「お伊勢参りの風景」続編/弐.お伊勢参り後の風景
「6.猿田彦神の神社編」

目次
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椿大神社(県社(ただし国幣大社並)・伊勢一の宮・式内社)
 椿大神社・別宮「椿岸神社」(式内社)/椿大神社・摂社「懸主神社」(式内社)
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二見興玉神社(村社)
猿田彦神社(無格社)
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以下、順番不同で三社を列記する。私の紀行的な参拝順序では「猿田彦神社」「二見興玉神社」の次に「結城神社」を参拝して「椿大神社」を参拝となるが、ここでは順序を無視して伊勢地域の代表的な「猿田彦神を祀る神社」として三社をまとめていきたい。


「椿大神社」(つばきおおかみやしろ・県社・伊勢一の宮・鈴鹿市山本町鎮座)
祭神
 猿田彦大神(サルダヒコ大神・天孫降臨導きの神・詳細
相殿
 瓊瓊杵尊(ニニギ尊・天孫降臨~・詳細
 栲幡千千媛命(タクハタチチヒメ命・ニニギ尊の母神・詳細
配祀
 天之宇受女命(アメノウズメ命・サルダヒコ神の妻神・詳細
 木花咲耶姫命(ニニギ尊の妻神・詳細
前座
 行満大明神(ギョウマン大明神・サルダヒコ神末裔)

 伊勢平野を見おろす鈴鹿山系の中央部に位置する高山入道ヶ嶽(906メートル。奥宮有)・短山椿ヶ嶽(450メートル)の麓に鎮座し、鈴鹿側支流の御幣川が形成する扇状地の根元に鎮座し、鬱蒼たる杉木立のなかに鎮座している。
 
 神代より高山入道ヶ嶽・短山椿ヶ嶽山中で営まれていた猿田彦祭祀であったが、垂仁天皇の皇女である倭姫命の神託によって猿田彦神陵前方の「御船磐座(みふねのいわくら)」に伊勢開拓神であるサルダヒコ神を主神としてニニギ尊・タクハタチチヒメ命を相殿に祀った社殿を造営したことにはじまるという。
 サルダヒコ神の神裔であり神世から祭祀してきた山本神主家は当社を拠点に伊勢地方を掌握していたが、垂仁天皇の代(垂仁天皇27年)に伊勢の皇大神宮鎮座にあたって、奉仕したのがサルダヒコ神の末裔とされる大田命(伊勢の猿田彦神社)であり、以来伊勢神宮と密接な関係にあった。
 当社創建以来、山本神主家は代々「猿田彦命」を襲名していたが、崇神天皇のころに神名使用を禁じられたために「行満」(修験神道)と称し山本家の祖先神となったという。(行満神主の頃に獅子舞が創始され、当社の獅子舞は日本最古とされている。)
 仁徳天皇の御霊夢によって「椿」に名を社名とし、光孝天皇仁和年間に「伊勢一の宮」、そして醍醐天皇期に「延喜式内小社」に列格。中世期は一の宮として発展し、また仏教の影響も受け、修験もさかんとなる。(サルダヒコ神の末裔であり、山本氏の祖でもある行満大明神は修験の祖として役行者を導いたとされる。)
 その後も神威を発揚していたが戦国期の天正11年(1583)に羽柴秀吉による織田(北畠信雄)領であった伊勢亀山侵攻により社殿古記録焼失。天正14年に復興。

 明治4年に郷社。昭和3年に県社列格。昭和初期に内務省神社局によって全国2000社のサルダヒコ神を祀る総本宮であることが再確認され、「地祇猿田彦大本宮」と尊称。「国幣大社」列格の手続きが開始され国幣大社の内示を受けるが大東亜戦争の為に列格は中断。
 昭和10年3月に警視庁は当社分霊を奉斎して国民守護・導きの祖神とし、現在の警視庁も交通安全の神として引き継いでいる。 

椿大神社 椿大神社
椿大神社 左上:社号標
手前が「伊勢一之宮 椿大神社」
奧が「椿大神社 地祇猿田彦大本宮」

上:獅子堂(車両祈祷所)
聖武天皇敕願奉納の獅子頭に由来。
当社は日本最古の獅子舞を伝えている。
(1300年前に伝えられた獅子舞という)

左:断りの鳥居と参道
江戸期の神戸(鈴鹿)城主が境内の御神木を
伐採して城を築き、完成後一夜で炎上。
神威をおそれて奉納したという。
椿大神社 椿大神社
椿大神社 左上:高山土公神御陵(サルダヒコ神御陵)
境内にある前方後円墳。サルダヒコ神という。

