「桜井三輪石上〜山之辺道〜探訪記・その4」
<平成16年8月参拝>
その1.「談山神社」
その2.「山之辺道〜桜井から三輪へ」
「山之辺道南部」「八阪神社」「志貴御県坐神社」「大神神社南部摂末社」
その3.「大神神社周辺」
「大神神社」「大直禰子神社(若宮)」「久延彦神社」「狭井神社」「桧原神社」
その4.「穴師・景行・崇神」
「相撲神社」「大兵主神社」「水口神社」「伊射奈岐神社」
15時30分。桧原神社で次の行動を迷う。
この正面の参道を真っ直ぐに歩めば「箸墓古墳」からJR巻向駅に向かうことが出来る。そのまま「山之辺道」を北上すれば「箸墓」には行けないが「大兵主神社」に赴ける。一日歩いて、そろそろ帰路も考えたいところだが、ここまで歩いたのであれば足を伸ばしても損はない。そのまま山之辺道を北上する。
姿を変えつつ三輪山の縁をたどる。南縁から西縁、そして今は北からの三輪山を脇目後目に追いつつ、「大和の青垣」を体感する。日本の原風景ここにあり、といわんばかりの贅沢さでもって空気がひろがり、それを満喫する私。このうえない時間であった。
北東に進んでいた道が舗装道路(県道50号)と合流し、北西に折り返して改めて北上。分岐路にいたり西は景行天皇陵、東が大兵主神社となる道で、もちろん進路を東にとり、なだらかに斜面をのぼる。
巻向・日代宮跡 |
中央が景行天皇陵 |
このあたり。穴師の里は垂仁天皇や景行天皇の都があった場所とされる。途中の道すがらに「巻向・日代宮跡」の碑もある。その近くから眺めれば「景行天皇陵」も遠望できる。土地勘知識のない私でも、遠望できる墳丘が「古墳」であることはわかる。そして立地位置から「景行天皇陵」であることぐらいは予想できる。ただ目標たる大兵主神社は「景行陵」とは方向が違うので、まずは神社に向かおう。
15時50分。「相撲神社」に到達する。その奥には「大兵主神社」。思えばよく歩いたものだ。
大兵主神社の手間に相撲神社が鎮座。相撲発祥の地ともいわれている場でもある。
「相撲神社」
<奈良県桜井市穴師鎮座>
祭神:野見宿禰・当麻蹴速
第11代垂仁天皇のころ、野見宿禰と当麻蹴速が当地「カタケヤシの地」ではじめて天皇の前で角力をとった場所<天覧相撲の開祖地>とされる。
昭和37年10月には時津風理事長(元横綱双葉山)をはじめ大鵬、柏戸の横綱と幕内力士全員がこの地を訪れ土俵入りを奉納している。
正面 |
境内風景 |
左 相撲神社 |
鳥居を抜けて、相撲神社の境内へと足をすすめるも、神社の気配がない。ただ、木々の間に草むらがある空間。土俵の気配すらなかったが、なんとなく草のとぎれる空間があり、そこが土俵になるのかもしれない。左手奥にすすむと、そこに小さな社殿があった。相撲の気配を感じることはなかったが、このたいして広くもない空間に幕内力士が集ったことあったのか、と想いを深くして改めて「大兵主神社」へと向かう。
「大兵主神社」(式内名神大社・県社・穴師神社)
<奈良県桜井市穴師鎮座>
正確には式内社三社が同一敷地内に鎮座していることになる。
中央「穴師坐兵主神社」:式内名神大社・穴師上社
祭神:穴師兵主神
左「穴師大兵主神社」:式内社・穴師下社
祭神:大兵主神
右「巻向坐若御魂神社」:式内大社
祭神:若御魂神(別名:椎産霊神<ワカミムスビ神>)
当社はもともと上社下社に別れていたという。下社が穴師大兵主神社で現在地に鎮座。上社が穴師坐兵主神社で巻向山中に鎮座していたが、応仁の乱<1467−1477>の頃に社殿を焼失し、御神体を下社に合祀。同時に山中に同じく鎮座してた巻向坐若御魂神社も下社に合祀したという。
現在、三棟の社殿が並んでいるが、中央が穴師坐兵主神社。左殿が、穴師大兵主神社。右殿が巻向坐若御魂神社となっている。
中央社殿の穴師坐兵主神社は式内名神大社。垂仁天皇2年の鎮座という。平安中期には春日社の末社となっていたという。
左殿末社の穴師大兵主神社は式内社。本来は巻向山中に鎮座していた穴師坐兵主神社が当地に移転し、いつのころからか主客がいれかわってしまったという。
右殿末社の巻向坐若御魂神社も式内社。穴師坐兵主神社と同じく応仁の乱で社殿を焼失し、現在地に合祀。
中世以降は社運ふるわなかったが、江戸期に織田氏が領主となり崇敬。
明治5年郷社列格。明治7年社殿三棟再建。昭和3年県社列格。
大兵主神社 |
鳥居内側から大和の平野をのぞむ |
拝殿 |
拝殿 |
薄暗い参道を歩むと、急に視界が開けて、左手に社殿がみえる。古風な拝殿に、三棟の本殿を垣間見る。全く人の気配がなく、山之辺道を延々と歩いてきた私は、汗だくになりながらも、すがすがしさに身をゆだね、身体を休める。
