崇神天皇と出雲の神宝

 

以下の話は『古事記』には記載がなく、『古事記』の流れからは話が前後してしまうが、『書記』から抜粋する。

 

崇神天皇は群臣をあつめ「武日照命(たけひなてりのみこと=天菩比神前述・オオクニヌシ神に心服し出雲大社の祭祀を司った)の御子)が天から持って帰った神宝が、出雲大神の宮殿に収蔵してある。ぜひこれがみたいものだ」と仰せられた。そこで矢田部造の遠祖の武諸隅(たけもろすみ)を派遣して、献上させることにした。
出雲臣の遠祖にあたる出雲振根(いずもふるね・出雲臣は天菩比神の子孫・代々の出雲大社の宮司も出雲臣の末裔という)が神宝を管理していたが、武諸隅が訪れた際には筑紫国に出かけており会うことが出来なかった。しかし出雲振根の弟である飯入根(いいいりね)が、天皇の命を受けいれ、神宝を弟の甘美韓日狭(うましからひさ)とその子の鸕濡淳(うかずくね)に持たして献上した。

兄である出雲振根が帰国して弟の処置に対して「なぜもう少し待たなかった。何を恐れて神宝を差し出してしまったのだ」と責めた。そうして何年かたっても怒りはおさまらず弟を殺そうという気持ちが湧いてきた。そこで兄は策略でもって弟を撃ち殺してしまった。
甘美韓日狭と鸕濡淳は朝廷に参上して、事の次第を報告し、吉備津彦(きびつひこ・四道将軍・前述)と武淳河別(たけぬなかわわけ・四道将軍・前述)を派遣して出雲振根を攻め滅ぼしてしまった。それゆえ出雲臣一族は、このことを恐れ、出雲大神(オオクニヌシ神)をしばらくの間祭らなかった。

その時、丹波の氷上の氷香戸辺(ひかとべ)という人物が皇太子の活目尊(いくめのみこと・のちの垂仁天皇)に「私の子供が、自然に不思議なことを言いました。これは子供の言葉としては不自然で、あるいは出雲大神が取り憑いた言葉かもしれません。」と申し上げた。
皇太子がそのことを天皇に奏上され、勅を下して出雲大神を祭らせることになったという。

  

また崇神天皇の頃に、任那国が蘇那葛叱知(そなかしち)を派遣して朝貢してきたという。

 

 

     書記掲載の話を簡略化させるとこんな感じになる。あくまで参考程度に。

     ただ出雲はのちのちの拘わってくるので・・・

 

 

 

 

前に戻る