上:御船磐倉(みふねいわくら)
神代神跡。
ニニギ尊らが御船でサルダヒコ神に導かれ、
この場所にご到着したという。(詳細

左:昭和43年造営の社殿。
重厚な拝殿に圧倒。
椿大神社 左:行満堂
行満大明神を祀る。
修験新道のなごりのような仏閣風社殿。

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参道内がとてつもなく薄暗く、
同じ時間帯で撮影しても明るさが全く違う。
写真を見てもわかるとおりの違いです。
それほどに参道境内は杉木立が原始的です。
ちなみに撮影・参拝時間は
1630前後のほぼ同一時間です(笑)
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 境内には別宮「椿岸神社」や摂末社がいくつかあるけど、以下の二社な式内論社ともいうので特別に別立てします。
 また境外別宮として高山入道ヶ嶽山頂の「奥の宮」。鈴鹿市小岐須町鎮座の式内論社「小岸大神社」「石大神」なども椿大神社管轄。


別宮「椿岸神社」(延喜式内小社論社・椿大神社境内鎮座)
祭神
 天之宇受女命(アメノウズメ命・詳細
相殿
 太玉命(フトダマ命・詳細
 天之児屋根命(アメノコヤネ命・詳細
 
 主祭神のアメノウズメ命は岩戸開き神話の主役。天孫降臨に際しても猿田彦神と対面し、ともにニニギ尊を導いた神。天孫降臨後に猿田彦神の妻神となり、伊勢国に祀られた。
 当社は本社「椿大神社」の「上椿社」に対して「下椿社」と呼称され、ともに垂仁天皇27年に創建され、延喜式内の古社であるという。
 明治41年に椿大神社に合祀。昭和43年に境内に分祀。三重郡の同名式内小社論社ではある。

椿岸神社
延喜式内論社・椿大神社別宮「椿岸神社」
やっぱり薄暗い境内
椿岸神社
昭和43年造営の社殿。
16時30分頃なのでもう閉めてます(苦笑)

摂社「懸主神社」(あがたぬし神社・式内小社論社・椿大神社境内摂社)
祭神
 倭健命(ヤマトタケル命・詳細
 健貝児王(タケカイコ王・ヤマトタケル命の御子・詳細

 懸主神社は三重郡19座のひとつ。もともとは亀山市川崎町に鎮座していたという。ところが明治の1町村10社目標の小社整理によって明治41年に「能褒野神社」(三重県亀山市・県社)に配祀。その後、平成10年10月に「椿護国神社」南隣に椿大神社摂社「懸主神社」として遷座したという。最近の遷座のため、式内社として見向きもされないようではあるけど、式内社以来の由来をもって遷座したのだから、やはり気分は式内社であろう。
 もっとも遷座理由は先代の山本行輝宮司の出身地が川崎町であった、という理由ではあるらしい。 

懸主神社
もっとも新しい部類の式内論社(苦笑)
能褒野神社(亀山市・県社)から遷座という。
懸主神社
平成10年造営(?)の社殿。「懸主神社」
この規模ならウチの庭にも置けそう(失礼っ!)

 伊勢一の宮。この風格に恋い焦がれて、私は無茶をした。伊勢二見から北上して、三重県都「津市」に鎮座している別格官幣社「結城神社」を参拝。そのあとにさらに北上して「JR四日市駅」に到着したのが14時47分。三重交通バスの時間だけは行き当たりでは不安だらけなのであらかじめ確認しておいた。
 椿大神社行きのバスは一時間に一本で毎時5分。私が乗り込んだのは15時05分(椿大神社行き最終)。バス所要時間は50分(駅からタクシーを利用なら30分という)というから15時55分に到着できるはずだった。
 この三重交通のバスが懐かしくて、それでいて不安だらけ。車で直通すれば30分のみちのりが、このバスでは50分。バスは右往左往に寄り道し、到底バス道でないようなところまでも経由して山に向かう。
 懐かしい。日永・西日野・八王子という地名が出てくる。昔、近鉄のナロー電車にのりにきたときに、この四日市は来ているはずであった。それなのに記憶が殆ど残っていない。なんか昔は意味もない行動ばかりしていたなあ、と回顧。なにも覚えておらず、ただ写真だけが残る記憶。そんな記憶を呼び起こすようで、うやむやになるなかをバスは進む。
 しまいには乗客は私一人であった。なんともいえず、どこに連れて行かれるのかわからないぐらいの山の中を走ると終着の「椿大神社前」であった。770円であった。
 一応、バスの運転手に戻りの運行時間を確認しておくと、一時間に一本で毎時13分に神社前を出発とのこと。最終バスが私の乗るべき17時13分であった。なぜこれが最終バスか。神社が17時で閉門してしまうため、という理由だろう。

