「園部亀岡の古社詣で・1」
<平成16年9月参拝>

目次
その1 園部・「生身天満宮」/「摩気神社」/「薮田神社
その2 亀岡・「宮川神社」/「稗田野神社」/「小幡神社」/「走田神社」/「出雲大神宮」


京都に用事があった。京都で行われるライブに参加しようと思い立ち、チケットを確保していた。夕方の五時過ぎに京都にいればよい私は、単純に言えば「日中の時間」があまっていた。もっとも日帰りの予定だからさほどにあまっているわけでもないが、それでも早朝の新幹線に乗り込めば8時40分には京都に到着できる。

せっかくだから「京都園部在住の某人に会おうかな」と思い立ち、その旨を話してみると、彼の人からは「せっかくだから園部にきませんか」とお誘いをうける。お誘いをうけたゆえに、予定外ではあるが「園部」に足を伸ばすことにする。
実は、話をした先方は私にとっても未知未見の人。ネット上しか交流がなかったので、まったく顔もしらない。それゆえにせっかくの京都だから会ってみようか知らんと思い立ったのではあるが、そう言う意味でもかなりの緊張もの。おまけに、貴重な時間を費やして私の酔狂な神社詣での「道案内」をしてくれるということで、ますます恐縮ものであった。

朝、5時前に家を出て、4時間の時間を費やして9時28分。新幹線と特急を乗り継いで園部駅に到着。この時点で、もう疲れているのですが。
改札の前に待っています、とのことで改札を抜ければ、本日の案内人たる高坂氏<同人「奇魂」主宰者>陳五郎氏<ギターマン>の二人がいる。「奇魂」という同人誌を媒体に紙面ネット面で知り合ったお二人であれど、本日はじめて対面するのだ。もっともこのページは「淡々と神社を眺めるページ」だから余事雑事は控えたいし、そもそも「誰とどうした」という記述は無用であろう。
私の神社紀行では、一人旅をしているがゆえに私以外の登場人物は出てこないのが基本。しかし今回は園部在住のお二人に案内して貰うゆえに、私という自己は完全に埋没してしまう。

普段なら下調べをするのだが、完全に甘えて下調べも無し。そもそも園部地方の神社にどのようなものがあるのか私は完全に門外漢で土地勘もないので、かなり怪しげなのだ。それゆえに完全に私は身柄を高坂氏に預けて「すべてを万事お任せします」という状態。

おまけに私のスタンスとして「○○駅から、どうこう歩いて、やっと神社につきました」的な参拝手順も今回はナシなのだ。なぜならクルマでビューッと知らない道を運んで貰っているから。それゆえに、今回は「紀行文」としては一切成立しないことを御了承下さい。

いずれにせよ。クルマに乗せられて、まずは「園部城祉」をざっと外見見物して、次いで「生身天満宮」。



園部城趾
元和五年(1619)に但馬出石から園部二万石に移封となった小出吉親によって生身天満の地に「園部陣屋」が構築。
戊辰戦争時に明治政府から園部陣屋を園部城として整備する許可を受けて明治元年(1868)から二年間をかけて築城。しかし時流がかわり園部城は明治五年に取り壊し。
現在は巽櫓などがわずかに残り、高校や公園として整備されている。

園部 園部
園部 上二枚
園部城趾遺構


復元天守閣

9時45分。
園部城趾はちょっとした高台に鎮座。この地はもともと生身天満宮の鎮座していた小麦山である。
園部城と言っても、城としての遺跡は「園部高校」の敷地内に取り込まれている「巽櫓」と「城門」ぐらいなもの。その右手の公園には三層を誇る天守閣があるが、もちろん「模造天守」。そういうものは外から眺めるに限る。


生身天満宮(府社・いきみ天満宮・園部天満宮・日本最古の天満宮)
<京都府船井郡園部町美園町鎮座・朱印

祭神
菅原朝臣道真公

由緒
延喜元年(901)、菅原道真公が藤原時平らの策謀によって九州太宰府に左遷された時、菅公の領地であった園部代官の武部源蔵(武部治定)が、菅公の八男慶能の養育を頼まれ、慶能のために園部小麦山の邸内に菅公の木像を刻み、生祠として奉斎したことに始まる。
菅公生前から祭祀されていたことから、当社を「生身天満宮」と称し、日本最古の天満宮とされている。

以後、管領細川氏や園部藩主小出氏らによってあつく崇敬されてきた。
園部藩初代小出吉親によって承応二年(1653)に園部陣屋が小麦山に築城されるにあたって、当社は現在地に遷座。

生身天満宮
社頭
生身天満宮
石段を昇って左側
生身天満宮
社殿正面
生身天満宮
社殿左側
生身天満宮
拝所・本殿
生身天満宮
神楽殿
生身天満宮
社殿後方
生身天満宮
武部源蔵墓と武部源蔵社

