「武士(もののふ)の島。総鎮守の大三島へ。」
<平成17年5月参拝・平成17年6月記>
「大山祇神社」
5月28日。私は広島にいた。広島で特殊な神社のまつりに参加するために。<そんな模様はこちら>
広島の翌日。東京に帰る途中に、立ち寄りたい場所があった。
大三島。伊予一之宮。大山祇神社。
なかなか行きにくい場所。そうであるからこそ、行きたかった。
「広島駅」8時43分。朝のスタートはちょと遅め。なにかと疲れていたのだ。
のんびりと山陽本線にゆられて9時54分に「三原駅」到着。そんなに急ぐ気持ちはない。船の時間は決まっているのだから。
11時15分に大三島「井口」港行きの高速船が出発する。約1時間あるので、三原の市内を散策(三原八幡宮・三原城趾)して桟橋で休息。
高速船は空いている。生口島「瀬戸田港」と大三島「井口港」に立ち寄る高速船は約10名ほどの乗客を乗せる。ありがたいことに後甲板に出ることは自由。高速船だと場合によって客席から出ることを禁じられることもあるが、私は一脚を甲板にたてて、島をながめてつつに瀬戸内の海をカメラ片手に楽しむ。
地元民にとって当たり前の光景であれど、私にとっては未知なる経験。そんな何気なさに心の安息を求める私も最近はだいぶすさんでいるらしい。
島に向かう。瀬戸内、大三島。船で赴く。そんな旅程が心憎い。しまなみ海道を一気に高速バスで下れば楽ではある。しかし島にバスで行くという術は誉められるものではない。
はじめての土地。それも島に行くのであれば、その旅程も楽しみたいのが旅人の術。
広島三原港。大三島行高速船 |
途中、フェリーを追い抜く。フェリーは佐木島向島港行だろうか。 |
生口島瀬戸田港を出港 |
大三島北東部の井口港へ向かう。 |
左 大三島井口港に到着。 しまなみ海道の多々羅大橋が霞む |
11時15分に三島港を出港。生口島と高根島の間をすすみ、11時43分に生口島瀬戸田港に到着。大半の乗客を降ろして、船内は二人のおばさん旅行者と私だけになる。
ここから真っ直ぐに南下すれば正面に大三島を迎える。11時56分に大三島「井口港」に到着。
薄曇りの中で、その先には「しまなみ海道・多々羅大橋」をみる。島ではあれど、橋で結ばれる土地。地元にとっては有り難い橋をみつつも、私は至極当たり前に「船」で大三島に行くことしか考えていなかった。
大三島井口港からのバス。バスは「島というイメージ」とはうらはらに比較的運転本数が多い。特に愛媛県今治との高速バスが多い。そういえばここは愛媛県だ、伊予国だ、と認識を改める。広島方面から来たために「愛媛伊予」に足を踏み入れたという意識はあまりなかった。
12時14分。井口港から宮浦港に向かうバスに乗る。このバスは今治からしまなみ海道を走ってきたバスであり、いわゆる乗合バスではなく観光バス。
井口港は島の東側。宮浦港と大山祇神社は島の西側なので東西に移動せざるをえないのだ。それでも「しまなみ海道」のおかげなのか、交通アクセスが格段に便利になっていることを実感。
船で御一緒だったおばさん二人と共にバスに乗り込む。
さっきから、雲が多い。実際は雲ではなく煙。バスの運転手が言う。「昨日から山火事で、煙が凄くて」。
いわれて左をみれば・・・本気で「山火事」。そうか、道理で島がけむっていたわけだ。
それにしても私はとんでもない瞬間に大三島に来たらしい。
さらには本日は「大三島・大山祇神社の例大祭」。この日を知っていたわけではないが、たまたまの例大祭。そして山火事。私の神社詣で史上、もっとも波乱の展開が待ちかまえていたようでもあった。
12時25分。バスは大山祇神社に到着。さすがに例大祭。人手が多く、屋台も多い。そして山火事。山を見ている人も多ければ、消防団の一団、しまいには自衛隊の災害派遣隊までも往来し、とにもかくにも一大事であった。
なにやらどっぷりと疲れたような気もするが、とにかく私は大山祇神社に来た。まつりは関係ない。私は私流に神社詣でを開始することにする。
まつりに浮かれる人を尻目に、極めて大まじめに参拝をする私は、極めて浮いているのは承知してゐるが。
