「近江湖東の古社巡り・その4」
<平成17年5月参拝・6月記載>


目次
その1・長浜「長浜ノ豊国神社」「長浜八幡宮」
その2・太郎坊山「太郎坊宮阿賀神社」
その3・野洲竜王「苗村神社」「大笹原神社」「鏡神社」

その4・草津守山「伊砂砂神社」「勝部神社


格別に狙っていたわけではないが、私は近江国草津宿に宿泊。翌日に京都に行く人間としては、これ以上はない最良の土地なのかも知れない。

朝、7時過ぎに宿をチェックアウト。草津の駅に赴くも、ちょっとだけ寄り道。草津駅から500メートル北東に歩く。そこに文化財神社があるから。

伊砂砂神社(国重文)
<滋賀県草津市渋川鎮座>

祭神
寒川比古命・寒川比売命(寒川大神・相模国の開発国神)
磐長媛命(イワナガヒメ命・コノハナサクヤヒメ命の姉神)

創建年代は不詳。六角高頼(佐々木高頼・1462-1520)が相模国寒川神社から寒川大神を勧請したともいわれているが詳細不明。
イワナガヒメ命をまつる神社としても珍しいが、この点も不明。
富士山を象徴する浅間神社祭神「サクヤヒメ命」の姉神をまつり、なおかつ「相模国神」をまつる当社が近江国に鎮座している。その由緒も由来も不明。かなり興味ひかれる点である。
社名の由来は祭神の「イワナガヒメ命」「サムカワヒコ命」「サムカワヒメ命」の頭文字「イササ」をとって明治2年に改められたという。
当社前は「旧中仙道」。伊砂砂川(伊佐佐川)がまじわる。
古くは「天大大将軍之宮」と称した「雨乞いの神」であった。

伊砂砂神社本殿<国重文>
応仁2年(1468)に建立。一間社流造、檜皮葺。

伊砂砂神社
伊砂砂神社
伊砂砂神社
伊砂砂神社
伊砂砂神社
伊砂砂神社
伊砂砂神社
伊砂砂神社
伊砂砂神社
伊砂砂神社本殿<国重文>
伊砂砂神社
本殿<国重文>

ただ私の予備知識は「重要文化財」の神社がある、ということであった。しかし前晩に宿屋で情報検索(ノートパソコン持ち込み)をしてみると「寒川神社」とつながってきた。予想もしなかったつながりに、うれしくなるもそのつながる由緒はわからない。ただ、相模国開発の国神である「寒川大神」を相模国外でまつっている神社がある、ということに驚き。そして「イワナガヒメ命」という神話でも妹の「サクヤヒメ命」の引き立て役としてしか表舞台に出てこない神を祀っているということも興味深い。
今は静かに、草津に鎮座。相模国の神を、まさかこの地で拝することがあるとは思わず、武蔵国在住の私もなにやら嬉しくなってくる。


草津駅に戻る。8時15分。さて京都に行くのもよいが、もう一箇所だけ寄り道。駅から近い神社に立ち寄りたかった。
この日は、京都に午後から野暮用があった。神社巡りが目的ではなかったから、せめて少しでも巡りたい、という心持ち。



勝部神社(郷社・国重文)
<滋賀県守山市勝部鎮座>

主祭神:
天火明命(アメノホアカリ命)
宇麻志間知命(ウマシマチ命・ニギハヤヒ命の御子神)
物部布津主命(フツヌシ命)
配祀神:中筒男命・猿田彦命

近江国栗太郡物部郷の総鎮守として物部宿禰広国別人連が大化5年(649)に物部大明神として創建したとも、延暦年間(789−806)の慶俊による創建によるともいわれている。古くは「物部神社(物部大明神)」と称された。
当社鎮座地付近は「勝部(すぐりべ)」の居住地でもあり、中世豪族勝部氏が居住した勝部城遺跡もある。
武事に関係のある祭神をまつり、近江佐々木家六角家、織田家。豊臣家等の武家崇敬があつかった。
特に佐々木六角家の崇敬はあつく、出陣の際はきまって当社竹林の竹を旗竿にして使用されたという。

勝部神社本殿<国重文>
明応元年(1493)に六角高頼(佐々木高頼・1462-1520)に造営。三間社流造檜皮葺。

勝部神社
勝部神社正面
勝部神社
拝殿
勝部神社
拝殿
勝部神社
勝部神社本殿<国重文>
勝部神社 左。
境内後方のせせらぎは「ホタル」もやってくるほどの清らかさ

相も変わらず予備知識なしで参拝。このあたりが「物部勢力圏」であるということもはじめて知る。こうして、各地に赴くことで興味や知識が広がる瞬間が大好きなのだ。
守山駅の西約500メートル。勝部神社が鎮座している。8時30分頃に到着してみれば、なにやら地元の方々が集会をひらいている。思いっきり場違いな私は、邪魔せぬように参拝して社殿をながめる。雨に濡れてきた境内は、しっとりとりと落ち着く。こんな神社の気配に心が安まる。

守山駅から、京都に向かう。近江国探訪もひとまず終了。なんどきても、飽きないのが近江国。いつも京都の前に立ち寄っていたりする自分がいる。
今回は京都が野暮用。もうそろそろ時間がないのだ。


参考文献
案内看板、由緒書き等。
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名大辞典・25滋賀県



前に戻る