなかったぐらゐなので(今、地図を見て気が付いた)、とにかく精神的に頭が回転していなかった。とにかく空腹に思いをよせながら、空腹が頭を支配する中で「阪堺電気軌道・乗り放題切符」を片手にひさしぶりの路面電車を楽しむ。かなりうとうとして、降りるべき駅を通り越して終点の住吉公園までいってしまったが、公園からでも大社は目の前。それぐらいは問題ではない。
ただ、今は腹ごしらえが必要なだけであった。なにか食べておかないと思考力行動力がついていかない状態なので。
「住吉大社」(式内名神大社・二十二社の一社・摂津国一の宮・官幣大社)
<朱印・大阪府大阪市住吉区住吉鎮座・国宝>
祭神:
第一本宮:底筒男命(そこつつのをのみこと)
第二本宮:中筒男命(なかつつのをのみこと)・・・三神を総称して住吉大神
第三本宮:表筒男命(うわつつのをのみこと)
第四本宮:息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)
由緒:
住吉大神は、別名を住江大神・墨江大神とも称し、いわゆる筒男三神の総称。
伊弉諾尊が黄泉の国穢れをはらうため(詳述)、御祓をされたときにお生まれになった神々。
神功皇后は第14代仲哀天皇皇后にして、応神天皇の母君。仲哀天皇と共に九州にむかわれ、天皇崩御後も果敢に朝鮮半島に出兵し国威を発揚。半島からの帰途、住吉の地に住吉大神を鎮座された。
仲哀天皇の御代。九州の熊襲は、新羅と連合ししきりに反抗していた。仲哀天皇は神功皇后とともに九州に遠征するも途中で崩御。しかし神功皇后は住吉大神の御神託によって熊襲を平定し、反抗の拠点である新羅に出兵。このときも住吉大神の御神託により進撃し新羅が降伏。
新羅からの凱旋帰路、住吉大神の御神託により荒魂を下関の住吉神社として奉斎し、和魂は現在の住吉大社の地に奉斎された。もともとこの土地には田裳見宿禰(津守氏の祖)の居住地であったため、大神に寄進し自らは神主として奉じることとなった。以後、津守氏が代々の住吉大社神主。
のちに神功皇后崩御後、自らが希望して、住吉大神とともに合わせ祀られるようになった。
住吉大神は御出現時以来の「御祓の神」として、そして「海」に深く関係があり、古くから航海関係者や漁民に慕われ航海・海上安全の神として信仰されてきた。現在、境内にある石燈籠の多くが、江戸時代の廻船業者の奉納によるもの。
また神功皇后の故事により軍神としても名高く、さらに住吉大社の風光明媚を詠った和歌や献歌、大神の和歌による御神託などが多いことから和歌の神としても親しまれている。さっらには農業産業の神としても難波の地の開発にも貢献。
古くから皇室の信仰も篤く、天武天皇・持統天皇の御奉幣をはじめ行幸や奉幣が相次いでいる。また南北朝期の後村上天皇は9年間、当社に行在所をおかれている。
社殿は第一本宮から第四本宮まであり、一番奥に第一本宮、中に第二本宮、手前に第三本宮が並び、第四本宮は第三本宮の右横に並んでおり、「L」字型の配列となっている。四殿とも、神社建築のもつとも古い形式の一つである「住吉造」。現在の社殿は文化7年(1810)の造営。昭和28年に四本殿ともに国宝指定。また四殿ともに大阪湾・瀬戸内海のある西側に面している。
明治4年、官幣大社列格。
住吉大社には摂社が4社。境内末社が21社。境外末社が4社ある。
摂社・大海神社は延喜式内社で、本殿は本社と同じ住吉造で重文指定。 祭神は豊玉彦命・豊玉姫命。
<御由緒書・住吉大社畧記・神社辞典参照>
住吉大社・正面 |
阪堺電気軌道が走る社頭 |
石燈籠が並ぶ社頭前の大通り 石燈籠の前を阪堺電気軌道が 右に左に斜めに走っています。 |
兔が奉納されている手水舎。 兔の意は当社の創建が 神功皇后摂生11年(211)辛卯年卯月卯日である御縁 |
反橋(太鼓橋) 現在のは慶長年間に淀君が奉納したものという |
