「園部亀岡の古社詣で・2」
<平成16年9月参拝>

目次
その1 園部・「生身天満宮」/「摩気神社」/「薮田神社」
その2 亀岡・「宮川神社」/「稗田野神社」/「小幡神社」/「走田神社」/「出雲大神宮


摩気・薮田の神社を経て、亀岡市をすすむ。約4キロの道のり。
宮前町の細細とした集落を車で縫って進めば、半国山を後方に控える麓に「宮川神社」が鎮座している。
到着時間は11時05分だった。


宮川神社(式内社・村社)
<京都府亀岡市宮前町宮川鎮座>

祭神:伊賀古夜姫命・誉田別命

由緒
文武天皇大宝年間(701−708)、山上に伊賀古夜姫命を祀ったのが起源とされる。当地を古くは神野山と称し、延喜式の神野神社とされている。

誉田別命は欽明天皇32年(571)に宇佐八幡から分祀され神野山山中に祀られたとされている。

天正5年(1577)に明智光秀と波多野秀治の合戦に際して両社共に焼失し、正保4年(1647)に山麓の現在地に社殿を遷座し、二神をあわせ祀った際に「宮川神社」としたとされる。

伊賀古夜姫命は下賀茂社の玉依姫命の母神であり、賀茂社と関係も深く、賀茂社祭礼の葵祭に際しては当社の氏子も奉仕参加している。

宮川
正面
宮川
参道
宮川
境内
宮川
境内脇の小川
宮川
本殿覆殿にのし掛かる磐座
宮川
社地後方から

特にお勧め、と言われた神社。たしかにたしかに。この雰囲気はなかなか堪能できないぞ。清なる小流のそばで、小雨に包まれて山に埋没するかのように鎮座。この人知れず、という気配が嬉しい。
巨石がゴロゴロと転がる境内で、本殿後方にひときわ大きな巨石が、わかりやすくそして豪快に「磐座」として鎮まっていた。

磐座に接しながら渓流を辿りながら、自然と同化し、そして雨に降られはじめる。それでもなかなか味わえない神社の雰囲気に大いに満足して、クルマに戻る。

そのまま、372号線をみちすがらに南東下して、そろそろかなというところでちょこっと迷う。もっともその時はどこをどうやって走っているかがまったく理解できていないので、いまだから最もらしく「372号線」とかいえるが、そんな道を走っていることすら知らない私。基本的に鉄道派な私はクルマや道路には無頓着なのだ。

いずれにせよ11時45分に約7キロ走って「稗田野神社」到着。一段と雨が強くなってきた。



稗田野神社(稗は本来は「クサカンムリ」に「稗」・式内社・郷社)
<京都府亀岡市稗田野町佐伯鎮座>

祭神:保食命・大山祇命・野椎命

由緒
和銅2年(709)に丹波国司大神朝臣狛麻呂が創建。
鎌倉期以降は神宮寺ともなり、また稗田八幡宮とも称された。
社宝の石燈籠が重要美術品指定。

貞観元年(859)に大雪が降り、清和天皇が当社に勅使を送って稲の生育を祈願したという。後堀河天皇は寛喜元年(1229)に御所灯籠5基を送って豊作を祈り、これが有名な「佐伯灯籠(灯籠祭)」の起こりという。<角川地名辞典>

ただし、「神社辞典(東京堂出版)」では「佐伯灯籠」は、貞観元年(859)に御所の灯籠を下賜されたことにはじまると伝承されている、とある。

神社境内の案内看板には「平安時代に御所より当社に下賜された」、とある。いずれにせよ御所から灯籠が下賜され、五穀豊穣祈願の神事の中心となったことがわかる。

また当社では背丈30センチほどの日本最小の串人形で淨瑠璃が演じられることでも著名。

稗田野神社
正面
稗田野神社
大鳥居を社殿側から
稗田野神社
境内
稗田野神社
社殿
稗田野神社 京式八角石燈籠
鎌倉時代。

もはや雨に降られたことぐらいしか記憶にない。そんな雨の中でもちょうどなにかの祭礼があったらしく神社はザワザワと賑わっていた。もっともそれが日常の姿かもしれないし、神社気配的に、そんな賑やかさが似合っている神社だったから。
雨であるのはしかたがない。神社に来たけれども、別に濡れたいわけではない。
しょうがないので、早々に次へ進む。もはや雨のなかで「私のために神社を案内してくれる」という案内同行人2人の心遣いに感謝なのだ。

