「尾張の神社風景・真清田熱田編」
<平成14年8月参拝・平成15年1月記>

目次
真清田神社」(式内明神大社・尾張一の宮)
熱田神宮」(式内社明神大社・尾張三の宮)

 風景と題している当作品では、あまり紀行文的には書きません(苦笑)。写真中心で書いていきますので御了承を。
 かくいうのも「多度大社」、そして「桑名の神社」を参拝後にこの「真清田」「熱田」を参拝した私は「伊勢参り」「椿大神社」の疲労が限界に到達しており、あまり記憶が残っていないし、有意義な参拝も出来なかった。たったの3日間で約20社を参拝していたわけで、最終地の熱田に至っては式内社をどうこうする知識も眠っており、ただ歩いたという記憶しか残っていない。これでは「紀行文」なんてのは書けないので、写真中心とならざるを得ない。
 だいたい半年前の神社ともなると記憶もあやふや。


「真清田神社」(延喜式内名神大社<真墨田神社>・国幣中社・愛知県一宮市鎮座)

祭神:天火明命(あめのほあかりのみこと・饒速日尊もいう・詳細

 当社の祭神は天火明命。またの名を天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)ともいう。神統としてはアマテラス大御神の孫、アメノオシホミミ命の御子、そして天孫降臨したホノニニギ命の兄。ただ神武帝のころナガスネヒコと共にあったニギハヤヒ尊がアメノホアカリ命と同神か、ということには疑問がある(執筆者注・参考
 天火明命は約2650年以上の昔、愛知県一宮市の真清田の農業地帯を開拓された尾張氏の祖神で、当時、唯一の生産業であった農業守護の神として仰がれた神様。もともと、「尾張」とは、土地を開墾するという意味で、当社の祭神天火明命は、この尾張国を開拓された尾張国造の祖神として信仰されていた神。
 また、その神名を「天火明命」というのは「天穂明命」のことで、稲穂が立派に育つようお守り下さるご神徳に由緒がある農業神であるという。

 当社の鎮座は社殿によれば神武天皇33年というが崇神天皇期ともいわれ詳細は不明。祭神についても明治以前は天火明命のほかに大己貴命・国常立尊説もあった。
 平安時代には延喜式内明神大社、そして尾張国一の宮として平安末期にはすでに確立していた。鎌倉時代には順徳天皇が当社を参拝している。
 明治18年に国幣小社、大正3年に国幣中社に列格。
また摂社・服織神社<祭神:万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつりひめのみこと・天火明神の母神・詳細)>がある。
<参考・真清田神社御由緒書/角川日本地名大辞典愛知県>

 ちなみにより上位の存在である「熱田神宮」を尾張三の宮とし、当社が一の宮である理由は定かではないが、国府から近いところから順次定めた(真清田が一番近い。武蔵国小野神社氷川神社の関係と同様)とも、熱田神宮は伊勢神宮同様に皇室と直結する別格とみなして外され、のちに便宜上三の宮として付け加えた(序列を改めることなく)とも考えられる。ただし、あくまで私の憶測ではあるが。

真清田神社
真清田神社・入口
真清田神社
真清田神社・楼門
真清田神社
真清田神社・社殿
真清田神社
真清田神社・拝殿正面
真清田神社
摂社・服織神社
尾張一の宮・真清田神社(ますみだ神社)

真清田の由来は木曽川流域の清く澄んだ水にちなむ

現在も手水舎「吐水龍」の霊水でうるわしている
・・・手水舎にハトがあつまるほどに(笑)

 JRの桑名駅を10時30分ごろに出発。名古屋駅で乗り継いで、尾張一宮駅から歩くこと約10分で真清田神社に到着。時間は11時45分ごろだった。
 社頭前はみごとなまでに「商店」と調和しており、独特の気配。こんな独特の気配は私の感覚でもかなり異色で不思議な感じがただよっていた。社頭前は人が多いのに境内は人もまばら。それでも市民の憩いの場として、のんびりとした空気が流れていたが、私はのんびりする余裕もない。御朱印を戴いたら、すぐさま退散。
 このあと鈍行で東京に帰るという目的と、その前に熱田神宮にも立ち寄るという目的もあり、とにかく慌ただしかった。
 ただ、もはやこの時点で私の気力は使い果たしていたらしくもはや真清田神社がどんな雰囲気であったかおぼえていない。熱田にいたっては夢遊のように歩いた記憶しかない。




「熱田神宮」(式内明神大社<熱田神社>・官幣大社・愛知県名古屋市熱田区)