「大山祇神社」 (国幣大社・伊予一之宮・延喜式内名神大社・日本総鎮守・三島神社総本社)
<愛媛県今治市大三島町(旧越智郡大三島町宮浦)鎮座・朱印>
主祭神:大山積大神(和多志大神・三島明神・大山津見命・大山祇命)
延喜式内の名神大社。伊予国一の宮。芸予海峽の中央たる大三島に鎮座。境内は日本最古の原始林社叢たる大楠群に覆われている。
天孫瓊瓊杵尊御降臨に際して、天照大神の兄神にあたる大山積大神(またの名を名吾田国主事勝国勝長狭命)は娘神の木花開耶姫尊を瓊瓊杵尊の后妃として、国を奉られた建国の大神。
地海兼備の守護神。日本民族の総氏神としても崇敬。
神武天皇東征に際して、大山積神の子孫であった小千命が先駆者として伊予二名島にわたり瀬戸内海の治安を司っていた際に、芸予海峽の要衝である御島(大三島)にまつったことにはじまるという。
また仁徳天皇の頃に伊予越智国造の祖である吾田乎到命が創祀したことにはじまるともいう。
白河天皇の頃に当社を詣でた能因法師は祈雨の歌を奉納しており、その際の大楠も現存。
「天の川苗代水にせきくだせ、あまくだります神ならば神」
三蹟のひとりである藤原佐里は伊予国で嵐にあい、「日本総鎮守大山積大明神」の神号扁額(国宝)を船板に書いて航海安全祈願をしたという。
中世期以降、源氏、鎌倉北条氏、足利氏をはじめ各領主の崇敬をあつめ、とくに三島水軍の河野氏は氏神として尊崇。
現存の本殿は三間社流造。応永三十四(1427)年頃の再建。拝殿・本殿が国重要文化財指定。
明治社格では明治四年に国幣中社、大正四年に国幣大社列格。四国隨一の格を誇った。
当社所所蔵の宝物は数万点。「国宝の島」とも称されている。国宝指定宝物は8点。国重文指定宝物は約480点にも及ぶ。特に刀剣武具などの国宝や国重文は全国の8割が当社宝物である。
当社は全国の三島社・三島神社の総本社でもあり、分霊された三島社等大山積神をまつる神社は約一万社を越える。
社頭。右手奥の「安神山」「鷲ケ頭山」が・・・ |
実は例大祭だった。しらなかったが。 |
大日本総鎮守大山祇神社 |
賑わう参道 |
国重文 宝篋印塔<鎌倉期> 河野道広の子としてうまれた 一遍上人(時宗の祖・三島水軍河野通信の孫)が奉納 |
神門 |
拝殿 |
拝殿 |
本殿 |
本殿と上津社 |
下津社・本殿・上津社の三社がならぶ。 普段は閉じている放水銃が臨戦態勢・・・ |
本殿 国重要文化財 |
県文化財 十七社 室町期 伊予一之宮として国内諸神をまつった長棟造社殿 |
十七社 |
伊予国総社・葛城神社・祓殿神社の合祀社祓殿 |
御棧敷殿と斎田(神田) |
天然記念物・小千命(おちのみこと)手植えの楠 樹齢約2600年の御神木 |
御神木は参道中央に鎮座す |
天然記念物 能因法師 雨乞いの楠 |
天然記念物 能因法師 雨乞いの楠 日本最古の楠(樹齢約3000) |
大山祇神社。大楠が印象的。日本最古の大楠社叢群であり、樹齢2000〜3000年を誇る木々が境内に密集している。
しばらく見とれる神木。歴史を刻んできた神木。その2000年以上といわれる樹齢は、まさに神々とともに歩んできた時間でもある。飽きることなくみとれ、みほれる。
神社拝殿。いよいよ大山祇神社にきたな、と実感。拝して、朱印を頂戴して、そして待つ。例大祭ということもあり、人の流れはとぎれる事はない。流の中での一瞬の空白を逃がすことなく私は待つ。写真を撮らせて頂くために。
神社本殿。後方にぐるりとまわり、より近いところで拝する。ここまでくれば、人の気配も皆無。やはり、この空間のほうが私はよっぽどに心休まる。
普段は「ケース」のなかに納まっている「放水銃」が、臨戦態勢で本殿に向けられている。あぁ、なるほど、考えてみれば山火事が類焼する可能性がないわけではない。
やはり例大祭。賑賑しい。
そして私は広島の帰りなので「三脚と一脚」。デジ一眼と交換レンズ多数、という完全なるアマチュアカメラマンスタイルなので、時折「報道関係者」に間違われたとか。
山火事中の「鷲ケ頭山」に三脚+望遠レンズでカメラをむければ、そういう判断もできるだろう。
