「熊野三宮巡拝記・その5」
<平成7年2月参拝>

目次
その1・那智大社編 「熊野へ」/「那智大社」/「飛瀧神社」
その2.花の窟神社編 「新宮−有井」/「花の窟神社」
その3.速玉大社編 「新宮へ」/「熊野速玉大社」/「神倉神社」/「阿須賀神社」/「新宮城趾」
その4.本宮大社編 「本宮へ」/「熊野本宮大社」

その5.中辺路と闘鶏神社編 「中辺路」/「滝尻王子宮」/「不寝王子跡」/「闘鶏神社

熊野の朱印ページはこちらから


「中辺路」
9時20分に本宮大社前からバスに乗り込む。このバスは熊野古道中辺路道に沿うように走るバス。私としてはごこかしらで途中下車をしたいところであれど、今ひとつ踏ん切りがつかない。
10時01分。小広王子口。10分、近露王子。14分。牛馬童子口。そろそろ降りようかな、とも思うも、身体がどうにもだるいのは1時間ほどバスに揺られて酔ったからだろうか。
さすがにこのまま紀伊田辺駅に赴くのも極めて味気ないので「10時36分」に滝尻バス停で下車する。結局、中辺路の入口たる「滝尻」で下車なので、古道歩きもたいしたことないだろう、と思いつつ。
問題は次のバスの時間が12時21分。かれこれ2時間たっぷりに時間があった。



「滝尻王子宮十郷神社」(九十九王子跡・十郷神社)
<和歌山県西牟婁郡中辺路町滝尻町鎮座・朱印

由緒
富田川と岩船川が合流する拠点に鎮座。熊野参詣中辺路道は滝尻から先が厳しい山道となっている。
滝尻王子から先が「熊野の霊域」ともされ、まさに熊野参詣の「入口」であった。

熊野九十九王子のなかでも五体王子の一つに数えられた王子跡。
明治期に村内神社が合祀され「十郷神社」となる。現在は「滝尻王子宮十郷神社」と称している。

後鳥羽上皇が正治二年(1200)に熊野参詣時にたちより歌会を催したりと、上皇らの熊野御幸での際には一行が休息をとったり、歌会を催したり、巫女舞奉納や奉幣がされたりして参詣旅が続けられてきた。

滝尻王子
滝尻王子
滝尻王子
滝尻王子
滝尻王子
滝尻王子宮十郷神社
滝尻王子
社殿
滝尻王子
富田川から 
滝尻王子
後方の山に熊野古道中辺路が続く。

滝尻王子は比較的アクセスしやすい場所であり、そして熊野古道中辺路の入口でもある。選択肢としては悪くない選択であろう。当所は高原熊野社から約4キロ歩いて「滝尻」でも、と思っていたが、さすがに雪に怖じ気づいて安易な選択肢でもあったが。

もっとも滝尻王子だけでは、それこそ十五分もあれば充分すぎる。ちょっとして売店があったので顔を出してみると「朱印」とある。まさかここで朱印が頂けるとは思っていなかったが尋ねてみると「神職不在だから書いてある朱印に日付をいれてお渡し」とのこと。まあ、せっかくだからそれでも構わない。頂戴しておくことにする。

二時間ある。せっかくだから、ここから「熊野古道中辺路道」を歩いてみようと思う。さすがに「高原熊野社」まで三キロは無理だが、「不寝王子跡」までなら400メートル15分とあるので、気楽に歩ける。

そんな気楽な気分で歩き出して、すぐさまに気を入れ直す。半端な道ではなかった。なんか本格的な登山道なんですけど。おまけにわずかであれど雪がつもっているので足元も心配しないといけない。健脚だと思っていても、目安通りの15分たっぷりとかかってしまう。
まずは「不寝王子跡」まですすんで、ひと息。その後に途中にあった「胎内くぐり」と「乳岩」を見物する。

「不寝(ネズ)王子跡」
滝尻王子から400メートルほど熊野古道「剣ノ山」を登ったところに不寝王子跡がある。
古い記録が残っていない王子であり。熊野九十九王子にも数えられていない。江戸元禄期の記録には「ネズ王子と呼ばれる小社の跡がある」記載があり、このころには既に跡地として認識されていた。現在は滝尻王子宮に合祀されている。

不寝王子跡
不寝王子跡へいたる道
不寝王子跡
不寝王子跡へ至る道
不寝王子跡
乳岩付近





不寝王子跡
乳岩
奥州の藤原秀衡が夫人同伴で熊野参りに来た際、
この場所で夫人が産気づき、この岩屋で出産したという伝説がある。
夫人はここに赤子を残して熊野に向かったが、
その子は岩からしたたる乳を飲み、狼に護られて無事であったので
奥州に連れ帰ったと伝えられており、
のちに秀衡三男の和泉三郎忠衡になった、まで伝説されている。
不寝王子跡
胎内くぐり
室町期以降、熊野への道が潮見峠経由となり、
この「剣ノ山」経由の参詣者が少なくなった。
しかし土地では、この岩穴を抜けることが「胎内くぐり」として信仰。
女性がくぐれば安産すると伝えられている。
不寝王子跡
不寝王子跡。
滝尻王子から登ること約400メートル。15分。
この先3.3キロ、1時間30分で「高原熊野神社」に到達。
さすがに私はここで「滝尻」に折り返し。