御祭神:熱田大神(あつたのおおかみ・詳細
相殿神:天照大神・素戔嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命
(相殿の五柱は草薙神剣とゆかりのある神々)
(建稲種命の妹が宮簀媛命にあたる。尾張氏の遠祖。父は上知我麻社の乎止與命)

 祭神の熱田大神は三種の神器の一つである草薙神剣を御霊代(みたましろ)としている。
 神社パンフでは御霊代によらせられるのは天照大神としているが、スサノヲ神の天叢雲剣=アマテラス大神に奉じられた草薙神剣=ニニギ尊とともに降臨した宝剣=ヤマトタケル尊の草薙神剣という図式が成り立つかは個人的には疑問符。(つまり熱田神剣=三種の神器の神剣、ということに疑問。・・・盜まれてるし/笑)
 いずれにせよ熱田の神剣は草薙剣・八尺瓊曲玉・八咫御鏡の三種の神器として、ともに伊勢神宮に御鎮座していたが、景行天皇の頃に日本武尊が征東討伐(詳細)の際に伊勢斎宮の倭姫命から草薙神剣を授けられ、神剣に宿るアマテラス大神の霊威でもって東国を平定。
 東国平定後に日本武尊は草薙神剣を宮簀媛命に託し、伊吹山の神を討伐しにおもむいたが、そこで毒気にあてられ日本武尊は伊勢国にて崩御なされた。草薙神剣は宮簀媛命に手元にあったが、年老いた際に社を建て祀られたのが熱田神宮の始まり。以後、熱田神宮は伊勢神宮に次ぐ御社として歴代皇室に崇敬され、また各時代の武将の崇敬も篤く、他の神社とは一線をかくす存在であった。
 神話世界は別としても、愛知県最大の古墳である段夫山古墳の被葬者に連なる豪族尾張氏の社であることには間違いないだろう。
 天智天皇7年(668)に新羅の僧動行がひそかに神剣を盗み出して帰国しようとしたが船が難破し漂着。動行は処刑された。神剣はそのまま皇居宮中に置かれたが、朱鳥元年(686)の天武天皇の病は神剣の祟りであるとされ、熱田神宮へ神剣が送り返されたという事件があった。(写真の清雪門参考)。
 奈良時代から平安初期にかけての尾張氏の勢力は中央でも無視できないものであったとされ、それゆえか延喜式内社に熱田系10社が列格している。しかし平安期には、熱田社にも神宮寺が設置された。ただ、明治期まで神宮寺別当職をも尾張一族が占めていた。
 11世紀後半頃の熱田大宮司の尾張員職は藤原季範を娘婿として迎えいれ、以後は明治期まで藤原氏(千秋氏)が大宮司、尾張氏が權宮司となった。この藤原季範の娘と源義朝との間にうまれた子が源頼朝であり、出生地は熱田大宮司家という。以来、熱田社は源氏や足利氏と深い関係となり、一緒独特の勢力を尾張に構築。南北朝期には南朝として大宮司家も各地に転戦し武士団化していた。
 また今川義元を迎え撃った織田信長が熱田社に戦勝祈願を行った話などが有名である。
<参考・熱田神宮パンフレット/角川日本地名大辞典愛知県他>

 明治4年官幣大社列格。社殿は古来より「尾張造り」と呼ばれた独特のものであったが、明治26年より伊勢神宮に準じる社として神明造りに改められ独特の建築様式が失われた。
 現在「熱田神宮」には本宮・別宮・12摂社・31末社がある。そのうち10社が延喜式内社及び論社という。列記だけはするが、いかんせん意識朦朧で参拝していたので、どの神社が式内社であったかの記憶はない。
 愛智郡17座は大社4社・小社13社。そのうち熱田神宮に関係する社は大社4社・小社6社。
*上知我麻神社・熱田神宮境内摂社上知我麻神社
*下知我麻神社・熱田神宮境内摂社下知我麻神社
*熱田神社(名神大社)・熱田神宮
*御田神社・熱田神宮境内摂社御田神社
*日割御子神社(名神大社)・熱田神宮境内摂社日割御子神社(熱田御子神)
*孫若御子神社(名神大社)・熱田神宮境内摂社孫若御子神社(熱田御子神)
*高座結御子神社(名神大社)・熱田神宮境外摂社高座結御子神社(熱田区高蔵町鎮座・高倉下命とも熱田御子神とも)
*八劔神社・熱田神宮境内別宮八剣宮(八劔神社)
*火上姉子神社・熱田神宮境外摂社氷上姉子神社(緑区大高町火上山鎮座・宮簀媛命)
*青衾神社・熱田神宮境外摂社青衾神社(熱田区白鳥鎮座)