園部城趾からクルマに乗り、到着が9時50分。キリスト教系の高校の隣に鎮座。園部駅からちょうど山を挟んだ反対側に神社社地がある。その社地前方には園部城趾のあった高校や町役場。
訪れた時に、丁度神社関係者がおられたので、朱印と由緒書きを頂戴する。最近の私のスタンスはタイミングが良ければ朱印を貰うという感じであり、居ないところを呼びたててまで貰おうとは思っていない。

生身天満宮。菅公生前から崇敬されていた祠が創祀である。あまり天満宮らしい印象はなく、関東人からみた「関西らしい古社」の雰囲気を醸し出している。社殿配置は、私がはじめて接するレイアウトであり、本殿の回りを回廊が巡っており、参詣者はそのまま回廊のなかで拝するという様式。かなり物珍しい感覚で、私は社殿をグルグルと眺める。

最初から退屈そうな同行案内人二名を尻目に、20分ほど滞在。神社に興味がない人々にとって、なにするでもなく神社に訪れる私は、はたしてどのような印象なのだろうか。なんせはじめて出逢った同行案内人二名と、挨拶もそこそこにいきなり「神社詣で」なのだから、私はかなり肩身が狭く恐縮している。もっとも神社にさえ足を踏み入れればそんな遠慮もなくなるのだが、それでもクルマの中では遠慮しっぱなし。

天満宮から県道54号線を西にすすめば、山地が開けたところに摩気神社が鎮座。



摩気神社(式内名神大社・府社)
<京都府船井郡園部町竹井宮ノ谷鎮座>

祭神
大御饌津彦神<おおみけつひこ神・天児屋根命の御子神である天忍雲根命の尊称名>

由緒
延喜式内の名神大社。明治社格では府社。摩気郷の総社。
創建由緒は不詳。神護景雲4年(770)にはすでに勅命によって神封されているため、創建はそれよりもさかのぼることは古社であることは間違いない。
承暦3年に白河上皇が当社に御幸され「船井第一摩気大社」の勅額を下賜されたという。
近世期には園部藩小出氏によって崇敬。勅願所となった。
宝暦11年(1761)に火災によって社殿焼失。明和4年(1775)以降に順次社殿が再建。文化5年(1808)に神門再建。

本殿及び東西両摂社殿は覆屋を含めて京都府文化財保護指定建造物。
本殿は一間社流造では京都府内最大の社殿。

摩気神社
摩気神社社頭
摩気神社
神門
摩気神社
境内
摩気神社
境内
摩気神社
本殿
摩気神社
社殿右側
摩気神社 社地後方。
後方には胎金寺山をひかえる

徒歩でも電車でもないので到着時間を記載してもなんにも「行動の目安」にはならないけど、それでもクルマは走って10時24分に社頭脇に到着。
ドンピシャリな感じで私の心にクリーンヒットしてしまいましたが。この神社の気配は。

苔むした藁葺きで、神社社殿が覆われており、本殿、東西両摂社殿が見事な均整とバランスで鎮座。丹波国を北面している神社は、園部川を渡り社地後方に胎金寺山を控える山間に鎮座している。
今にも雨が降りそうな曇天の下で、淡い日差しに包まれ、歴史の息吹を感じる境内。しっとりとしたやさしさは、恐らく苔むした藁葺きがかもし出しているのだろう。

社地脇を流れる小川で子どもたちがザリガニ捕りをしている。陳五郎氏が「なにしてんの?」と眺めても警戒しない、なんとも微笑ましい気配。都会の子供らではこうはいかない。
高坂氏からは「このあたりの家はみんな神田さんなんだよ」と教わり表札をながめるとたしかにそうだ。そんなところももっともらしくて、微笑ましい。代々受け継がれてきた神社奉斎の家柄を、いまも支え続ける土地柄風土すらもが、うらやましい。


「薮田神社」(式内論社)
(船井郡園部町南大谷新林鎮座)

祭神:

創祀は不詳。式内社「志多非神社」とされている。

薮田神社
社頭
薮田神社
境内

クルマに乗り込んで国道372号に接続。摩気神社から南東にくだれば亀岡との境目付近に鎮座しているのが薮田神社。
時間は10時55分。
高坂氏から「どうする。ここも式内社らしいから一応見ておく?」と問われれば、私一人ではまず訪れない場所ゆえに、せっかくの機会だから車を降りて参拝。
もっとも勉強不足な私は丹波国船井郡の式内社を全部把握しているわけでもないし、ましては全国の式内社を参拝する気力もないので、神社の気配、丹波の気配を味わいつつ参拝。

クルマはさらに国道372号線を南下して亀岡市にはいる。
続きは次ページにて。


参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
角川地名大辞典26・京都府



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