住吉大社の御神田 御田植神事は国指定重要無形民俗文化財指定。 |
石舞台と南門(重要文化財) 豊臣秀頼奉納という。このあたりはかなり静寂。 |
角鳥居(住吉鳥居)と幸寿門 日曜日とあってこの先はかなりの賑わい |
第四本宮 第四本宮は疎外的な立場。やはりというかなんというか。 |
第四本宮(手前)と第三本宮(奧) 四本宮にすべて参拝するのも疲れてくる・・・。 |
第三本宮(手前)・第二本宮(中)・第一本宮(奧) |
第二本宮(手前) |
第一本宮 第一本宮前では結婚式の祭礼が順番待ち。 なかなか写真を撮るタイミングがない・・・。 |
第二本宮(手前)と第三本宮(奧) だいぶ、人がへった頃。 一寸前までは参拝者のオンパレードだった・・・。 |
第四本宮(左)・第三本宮(右) |
日曜日とあって参拝者で賑わう境内。 朱印を貰うのも一苦労。 結婚式や初宮詣の行列。 特に初宮詣は赤ちゃん連れなので、動作が緩慢。 写真をとるのも一苦労。 ところが摂末社群や境内奧などは、 普通に静かなので、そちらでまったりしてました。 |
第三本宮(手前)と第四本宮(奧) |
第二本宮の横姿 |
摂社・式内社である大海神社 |
写真は本社のみならず摂末社もとりまくっているが サイト的に写真多寡になるのはよろしくないので 式内社の大海神社以外の摂末社は 今回は未掲載とします。あしからず・・・。 |
住吉大社。全国2000社の総本社。摂津国一の宮。二十二社の一社。式内名神大社。
とにかく参拝者が多かった。別に格が高いから賑わっているのではなく、大阪らしい中心たる神社ゆえに賑わっていた。先ほどの大鳥神社でも初宮詣の人びとがいたが、せいぜい出逢ったのが三組ぐらい。ところがこの住吉大社は格が違う。丁度昼時ということもありなにやら二十組、三十組ぐらいはいただろうか。冗談抜きで参拝者に溢れていて、そして社務所は行列の順番待ちであった。さすがに日曜日というべきか。私はそれだけでもう疲れてしまった。やはり有名神社は早朝に行くべきであった。
太鼓橋をわたって、兔の手水で身を清め、住吉鳥居をぬける。その先には第三本宮が私の正面にあり、となりに第四本宮が並んでいる。立地的にもまずは第三本宮で参拝をしてしまう人が多いらしく、逆に第四本宮は人の流れから外れていた。
とりあえず第三・第二・第一と人の流れがとぎれる一瞬を狙って写真におさめつつ参拝。第一本宮前では結婚式の祭礼まで行われていて、ますますもって混沌としている。住吉大社の本殿は国宝。しかし境内の賑やかさ故か、歴史的古さも感じられずなんとなく眺めるだけで終わってしまう。
しかし本宮から外れて摂社群の方に足を向けると、そこは住吉の豊かな緑の杜にかこまれた神域。騒がしいのは駐車場付近だけであり、あとは人の気配すら感じられない静寂さ。摂社・式内社である大海神社や御神田、石舞台などをのんびりと散策。ただ、それで帰るのも味気ないので、もう一度本宮を散策。時間的なピークが過ぎ去ったのか、混沌はかなり納まっていた。どうやら今度はゆっくりと社殿見物が出来そうだ。いわば住吉らしい明るさと爽快さ。海の近さを感じさせてくれる気配。得てして本殿社殿を垣間見る事が少ない神社が多い中で住吉さんは国宝でありながら三社殿も開放的に四方で魅せてくれている。とにかく贅沢な空間であった。
約1時間近くを住吉大社で過ごす。人が多いと早々と退散したくなるのに珍しい事であった。住吉からは阪堺電気軌道で戻ろうかと思う。乗り放題の切符があると気分も明るくなってしまう。それも普段は乗ることが少ない路面電車であると尚のことであった。
このあとは阪堺電気軌道を天神ノ森停留所で下車して「阿倍野神社」に向かう予定。とにかく限られた時間で神社をより多く巡ろうというのだから、感覚的にも精神的にも忙しかった。
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