鳥居
熱田神宮・東門鳥居
鳥居
熱田神宮・正門鳥居

熱田神宮に最初に辿り着いたのは12時50分ごろ。でも東門を眺めて素通り。それには理由があって先に「熱田渡し跡」を見聞しるため。別に行く必要もないのだが、「「桑名の渡し」の対岸にあたるので眺めてみたくなった。これは伊勢参りの感覚。東海道で伊勢参りをする人は熱田から桑名に渡るのが基本であったから。なぜか私は逆行していたが。<写真はこちら

 熱田の渡しから戻ってきて正門鳥居に到着したのが13時20分。冗談みたいな話だが私はこの地から鈍行電車で東京に戻らなければならない。つまり13時すぎであれど1時間強の余裕しか持ち合わせていない、という。駆け足は嫌いだが、時間がないので足早に散策する。ゆえに記憶も乏しいし、そもそも疲れている。どうあっても再訪必至の神社とせざるを得ない。

 以下、熱田神宮境内の模様を一部だけ紹介。なぜ一部かというと、見忘れたところが多数なので(笑)

別宮八剣宮 別宮八剣宮
上知我麻神社 上二点:別宮八剣宮

左:上知我麻神社

熱田神宮別宮・八剣宮(はっけんぐう・延喜式内社)
 元明天皇和銅元年(708)に勅命により神剣をつくり、境内に社を建てて納め祀ったことが創始。

熱田神宮摂社・上知我麻神社(かみちかまじんじゃ・延喜式内社)
 本宮相殿に祀る宮簀媛命の父君である尾張国造「乎止與命(おとよのみこと)」を祀る。この社の脇に、大国主社(大黒様)事代主社(恵比寿様)を祀ることから、「えびすさま」とも呼称。当社を俗に「知恵の文殊さま」とも呼び、古くから知恵の神様として崇敬する人が多いともいう。

 本来なら本宮参拝後に別宮や摂社をめぐるものだろう。ところが正門鳥居の左側にあるし、本宮参拝後にここまで戻ってくる勇気も体力もないので思わず先にこちらの二社を参拝。この二社は同じ敷地に90度で向かい合っている。

 そして正門鳥居の右側には同じく摂社の「日割御子神社」「孫若御子神社」が鎮座している。この参拝時には、口惜しいことにこれらが式内社論社であることを知らなかったので写真を撮っていなかった。だから式内社であれどもいかんともできない。

門
清雪門(せいせつもん)
もとは本宮の北門とされる。
俗に不開門(あかずのもん)といわれ
何百年来かたく閉ざされている。
天智天皇7年(668)、新羅の僧が神剣を盗み出し
この門を通り、以来不吉の門として忌まれたとも、
一時期、皇居に遷座された神剣が、
朱鳥元年(686)に再び熱田神宮に納められた際に
二度と動座せゆよう門を閉ざして
再び皇居へ遷ることのないようにしたともいう。
塀
信長塀(のぶながべい)
永禄3年(1560)織田信長が桶狭間(田楽狭間)出陣の時、
当神宮に必勝祈願をしてみごと大勝。
その後奉納した築地塀(ついじべい)。
土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねたもので、
兵庫西宮神社・大練塀、京都三十三間堂・太閤塀とともに
日本三大土塀の一つとして有名。


燈籠
佐久間燈籠(さくまとうろう)
正参道と東参道の交差するところにある。
寛永7年(1630)5月、佐久間大膳亮勝之が海難にあい、
熱田神宮に祈りその加護によってことなきをえたのを
感謝して寄進としたという。
高さは約8メートル、形も六角形で雄大な相をもち、
江戸時代から日本三大燈籠の一つとして知られる。
大楠
大楠
この樟は弘法大師お手植えとされ、
樹齡は1000年以上という。




熱田神宮・本宮
 古来より雲見山・蓬莱島と呼ばれ、19万u(飛び地も併せて29万u)にもわたる熱田の杜の中心である本宮にようやく到着。拝殿前には衛視がおりなんとなく緊張してくる。
 現在の本宮は明治26年までは尾張造りの社殿でしたが、三種の神器奉斎の社であることから伊勢の神宮とほぼ同様の社殿配置・規模の神明造りに御改造されたもの。 昭和20年に二度の戦災を受け、昭和30年10月に御造替された。

