「桜井三輪石上〜山之辺道〜探訪記・その5」
<平成16年8月参拝>

その1.「談山神社」

その2.「山之辺道〜桜井から三輪へ」
「山之辺道南部」「八阪神社」「志貴御県坐神社」「大神神社南部摂末社


その3.「大神神社周辺」
「大神神社」「大直禰子神社(若宮)」「久延彦神社」「狭井神社」「桧原神社」


その4.「穴師・景行・崇神」
「相撲神社」「大兵主神社」「水口神社」「伊射奈岐神社」


その5.「大和神社から石上神宮へ」
大和神社」「夜都伎神社」「都祁山口神社」「石上神宮


ネットで確保した宿は特に考えていた訳ではない。そんな宿は近鉄「筒井駅」が最寄り。筒井順慶なじみの筒井氏の拠点ではあれど、往事をしのぶものは少ない。時間があれば、町歩きをしてもよいのだが、さすがに山之辺道を歩いてきた私は、もうベットから動きたくなかった。

翌朝。機械的に食べ放題のパンをそこそこ食べて、旅立ちの準備をする。
朝はのんびりしすぎている。近鉄電車を一本乗り遅れ、スタート地点たる「JR長柄駅」に降り立ったのが8時25分。前日は「JR柳本駅」で終了しているのでそこから歩き始めるのが本来の「山之辺道」なのだろうが、今の私は「山之辺道」よりも「神社」を優先したい。それゆえに目的神社「大和神社」の最寄り駅たる長柄駅に赴く。山之辺道を丹念に歩くのも限界があるのだ。

長柄駅から500メートルほど南東にあるけば、わかりやすい木々の固まりがあり、立派な社叢を誇る大和神社に8時35分に到達する。途中には境外社の須佐之男神をまつる神社もあった。


「大和神社(名神大社・官幣大社)
<奈良県天理市新泉町鎮座>

祭神:本殿は三座三神
中央・大和大国魂神<日本国大国魂神・大倭大国魂神>
右・八千矛神
左・御年神

大和大国魂神・八千矛神は大国主神の異名同神ともいう。


宮中に奉斎されていた天照大御神と大和大国魂神を第十代崇神天皇が、天照大御神を皇女豊鍬入姫命に勅して大和笠縫邑に、大和大国魂神を皇女淳名城入姫命に勅して大市長岡岬に奉還したことにはじまる日本最古の社。
延喜式では「大和坐大国魂神社」として三座共に名神大社列格。平安中期には二十二社にも名を連ねる。
しかし平安遷都や藤原氏の隆盛が影響し、中世期後半には衰退。江戸期には仏堂式となっていた。
明治社格では官幣大社。現在の社殿は官幣社列格後に新たに造営されたもの。

大和神社
大和神社正面
大和神社
大和神社
大和神社
拝殿
大和神社
拝殿
大和神社
本殿
大和神社
祖霊社
大和神社 上:末社・祖霊社
戦艦大和をはじめとする英霊をまつる。
大和神社は戦艦大和の艦上神社に分霊されていた。

左:摂社・高オカミ神社
吉野郡丹生川上神社は当地から奉還ともいう。
訪れた時は修復工事中。
平安期の吉野郡丹生川上神社は
大和神社の別宮だったという

駅から歩むと脇参道からの進入になってしまうのは致し方がない。境内をゆっくりと一別し、今日一日のはじまりの安寧を祈願し由緒を確認すれば、もっともらしい私も神社ですべき事はなくなってしまう。
午前9時前。人の気配は皆無。社務所を覗けば人の気配もあるのかもしれないが、すがしがしい気配とはうらはらに朝のけだるさで私も未だ本調子ではない。なんとなく億劫でそのまま境内でぼーっとして考える。次にあゆむべき方向を。
大和神社は山之辺道からは外れているコースゆえに、どこかで山之辺道に合流しなければいけない。国道169号線をあゆみ三昧田から東に進めば「竹之内環濠集落」。のんびりと集落をすすんで歩めば大和神社から3キロほど歩んだところに「夜都岐神社」が鎮座している。