道を東に進んで、亀岡運動公園を南下して犬養川のほとり、山の切っ先のようなところに「小幡神社」が鎮座。
約4キロの道のり、時間は12時5分。ちょうど運良く雨が上がったのが幸い。


「小幡神社」(式内社・村社)
<亀岡市曽我部町鎮座>

主祭神:開化天皇
配祀神:彦坐王・小俣王

由緒
崇神天皇の命によって派遣された四道将軍の一人で、丹波地方を治めた丹波道主命が、皇祖開化天皇を主神に、開化天皇の御子である彦坐王と、その御子の小俣王を祭ったことにはじまる。

和銅元年(708)に丹波国司大神朝臣狛麻呂が霊域に社殿を建立。延喜式では式内社列格。

現在の社殿は天和3年(1683)に造営された一間流造。京都府登録文化財。また当社には円山応挙の絵馬が奉納されている。

当社は亀岡出身の大本教の出口王仁三郎ゆかりの神社。小幡神社の神託によって社地後方の高熊山で修行したとされている。
ちなみに小幡神社の現在の宮司は、古代史関係の歴史学者で著名な上田正昭氏。上田氏と大本教は縁が深い。

小幡神社
小幡神社。右が宮司宅。
小幡神社
正面
小幡神社
拝所
小幡神社
本殿

案内人たる高坂氏いわく。「この神社は大本教に関係が深い神社。そして宮司が上田正昭氏。」というのをきいてかなりの驚き。大本云々は亀岡ゆえに別に驚かないが、上田氏に驚き。こんなところで上田氏の名前が出てくるとは思っていなかったので。なにが面白い、というと大まじめに表札が「上田正昭」とあるし、そして大きな歌碑まで立っている。なるほどねえ、という感じで、かなり興味そそられる神社。いや神社というよりも、そのシチュエーションかも知れない。

小幡神社から、道を迷いつつ、地図でみる限り東に2キロではあれど、迷った結果に「なあんだ、あそこの森か」ということで走田神社に到着したのが12時25分。


「走田神社」(式内社・郷社)
<亀岡市余部町鎮座>

祭神:
彦火火出見尊<ヒコホホデミ尊・ホオリ尊・山幸彦>
豊玉姫尊<海神の娘、ホオリ尊の妻>
鵜葺草葺不合尊<ウガヤフキアエズ尊・神社正式神名表示できず・神武帝の父>

由緒
和銅4年(711)に創祀されたとされる。
社名の由来は和稲田・早稻田が音韻変化したものという。
昔当社にかけられていた絵馬から馬が毎夜飛び出し、やがてその蹄の跡が窪地となって川になったとされる。その当社の横を流れる不鳴川は洪水の際も静かに流れる、とされ音無川とも呼ばれた。
境内に「垂乳味池」という清水があり、トヨタマヒメ命がウガヤフキアヘズ尊を出産し、竜宮に帰ってしまったあと<詳述>に、妹のタマヨリヒメ命が、この清水で粥をつくり乳の代わりとしたことから「乳垂味池」とよばれるようになったとされる。

走田神社
正面
走田神社
参道
走田神社
社殿
走田神社
本殿

あたりは田園風景。ほどよく実った稲穂が垂れている。ただ前をみればそこには鬱蒼たる樹木をたたえた「走田神社」が鎮座している。整然と植樹されているようで、ほどよく放置されているかのような境内林は、清清しい空気を蓄えていた。

さすがにお疲れなので、ここで昼食。案内同行人2人とともに「トンカツ」を食す。ついさきごろ顔を合わせて、いきなり神社を連続参拝して、そして雨に降られて、トンカツを食してという、かなり異色な一日。もっとも私はこのあとで「ライブ」に寝台列車で帰京という怪しさがあるのだが。