熱田神宮
熱田神宮拝殿
熱田神宮
熱田神宮社殿を拝殿から臨む

 拝殿で参拝をすませて、札所で朱印を戴くと私のすることもなくなる。
 社殿右脇、神楽殿の奧のほうに社殿等が4棟並んでいる。左側に「土用殿」(もとは草薙神剣を奉安した御殿。明治期に土用殿は廃され神剣は正殿に戻された。現存の土用殿は戦災で消失したものを昭和46年に古式のままに復元)。右側には手前から順に「龍神社」「御田神社」「清水神社」。
 社殿の裏の方までくる物好きもあまりいないのかあたりは薄暗く独特の社叢を体感する。


熱田神宮摂社・御田神社

熱田神宮摂社・下知我麻神社

熱田神宮摂社・御田神社(みたじんじゃ・延喜式内社)
 五穀豊穰の守護神である「大年神(おおとしのかみ)」を祀る。
 この社の祈年・新嘗の両祭に奉る神饌(しんせん・神様へのお供えもの)はまず烏に食べさせる信仰が残っており、祭員がホーホーと烏を呼びながら、御供(ごく)を土用殿の屋根の上に投げ上げるという(烏喰の儀)。以前は烏が飛んできてそれを食べなければ、祭典が行われなかったとされている。

 境内を散策し、ニワトリなんぞを眺めて、なんとなく駆け足で境外へと向かう。本来ならゆっくりと宝物殿でも見聞したいところだが、なにやら頭も痛くなってきたのでまたの機会とする。どうせ熱田の神宮は再訪せざるを得ない予感がするから。

 境内から行けない北西の隅に熱田神宮摂社・下知我麻神社がある。位置的には地下鉄神宮西駅の付近。
熱田神宮摂社・下知我麻神社(しもちかま神社・延喜式内社)
 旅行安全の神様として信仰されている社という。具体的に何の神様を祀っているかを調べるのを忘却していたからわからない。多分、上知我麻神社と関係する尾張国造系だろうとは思うが。

 とにかく熱田神宮の思い出というものが極めて希薄である、というのが今の感想。何が何やらまったく不明瞭。はたして自分は本当に熱田神宮を参拝していたのかも不安になるほど。それほどに疲労しか感じていなかった。13時すぎに境内に足を踏み入れ、境内及び周辺を巡回して14時30分には熱田駅に戻り鈍行で東京に帰るという無鉄砲なので、、まあ致し方がない。むかしほどには元気でないと言うことだろう。ハードな鉄道旅にたえられるほどには。

 熱田神宮を駆け足で走り抜けたあとに近くにある「白鳥古墳(白鳥御陵)」と「段夫山古墳」をながめるも、まあ古墳は古墳。下から眺めてもさしておもしろいものではない。


「白鳥古墳(白鳥御陵)」
 6世紀初め頃の造営と推定。熱田社の北西500メートルの位置にある。全長74メートルの前方後円墳であるが、後円部東部ははやくから削り取られて法持寺が立てられ、前方部一部は道路拡張の際に失われている。
 古くから日本武尊の御陵との説があり、尊が白鳥となって熱田の宮に飛び来て、降り立ったところが当地であったことから白鳥御陵ともいわれている。

白鳥古墳
白鳥古墳
段夫山古墳
段夫山古墳

 古墳といわれても、きわめて古墳の雰囲気がない。入口は住宅地に囲まれて、表はお寺。そして本居宣長の歌碑があって、小山のような所の石段をのぼると鬱蒼とした森が柵の向こうにあった。微妙に不思議な気分。


「段夫山古墳」
 このあと愛知県最大(東海地方最大)の規模という「段夫山古墳」にも足を延ばすが、これは大きすぎ。全長151メートルという規模で緑に被われ堀がある。ただの森といってしまえばそれまで。どこかおもしろいところをさがす元気もなく、古墳の片側のみを形式ばかりに歩いてみてダウン。この段夫山古墳は6世紀前後の造営一説に宮簀媛命の古墳ともされているが被葬者は豪族尾張氏だろう、としか断言できない。



<あとがき>
 御免なさい、と最近は謝ってばかり。今回はいつも以上になげやりです。熱田神宮はどうにも再訪しなくては納得行かないです。
 多度大社を脱稿してから勢いで執筆。ただ勢いなので、かなり中味が薄いですが。平成14年の置きみやげ的神社がまだ残っているので早急に片づけたい、とは思う。

<参考文献>
真清田神社御由緒書
熱田神宮パンフレット他熱田神宮サイトなど
角川日本地名大辞典・愛知県・1989年発行
神まうで・鐵道省・昭和14年発行




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