夜都岐神社(式内社・村社・夜都伎神社)
<奈良県天理市乙木町>

祭神
武甕槌命(鹿島神宮神)・経津主命(香取神宮神)・天児屋根命(枚岡神社神)・比売神(枚岡神社神)
春日の神々をまつる。

もとは乙木明神ともいわれていた。

由緒
春日の四神をまつる神社。乙木にはもともとは「夜都伎神社」(もとは竹之内の十三神社という)と「春日神社」との二社があった。隣の竹之内と土地交換を行ったさいに夜都伎神社社地が竹之内三間塚池の地と交換され、春日神社の社名を夜都伎神社とかえたという。

当社は春日大社と縁が深く、かねてより春日社若宮社殿と鳥居が払い下げられてきた。
現在の社殿は明治39年に改築されたもの。もとは春日若宮社が下げられたものという。
春日造檜皮葺の4社殿が末社琴平神社と並立し、その美麗な社殿を構築している。
拝殿は藁葺きで、この地方では珍しい神社建築。
鳥居は嘉永元年(1848)に春日若宮社から払い下げられたものという。

夜都伎神社
鳥居。後方社叢が夜都伎神社
夜都伎神社
夜都伎神社入り口
夜都伎神社
拝殿
夜都伎神社
本殿

8時50分すぎに大和神社をあとにして、のんびりゆったりと歩き、9時25分に「夜都伎神社」に到着。遠目からでもわかるこんもりとした木々の空間が「神社の気配」を感じさせてうれしい。さすがに30分以上も歩くと、目的地が待ち遠しい。
一歩、境内に足を踏み入れて、かなりの興奮状態。境内空間は狭い部類なのだが、そんななかで藁葺きの拝殿がなにやらうれしい。やさしさに満ち足りている拝殿後方には春日造りが並立している本殿。こぢんまりとした空間の中でも、凝縮された美形態が見るものを飽きさせなかった。

9時40分に夜都伎神社をあとにする。次は石上神宮を目指すことになるが、途中にある「都祁山口神社」という神社が気になる。このまま山之辺道を歩けば石上神宮へは近道(それでも3キロ)ではあるが、都祁山口神社が気になるので山之辺道ではなく、県道51号を選択する。理由のひとつとして大通りの鳥居を撮影したら戻るのが億劫になってしまったともいうが、わかりやすい道を選択したかったからともいう。


「都祁山口神社」(式内大社・村社)
<奈良県天理市杣之内町>

祭神:大山祇命・久久知廼命・波尓須命

延喜式内大社で月次新嘗に預かる官社に都祁山口神社がある。現在、都祁山口神社を称する神社が二ヶ所あり式内論社となっている。
当社の由緒は不明。
水口明神と称されていた当社は山口社たる風雨祈願の神社であった。

都祁山口神社
都祁山口神社
都祁山口神社
都祁山口神社

夜都伎神社から歩むこと、1.5キロ。時間は9時55分。わかりやすい道を選択したはずなのにわかりにくい立地に鎮座。ようやくに到着したのは良いけど社殿が工事中で参詣できても撮影がしずらい空間。なんとなく訪れたはよいけれども、居やすい空間ではなく、そうそうに立ち去る。

本当ならここから山之辺道に入りたかったのだが、山之辺道との合流地点がわからずに道に迷う。致し方がないので、県道51号線をまっすぐに歩いて天理大学をわきめにみつつ、石上神宮へと向かう。
石上神宮に到着したのが10時20分。


石上神宮(延喜式内名神大社・官幣大社・別表神社)
<奈良県天理市布留町鎮座・朱印
別名:石上坐布都御魂神社・石上振神宮・石上布都大神社・布留大明神・布留社

祭神:
布都御魂大神(ふつのみたま)
布留御魂大神(ふるのみたま)
布都斯魂大神(ふつしみたま)