社殿が三社並んでいる。夏の青々とした木々にかこまれ、その姿は遠望するしかなかったが。
境内でばーっと佇んで16時10分。再び歩み始める。途中、坂道のベンチで再び腰を下ろして景行天皇陵を遠望する。そろそろ体力的にも限界が近いようで足どりも重くなっていく。道をまっすぐ1キロほど進むと右手に「珠城山古墳郡」がある。中規模な古墳が3基集中している場所だが、私はここからの眺望の良さに気づいてしまう。上に登って、見渡せば三輪山も見える。そして立ち寄るのを泣く泣く諦めた「箸墓古墳」もみえる。ささやかだが風景を楽しんで、改めて「景行天皇陵」を目指す。
珠城山古墳群 |
中央が箸墓古墳。奧に耳成山と畝傍山が重なる |
左 珠城山古墳群からみた三輪山 |
景行天皇陵の南側を真っ直ぐに歩んで、正面の宮内庁的な正面に到達したのが16時45分。大兵主神社から休憩時間を含みつつ1.5キロ程度の道のりに30分以上かかっているのだから、それだけでもペースダウンが甚だしい。横から見れば「いかにも」な古墳も、前方後円墳の前方部の鳥居からながめるとなんにも面白くないことがわかる。やはり古墳は遠目にみるのが愉快なのだ。
景行天皇陵
渋谷向山古墳。墳丘全長300M、直径160M、高さ26M。
景行天皇陵・横姿 |
景行天皇陵正面 |
16時45分に前方部に到達し、すぐさま立ち去りモード。崇神天皇陵までの道は山之辺道を離れて国道169号線を歩く。このほうがわかりやすいし、いいかげん疲れていた。
16時50分。景行天皇陵のすぐ近く。なにやら神社がある。何の神社か全く分らなかったが、地図をみると「水口神社」とある。由緒もなにも分らないが、参拝をしておく。
ちなみに、家に帰って調べてみるとこの神社も「式内社」だったらしく、実は驚きを感じていたりする。
「水口神社」(式内社・村社)
<天理市渋谷町鎮座>
祭神:水口神
詳細不明。天理市渋谷町に鎮座。景行天皇陪塚の上山の南に鎮座。延喜式名社の古社という。垂仁天皇の頃に大水口宿禰一族がこの地に拠ったことにはじまる。
正面 |
拝殿 |
左 水口神社本殿 |
16時50分に水口神社を参拝し、さらに国道を北上すれば600メートルほどのところに左手「伊射奈岐神社」、右「崇神天皇陵」がある。
さしあたりどちらに行くか迷うも、やっぱり神社を先に参拝しておきたい。
「伊射奈岐神社」(式内社・村社)
<天理市柳本町鎮座>
祭神:伊弉諾尊
相殿:菅原道真
創立年代は不詳。崇神天皇期にはすでに祭祀されていたとされる。天神山古墳を境内とする。
いつのころか天満を合祀し、「陽本天満」とも呼称されていた。
中世期に戦乱によって社殿焼失。寛永18年(1641)に柳本藩主織田長種によって現在地に本殿造営。古くは現社地南東500メートルの地に鎮座していたという。
明治6年に村社列格。境内後方の天神山古墳は4世紀後半の築造とされる。
伊射奈岐神社・国道側入口 |
正面 |
拝殿 |
本殿 |
17時ちょうど。まだまだすがすがしい青空が広がり、夕日的な強烈な日差しをも浴びながらの参拝。古墳を抱える境内は、さすがに樹木が多く、夏の日差しを避けるのにも気持ちの良い空間。
そのまま、道路をはさんだ崇神天皇陵に足を運ぶ。もっとも宮内庁的正面景観は面白くもなんともなく、無駄に威厳にあふれているだけだが。
「崇神天皇陵」
天理市柳本町所在。行燈山古墳。墳丘長242M、後円部径158M、後円部高31M、前方部幅100M。周濠含め全長360M、全幅230M。
崇神天皇陵横姿 |
崇神天皇陵正面 |
崇神天皇陵から三輪山をのぞむ |
黒塚古墳。三角縁神獣鏡出土古墳 |
さすがに朝一番の新幹線でやってきて、一日活動して、山之辺道を歩けばいいかげんに疲れてくる。崇神天皇陵から柳本駅えと歩く西への600メートル。じつはこの西日が強烈すぎて、かなりヘトヘト。歩む途中に黒塚古墳があるも、さすがにもはや寄り道しようという気も起きずに、道路側から眺めるに留める。
すでにここは天理市。JR柳本駅から天理まで北上し、天理駅前でいろいろ買い物をして、近鉄線で筒井駅に赴く。本日の宿は筒井駅近くに確保してあるのだ。
私の神社紀行では、珍しく「宿泊」モード。
もっとも宿に話などは、面白くないので、今回はここまで。次は翌朝の「大和神社」から。
参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
角川日本地名大辞典29・奈良県
神まうで(鐵道省)
縮刷版・神道事典(弘文堂)
大和の古社・乾健治著・(學生社)