「近江湖東の古社巡り」
<平成17年5月参拝・6月記載>
目次
その1・長浜「長浜ノ豊国神社」「長浜八幡宮」
その2・太郎坊山「太郎坊宮阿賀神社」
その3・野洲竜王「苗村神社」「大笹原神社」「鏡神社」
その4・草津守山「伊砂砂神社」「勝部神社」
朝8時すぎ。夜行列車から乗り換えて、私は長浜の駅に着いた。竹生島にいくため、そのために私は長浜にやってきた。
船便が出るのは9時。すこしだけ時間があるようなので、駅から100メートルほど北に鎮座している「豊国さん」に詣でる。
「長浜ノ豊国神社」
<滋賀県長浜市南呉服町鎮座>
祭神:豊臣秀吉
配祀:加藤清正・木村重成・恵比須神(八重事代命)
由緒
天正2年(1574)に今浜の地に羽柴秀吉が築城を開始し、城下町を整備。浅井長政の旧城下小谷城から町を移転させて、今浜を長浜と改称した。
天正10年(1582)に本能寺の変で信長が討たれる。その後に会談によって長浜は柴田勝家が領有することとなり、甥の勝豊が入城。
天正11年に賤ヶ岳の戦いによって再び長浜は羽柴秀吉の領有。
慶長3年(1598)に太閤豊臣秀吉が伏見で逝去すると、長浜の住民は京都豊国廟にならって豊国神社を建立。しかし豊臣氏の滅亡後に、秀吉の神格を禁じられ、取り壊しをされる。
寛政5年(1793)に長浜の町役人は彦根藩に「えびす宮」を建立する許可を求め一社を建立。裏に太閤さんを隠してお祀りしてきたという。
弘化3年(1846)に太閤の恩徳を長浜に布撫するために「豊臣」の一字をとって「豊<みのり>神社」と呼称。
明治維新後の大正9年(1920)にようやくに「豊国神社」と呼称するにいたる。
豊国神社 社殿は江戸中期という。 |
祭神が豊臣秀吉。長浜という町は、まさに秀吉が築いた町でもあり、産土の神として秀吉を祀る。顕彰神とはまた違う土地神的神社のおもむきがそこにある。
船の出港は9時の予定。空き時間に豊国さんを詣でて、そのまま私は竹生島にわたる。
竹生島には秀頼が再建した秀吉臨終の地たる伏見城遺構が社殿移築されている。そんな竹生島から長浜に戻って、八幡様に赴こうかと思う。
「長浜八幡宮」(県社)
<滋賀県長浜市宮前町鎮座>
祭神:応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
後三条天皇の勅願によって延久元年(1069)に石清水八幡を分霊勧進したのが当社。神功皇后の生誕地たる息長国にあたる土地。
坂田八幡宮、将軍山新放生寺八幡宮とも称され、後三条天皇の勅願所であった。
近江源氏佐々木氏の氏神社として栄え、秀吉が初入封をした地として篤く崇敬。
天正二年(1574)に秀吉が長浜城を築き、八幡宮の社殿を再建。当社は新放生寺を別当寺とし江戸期には塔頭22坊を数えたが明治維新後に神社は独立。
西側の鳥居 |
南側の鳥居 |
舞殿 |
境内 |
拝殿 |
本殿 |
長浜城趾を経由して、八幡様に到着したのは11時50分すぎ。
なにやら賑わっているのは「お宮参り」多数なため、なぜか順番に写真を撮るのを待っていたりする。私も写真を撮るので待っていたりするが、立場と感覚の違い。なかなかうまく行かないものだ。
意外と大きな神社。そして境内は東西に長く、社殿は南面。さすがに秀吉のはじめて封を得た、はじめて街作りをした長浜の八幡様だとその規模に感心をする。
さて。長浜から次の目的地を模索する。
丁度お昼時。すこしだけ休息して、とにかく湖東を鉄道南下。
次にどうしても行きたい神社があった。その最寄りたる「近江八幡駅」に13時頃に到達。
近江八幡は交通の要所。なんども来た駅であり、良い思い出も悪い思いでも詰まっていたりする。そこからとにかく「近江鉄道」に乗り換えることにする。
参考文献
案内看板、由緒書き等。
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名大辞典・25滋賀県