 椿大神神社。バスを降りる。目の前には山のようにこんもりと繁っている「森」がある。今まで参拝した神社の中でも、一番辺鄙な部類に入るであろう「一の宮」は、私を興奮させるのに充分すぎるほどの風格と迫力と重圧でもって迎えてくれる。
 ここにもカエルがいる。カエルの手水舎で身を清め奥へと進む。参道はゆったりとした傾斜をともない「山のやしろ」という気配をおびている。上を仰ぎ見ても空は見えず杉の木立に覆われた参道は「日没」のように薄暗く、歩くだけで寂しさをともなう。
 暗い中に「古墳」があり、その前方に「磐座」がある。あるのだけれども磐座はよく見えず、なんとなく神域の中央に石が3つ置いてある。伝説ではそこに「ニニギ尊の御船」が降り立ったとはいう。
 古墳の脇を沿うように進むと目の前がひらける。薄暗い参道の先に見える、重厚な拝殿に淡い夕日がさしこんでいる。演出とするなら、これ以上ないぐらいに私を迎えてくれる演出がおこなわれていた。こんなに趣と格の感じられる神社もひさしぶりであった。この趣は神宮とはまったくの別物で、神威すらも感じてしまう。
 時間は16時15分ぐらい。この神社は僻地にあり17時には閉門してしまう。この時間では訪れる人も少なく、閑散とした雰囲気が最高であった。
 なんとなく神職が多すぎるような気がする。社務所も立派すぎる。よほど盛況な神社なのだろう。専属の警備員も配備されているぐらいだから。

 わたしはこの椿大神社に来る前に二つの猿田彦神の神社を参拝していた。伊勢の猿田彦神社と二見の二見興玉神社。どちらも私の印象としては最悪で、猿田彦神そのもののイメージすらも悪くなる。それは私がどことなく嫌いな稲荷や八幡とおなじような「俗な印象」となってしまう。
 ところが「椿大神社」は私の感性にピッタリとはまってしまう。理想的な神社環境がここにあった。さすがにこの僻地にはしばらく来そうにはない。そうではあれど、また来たい、そう思わせる良い神社であった。
 この神域。さすが「神国伊勢一の宮」として、天下一等の風流さがあった。おしむらくは県社どまりであったこと。もう少し早く認定されれば、「国幣大社」にも列格し、人びとの印象も神威も強まっただろうに、県社では中央的にはイメージが弱かった。

 17時ちょうど。閉門となり、警備員が私をうさんくさそうに眺めている。私とて立ち去りたいがバスの時間は17時13分なので、神社の前で待つしかない。まだ明るいが17時で閉門という納得のいかなさを目の前に、それでいて暗闇の中に埋もれる参道のコントラストをいつまでも眺めつつ、私は夕日に照らされる17時13分の最終バスに乗り込む。行の不安はもはやなく、どこを寄り道しようとしったことではない。ひたすらに爆睡しつつ四日市駅に向かう車中も私一人であった。あとは宿のある桑名に向かうだけ。でも桑名は後日談。



 「椿大神社」を参拝する以前に私は伊勢にいた。伊勢で「お伊勢参り」を行っている最中にも神社が鎮座している。多くの神社は無視したが特に「二社」だけは触れておこうと思う。旧社格でいうと「無格社と村社」という最下層のレベルではあるが。以下、断片的に「伊勢地区」の2社を掲載。



「二見興玉神社」(ふたみおきたま神社・村社・三重県度会郡二見町鎮座)
祭神
 猿田彦大神(サルダヒコ大神)
 宇迦御魂大神(ウガノミタマ大神)
 綿津見大神(ワタツミ大神・竜宮社)

 猿田彦神はニニギ尊の天孫降臨に際して、出迎えた神。詳細は「天孫降臨」の項を参照。このことから猿田彦神は道しるべの神とされている。

 古来より、夫婦岩から差し昇る「日の大神」と夫婦岩の沖合700メートル海中に鎮まる猿田彦神ゆかりの霊石とされている「興玉神石」を拝してきた神社。創建はあきらかではないが、天平年間に行基が太江寺を建立して、そこに興玉社を創祀。のちに現在地に遷座して「二見興玉神社」と称したとされている。
 当社の鎮座している二見浦はかねてより「清渚(きよきなぎさ)」と称され、神宮奉仕者や参拝客が「浜参宮」として身を清める場所であった。二十年に一度の伊勢神宮造替や祭礼に際しても奉仕に先立って神領民は二見浦に赴いて身を清めている。
 社地は後方に夫婦岩を臨む断崖の根元にあり、海際に隣接している。鳥居から参道をぬけ本殿に拝する間に海が荒天であると、波しぶきによって自然と禊ぎを受けてしまう環境になるという。
 ちなみに夫婦岩のうち男岩は高さ九メートル、女岩は四メートル。両岩を繋ぐ注連縄の長さは三十五メートル、うち間の長さが九メートル。沖合の興玉神石を遙拜する鳥居の役目をはたしている。