いずれにせよ、走田神社から亀山駅方向にすすみ、亀山城趾を横にすすむ。まったく方向の違う「出雲大神宮」は亀山から北の方向。
13時45分。「出雲大神宮」到着。


出雲大神宮(出雲神社・国幣中社・式内名神大社・重要文化財本殿・元出雲)
<京都市亀岡市千歳町出雲鎮座・朱印

祭神
大国主神
三穂津姫命<大国主神の妻神・保津川の由来にも>

由緒
島根の出雲大社を勧進したとも、逆に当社の祭神を出雲に遷し祀ったともいわれ俗に「元出雲」と称されている。
当社後方の山を「御神体山」として、別名を「千年山」と呼称することから「千年宮」とも称す。御神体でもある「千年山」には国常立神が鎮まる神域とされる。

元明天皇の和銅2年(709)に社殿建立。社殿建立以前から御神体山を中心に祭祀が行われていたと思われる。
延喜式では国幣の名神大社に列格。丹波国一の宮。

現在の本殿は三間社流造。鎌倉時代に元徳年中(1329−32)に建立。貞和2年(1346)に足利尊氏によって修造され、重要文化財指定。(旧国宝指定)

明治4年、国幣中社列格。現在は単立神社。

出雲大神宮
正面
出雲大神宮
社殿
出雲大神宮
徒然草で「丹波に出雲といふ所あり」の話題となった狛犬
今は本殿を向いていませんが。もちろん向けられませんが。
出雲大神宮
本殿
重要文化財
出雲大神宮
左:境内摂社「春日社」は磐座
当社は「磐」が多い神社。あちらこちらに点在している。
原始神道的な神社でもある。
出雲大神宮
古墳開口部・横穴石室
推定5世紀−6世紀初めという
出雲大神宮
本殿後方の磐座
出雲大神宮
みかげの瀧
出雲大神宮
「上の社」奧の磐座
出雲大神宮
上の社は須佐之男神と奇稲田姫命

あいかわらず雨が降っている。
亀山駅から北へ5キロの所に鎮座。普段の私は電車とバスと徒歩で神社詣でをするのだが、今回は「案内同行人」の好意に甘えて「車で参拝」。どうやらあまりに快適で便利すぎるためか「神社にたどり着いた喜び」がそこにはなかった。
こういうのもなんだけれども、やはり自分で苦労しないといけないな、と反省。自分の足で、自分の力で「神社に到達したとき」の喜びとドキドキが好きなのだ。
もっともこれは後日談。

出雲大神宮。大神宮となのるのは、いささか誇張のしすぎのような気もする。
濡れる雨のなかで、しっとりと彩られる磐座を眺めて、神威的な磐座に信仰の歴史を感じとる。境内の御神水たる「真名井の水」を汲みにきている地元の人が10名ほどいてそこだけは賑わっている。逆に言うとそこ以外は賑わっていない。まったく皆無の気配のなかで、私と同行案内人二人の合わせて三人は、途中の「上の社」で雨のために身動きがとれなくなって雨宿り。全く不思議な環境だ。

雨はやまないので、しょうがない。雨の中、磐座巡りをして、境内山麓もろもろをゆっくりと見ることも出来ずに車へと戻る。
時間は2時30分。まだ時間はあるけれども、雨に降られてお疲れ気味なのと、私の神社趣味をあまり押しつけるのもよくないので、ここで切り上げ。適当にファミレスで休息をして、私は京都駅に舞い戻る。
その日の夜は京都でライブ。そしてその日の深夜は「寝台列車」で、翌日朝から「仕事」というすばらしいスケジュールが私を待っているから。

いろいろとわかったこと。
はじめて訪れる神社は「一人旅」に限るらしい。どうも「案内」して貰うと私の感性が曇る。おまけに甘えすぎて、自ら探究する心を失う。そして「気を遣って」しまう。それゆえに「案内」は非常にありがたく助かるが、それでは私がどうにも楽をしすぎて、よろしくない。
今回の丹波国巡りは普段の私ではありえない「車移動」によって、多くの神社を半日でまわったが、どうにも慌ただしすぎる。
まあ、たまにはそんな「贅沢」も良いのかもしれないが。

改めて。同行して頂いた高坂氏<同人「奇魂」主宰者>陳五郎氏<ギターマン>の二人には大変御世話になった。この場で御礼を改めて申し上げたい。

殊更改めて。今回はそんなこんなで「神社を紀行」していませんが、ご理解を。


参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
角川地名大辞典26・京都府

各神社の由緒、案内看板。



前に戻る