少なくとも、私は狙っていたわけでもないし、たまたま三脚持参なわけで、普段の神社詣でには三脚は持ち込まない。
参拝時は5月29日。 大三島・大山祇神社後方の「鷲ケ頭山」 愛媛県今治市大三島町で 5月28日に出火した山林火災は 発生から6日目の2日、ようやく鎮火した。 |
消化活動中 |
皮肉なものでもあった。
大山祇神社例大祭。
祭神たる大山祇命は山海守護の神。山の守護神。
例大祭の日に、荒ぶれる山は何を訴えているのだろうか、何を物語るのであろうか。
少なくとも、普通の「山火事」ではない、何かを感じてしまった。
「日本総鎮守の神社」ともされる大山祇神社。
神がたる現象は、あらゆる意味でも皮肉じみていた。
大山祇神社から各方面にバスが走る。一時間に一本は今治行き(一部は松山行)の高速バスが走っている。
ところが今治以外に行くには不便。とくに私は島から四国に赴くのではなく、本州から帰る人間。北上しなければいけなかった。
井口港まで戻るのは簡単。しかし同じ事をして同じコースで戻るのはイマイチ「生粋の旅人」としては味がない。
大山祇神社から盛港に行くバスがある。平日は3本(0722・1140・1722)だけ。休日でも6本(0722・0932・1140・1402・1602・1722)だけ。
運良くバスが来る。14時02分。
島に北側にいく「盛港行バス」にのりこむ。こんなマニアックな接続でバスに乗る人は少ない。気が付けば、私とさきほどのおばさん二人連れの三人が乗客。このおばさん二人連れはなかなかの選択眼を持っている。ちょっと見直した。
14時20分に盛港に到着。10分後の14時30分に対岸の広島県竹原市忠海港にいくフェリーがある。
大三島盛港と竹原忠海港の接続フェリーは20人ほどの釣り客と地元民を乗せている。観光路線ではなく、地元路線。そんなマニアックな接続が、私の旅程計画の自慢でもあり自信でもある。
大三島盛港に入港するフェリー |
大三島盛港 |
大三島を北側から遠望する |
広島県竹原市の忠海港に入港 |
盛港を14時30分に出発。島の北側の港から出港するので、島の形がよくわかる。大三島は島と言うには実際の間隔イメージは大きい。さすがに「大きな御島」。そびえる山と、煙。大山祇神社の面影を抱きながらに、船から島をみつめる。
瀬戸内は長閑であった。山火事での喧騒も、遠望すればその気配も薄らぐ。
14時45分に大久野島に立ち寄って、15時に忠海港に到着。ふたたび広島県に戻ってくれば、愛媛県に赴いたことすらも幻のように霞んでしまう。伊予大三島。日本総鎮守と称される大山祇神社は、その雄大な気配を瀬戸内に漂わせていた。
船でわたり船でかえって、島巡り。至福の5月はもう終わろうとしていた。なにごとかのありがたさを身体全体で取り込み、新たなる心持ちを抱く。
ありがたいばかりに、大三島は誇らしかった。
充実の旅程でもあった。2005年5月。滋賀竹生島にわたり、安芸宮島厳島にわたり、そして伊予大三島に渡る。
贅沢すぎる神社詣でであった。
あとは三原駅から約4時間を新幹線に搖られるという、無為なる時間が残されているが。
付記
「三原八幡宮」
広島県三原市大畑町鎮座
祭神
応神天皇・神功皇后・比淘蜷_
永正7年(1510年)に応神天皇・神功皇后・比淘蜷_をまつり、西町・西野町の総氏神として建てられたと伝えられる。天正3年(1575年)小早川隆景によって現在地に遷座。
正面 |
神門 |
参道 |
社殿 |
三原駅の西、約1キロの地に鎮座。石段をのぼれば、高台に鎮座。山陽本線の車窓からでもその鎮座の様子をうかがうことが出来る。社地からは三原市西野町が眼下に広がり、総鎮守らしい景観を誇る。
時間をみつけて、慌ただしくやってきた私は、不審でもあるが、しばらくを高台の神社の地で休む。もっとも折り返して高速船乗り場に赴く時間も考えて動かないといけないので、内心は慌ただしく時間計算をしていたのだが。
大三島の話題から外れるので付記にしました。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版