二見
二見興玉神社。
すぐそこが海です。
二見
二見興玉神社拝殿。
始終観光客だらけで騷騷しい神社。
二見
「天の岩屋」とよばれる場。宇迦御魂神を祀る。
岩の裂け目が覗けます(苦笑)。
二見
裏参道鎮座「竜宮社」(現社殿は昭和46年造営)。
砂浜から撮影。
二見
二見蛙は猿田彦神の御使いという。
なかなかリアルなカエルです(笑)。
二見
観光でお馴染みの夫婦岩。
つまらない上に、干潮気味(苦笑)。

 二見興玉神社はついでだった。この神社の西方2キロに鎮座している「御塩殿神社」からレンタサイクルで突つ走る。JR二見浦駅からは徒歩で10分ぐらいのところに鎮座。御塩殿神社には人影すらなかったのに、この二見興玉周辺は観光客やら、マイカーやら、宿泊街やら、おみやげ街やらでまことに騷騷しい環境。もうそれだけで嫌になってくる。
とりあえず海の近くという鎮座環境は申し分なく良い環境。ところが観光客が多すぎる。回廊のように細長い境内なので、ちょっとの人いりでも窮屈さを感じてしまう。
 なんとなく神社の気配がしない。たぶん夫婦岩の釀し出す「観光的気配」が神社をうち消しているのだろう。なんとなく、私はヘンな気分で、この場所には長居をしたくなかった。

JR二見浦駅
斬新的にモダンな駅本屋(レンタサイクル有)
右隅に駅前の大鳥居が写り込んでいます。

 二見興玉神社のあとに、JR線で「津」まで北上。別格官幣社にして太平記にちなむ「結城神社」を参拝したあとで、さらに北上して、四日市からバスで椿大神社へ。つまりこの紀行では順番が逆転していたりする。


猿田彦神社(無格社・三重県伊勢市宇治浦田鎮座)
祭神:猿田彦大神(サルダヒコ大神)
相殿:大田命(サルダヒコ神の後裔・別名ともいう)

 猿田彦神はニニギ尊の天孫降臨に際して、出迎えた神。詳細は「天孫降臨」の項を参照。このことから猿田彦神は道しるべの神とされている。
 大田命は、垂仁天皇皇女である倭姫命が天照大神を奉じて巡幸していた際に、五十鈴川川上の土地を教え内宮の鎮座を導いた、と伝えられている。

 宮司の宇治土公(うじのつちぎみ・うじとこ)氏は、猿田彦大神・大田命の末裔とされる。当社の創始は明かではないが、もともと当社は宇治土公氏が内宮近くで祖神を祀ったことにはじまるという。宇治土公氏の邸宅内で祀られていたために、鎮座地は確定せず、現在の地に鎮座(邸宅移動)したのが延宝5年(1677)という。慶応3年(1867)に火災にあい、明治11年に社殿復興。この年に三重県から私的に邸宅内に祀られていたものを法的に「神社」として公認された。
 境内にはアメノウズメ命を祀る「佐瑠女神社(さるめ)」が鎮座しており、芸能の神・縁結びの神として崇敬されている。

猿田彦神社 佐瑠女神社
宇治土公家・正門 左上:猿田彦神社拝殿
建築様式は独特の「猿田彦造(二重破風妻入造」)」

上:佐瑠女神社(境内社)
天宇受売命(アメノウズメ命)をまつる

左:宇治土公家の正門
建築は江戸初期という。

 伊勢の皇大神宮(内宮)に通じる道路の入口、まさしく道しるべのように鎮座している神社。私は由緒を知らずに訪問したために、この風格は「県社」クラス、だという印象を持っていた。のちに調べてみて「無格社」であるということがわかり、ある意味では仰天。これほどの規模でも明治期はいわば個人の「私社」であったという。
 内宮の気配と雰囲気と心の高ぶりをそのまま持ち込んだ形で参拝。ゆえにあまり印象には残っていない。個人的には雰囲気というか、この神社がはなつ気配が俗臭のような気がしてあまり好印象はもってなかった。ただ、これは私の気分の問題。他の人がどう思うかまだはしらない。きっと内宮と月讀宮参拝の間にはいってしまったゆえに気分であるとはおもうが。

 この他の話は「お伊勢参りの風景」にて。


 あべこべだけれども、「6.猿田彦神の神社編」は終了。続いて、その他の神社を列記します。




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