配祀
五十瓊敷命・宇摩志麻治命・白河天皇・市川臣命

由緒
布留山(標高266M)の北西麓に鎮座。日本最古に数えられる神社の一つ。
神武天皇国土平定に功があった「天剣(平国之剣)」とその霊威を布都御魂大神とし、「天璽十種瑞宝」の霊力を布留御魂大神とし、須佐之男神がヤマタノオロチを退治された「天十握剣」の威霊を布都斯魂大神と称し、総称して「石上大神」として崇神天皇期に祀ったことに始まる。

平安期の白河天皇がとくにあつく当社を崇敬し、現在の拝殿(国宝)は宮中の神嘉殿を白河天皇が寄進されたものとされている。
中世期には興福寺との抗争や織田勢の乱入などにより衰微。
明治四年に官幣大社列格。明治十六年には神宮号復称が許可された。

当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地として主祭神を祀り、配祀神を拝殿にて祀っていたが、明治七年に当時の菅政友大宮司によって禁足地が発掘され、御神体たる神剣が出御。大正二年に本殿が造営された。

摂社である出雲健雄神社は延喜式内社。出雲健雄神社の拝殿は内山永久寺(現在廃寺)の鎮守社拝殿を大正三年に移築したものであり、割拝殿の貴重建築物として「国宝指定」されている。

石上神宮拝殿(永保元年・1081白河天皇によって移築。現存拝殿では最古)と出雲健雄神社拝殿(保延3年・1137)が国宝。石上神宮楼門(文保二年・1318)は国重要文化財に指定。

石上神宮
石上神宮正面
石上神宮
楼門・西回廊
石上神宮
楼門(重文)
石上神宮
拝殿(国宝)
石上神宮
拝殿(国宝)
石上神宮
摂社・出雲健雄神社は式内社
石上神宮
摂社拝殿(国宝)
石上神宮
摂社拝殿(国宝)

石上神宮に到着したのが10時20分。さんざんに歩いていた私は、この時点ですでに約7キロほどを歩いていたりもする。好い加減に疲れてはいるが、参道を歩み、横から眺める拝殿に近づく頃には好奇心で身も軽くなっているのが、わかりやすい私でもある。
楼門を見上げ、拝殿に足をすすめる。全国的に有名な神社であっても、いまこの空間は極めて静かであり、人の気配もまばら。贅沢すぎる環境での参拝。御朱印を頂き、ゆっくりと腰掛けながら拝殿をながめるひととき。汗ばんだ服もゆっくりと乾いていった。

10時55分。石上神宮をあとにして、天理駅に向けて西へ歩む。途中、天理教本部地域ではなにやら「イベントじみた集会」がおこなわれているようで、老若男女が賑賑しくさまざまに楽しんでおり、屋台も大量に出店されていた。まさに「天理教」。神社業界全体としては喜ぶべき天理教の盛況なのかもしれないが、さきほどの石上神宮の静かすぎる気配との激しい反比例状態に私の心境も複雑ではある。
私は天理教とは関係ないのだよ、というもっともらしい顔つきで足早に駅へと向かうが、あいにくに駅への道はひたすらに天理教であった。


天理教本部

天理教本部

約1.5キロを歩いて天理駅に到着したのが、11時20分過ぎ。あとはどうしようかな。

山之辺関係はこれにておわりにしよう。奈良駅まですすんで、関西本線に乗り換える。このころには次の目標神社を「広瀬神社」「龍田大社」とするも、自然と雲行きがあやしくなってきた。とにかく先を急ぎたいが山之辺紀行は終了。

広瀬龍田は別掲載なのだ。


参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
角川日本地名大辞典29・奈良県
神まうで(鐵道省)
縮刷版・神道事典(弘文堂)
大和の古社・乾健治著(學生社)



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