倭建命の東征

 

曾・出雲討伐を終えた倭建命に対して景行天皇は「東の方にある12カ国(アヅマの国々)の荒れすさぶ神と服従しない者らを平定せよ」と仰せになり、吉備臣の祖である御耜友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を従わせ、柊(ひいらぎ・魔よけの意味がある)でできた大きな矛を与えになった。

 

御耜友耳建日子
吉備臣日子・吉備建彦

みすきともみみたけひこ
きびのおみのひこ・きびのたけひこ

・倭建命の副臣
・倭建命は吉備臣と深い関係にあり、后も吉備臣一族であり母親も吉備臣一族
・吉備臣建日子と同一なら妹(書記は吉備武彦の娘)が倭建命の后
「書記」では吉備建彦大伴武日連(おおともたけひむらじ)の二人が副臣とされている

 

七拳脛

ななつかはぎ

・倭建命の膳夫(食事を司る)
・久米直の祖先という
・東征に従った

 

途中、伊勢大神宮を参拝し、伊勢斎宮で叔母の倭比売命前述)に「天皇は私なんか死んでしまえと思うのはどうしてでしょう。西方の悪者どもを討伐し、都に帰ってきたらすぐさま東国の悪者でもを平定せよとは、まったく私なんか死んでしまえとお思いになっていらっしゃるのです」と嘆き泣きながら倭比売命にいった。そこで倭比売命は倭建命に、草那芸剣をお授けになり、また、袋をお授けになり「もし火急のことがあれば、この袋の口を解きなさい」と仰せになった。

 

     草那藝の剣はスサノヲ神からアマテラス大御神に渡され、ニニギ尊の天孫降臨の際に授けられ、そして伊勢に奉納されたのちにヤマトタケル尊の手に渡り東方平定が果たされたのち、熱田に置かれる。このことは天神であるアマテラス大御神の霊威が東国にまで及んだことを意味する。(草那藝剣は前述

     しかし、この剣は三種の神器(八咫の鏡・天叢雲剣・八尺瓊曲玉)には結びついていない。

     書記では日本武尊は征夷大将軍風風格でもって出立しており、古事記のような哀愁は感じられない。

 

倭建命が尾張国に着き、尾張国造家の美夜受比売(みやずひめ)の家に泊まり、比売と結婚しようと思っていたが、しかし再び帰って来たときに結婚しようと約束して、倭建命は東方に向かい、山河の荒れすさぶる神々と、服従しない者どもを平定していった。

 

美夜受比売
宮簀媛

みやずひめ

・倭建命の后となる
・尾張氏の娘との結婚は尾張氏の服従を意味する
・尾張が東国の玄関の役を担っている
熱田神宮(官大・愛知名古屋)

 

 

そうして相模の国に着いたとき、国造が欺いて、倭建命に「この野の真ん中に大きな沼があります。この沼の中に住んでいる神は、たいへん荒々しい神なのです」と申し上げ、倭建命はその神を御覧になろうと野原に入っていった。すると国造は氷を野に放ち倭建命を焼き殺そうとした。
そこで騙されたと気がついた倭建命は、火急の中で叔母の倭比売命から授かった袋を開けてみると、火打ち石が中に入っていた。そこで、まず火を草那藝の刀で刈り払い、火打ち石で火を打ち出し、火勢を退け、野に戻り、国造らをすべて斬り殺して、死体に火を放った。それでこの地を焼遣(焼津・・・駿河静岡の焼津説は疑問。相模にこの地名があったのか?)という。
 

     書記では焼津は駿河とされ、現静岡の焼津と一致する。また野に大鹿がいるから狩猟をされては、といわれて野に入   った。

     相模国造というからには一度は中央に服従した地であり反乱をおこした首長か。国造はのちに登場する荒ぶれる蝦    夷らとは違う。崇神天皇の四道将軍であった建沼河別命(たけぬまかわのわけのみこと=大毘古命の子・前述)が   東海道を平定しているため、皇子の仕事はそれ以東と考えられる。

 

 

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