不寝王子跡から道を戻って「胎内くぐり」「乳岩」の付近で荷物を降ろして休息する。
「胎内くぐり」なのだからくぐらねばならないだろうとおもって突入してみるも、出口側の穴が狭すぎて脱出不能・・・というか子供でも無理だと思いますが、な感想を抱いたりして、時間を潰す。
付近には巨石が多い。そんな中でわずかに残る雪を眺めながら、冷風と木々のざわめきを身体で感じる。あいかわらず贅沢すぎる時間の過ごし方かも知れない。いずれにせよこんな日に歩く人もいないわけで、伸び伸びしながらバスの時間まで、なにも考えずにくつろぐ。


12時21分。ようやくにバスの時間。13時02分に「紀伊田辺駅」に到着。今日はまだ食事をしていないので、だいぶへばっている。軽く食事をしてから紀伊田辺に鎮座している「闘鶏神社」に赴こうと思う。



「闘鶏神社」(旧県社・別表神社・新熊野鶏合大権現<いまくまのとりあわせだいごんげん>・田辺の宮)
<和歌山県田辺市湊鎮座・朱印

祭神
本殿 伊邪那美命
西殿 事解之男命・速玉之男命
上殿 天照皇大神・伊邪那岐命・宇賀御魂命
中殿 瓊瓊杵尊・火火出見尊・天之忍穂耳命・鵜草葺不合命
下殿 火産霊命・椎産霊命・弥都波能売命・埴山比売命
八百万殿 手力男命・八百万命

由緒
第十九代天皇允恭天皇八年(419)に熊野権現(熊野坐神社・本宮)をこの地に勧進し「田辺の宮」と称したことに始まるという。のちに白河法皇(1100頃)のころに熊野三所権現を勧進。そののち(久安三年・1147)に天照大神以下を勧進し「新熊野権現」と称された。

熊権現の三山参詣に替える三山別当的存在として崇敬。熊野街道の分岐点要衝として重視されてきた。

元暦元年(1184)、一ノ谷で平氏を破った源義経は、屋島攻略に際して水軍強化のために「熊野水軍」に助勢を頼む。第21代熊野別当湛増は源平どちらにも義理があり源平どちらに加勢すべきか迷い、田辺新熊野に籠もって神楽祈願したところ、白旗(源氏)につけとの託宣があった。
それでおなお迷った湛増は、新熊野の社頭で赤を平氏、白を源氏として赤白の鶏を七番闘わせて去就を占ったところ、赤鶏は白鶏をみて一度もたたかわずに逃げ出す。白鶏の圧勝に湛増は意を決して湛増配下の熊野水軍は源氏に加勢。屋島・壇ノ浦での勝利を裏付けたとされる。
この故事から「新熊野鶏合大権現」と呼称。

明治維新後の神仏分離によって「闘鶏神社」と名称変更。
明治6年村社、明治14年県社列格。戦後は旧官国幣社格の神社本庁別表神社に列格。

ちなみに余談。
第21代熊野別当湛増は武蔵坊弁慶の父とされている。湛増の母が源為義の娘である丹鶴姫(龍田原)。湛増の娘が平忠盛の室。湛増自身は平治の乱(藤原信頼と源義朝が敗死)の際に平氏方に加勢。
丹鶴姫は第18代熊野別当湛快(湛増の父)と死別したのちに、第19代熊野別当鳥居行範と再婚する。
1180年に以仁王が挙兵した際には丹鶴姫は源氏方新宮家側として、平氏に味方していた息子の湛増に攻められるが新宮家が撃退。
丹鶴姫は行範死後に出家し東仙寺をひらく。・・・新宮城趾に訪れたときは全く無知でしたが・・・。
武蔵坊弁慶の父だから源氏だろ、という安直なものではないのだ。

さらに余談。
世界的な植物学者であった南方熊楠は、闘鶏神社の森に植物研究のために通い、神社後方の仮庵山(古代祭祀遺跡でもある)の樹木が伐採されそうになった際には保護をしている。のちに熊楠は闘鶏神社宮司の娘と結婚している。

闘鶏神社
闘鶏神社正面
闘鶏神社
闘鶏神社入り口
闘鶏神社
拝殿
闘鶏神社
境内社殿
闘鶏神社
西殿(上四社)
闘鶏神社
本殿
闘鶏神社
左から上殿(上四社)・中殿(中四社)・下殿(下四社)
闘鶏神社
手前から八百万殿(満山宮)・下殿・中殿・上殿・本殿・西殿
闘鶏神社
神木「大クス」樹齢1200年
闘鶏神社
湛増と弁慶と闘鶏

紀伊田辺駅から南に約500メートルで闘鶏神社に到着。予想以上に広い境内であった。熊野らしさ、というのは社殿にあるのかな、と感じる。拝殿の後方に社殿が並んでいるさまをみれば、なるほどなあ、と無知な私も感じることができる。
御朱印を頂戴して、あいかわらずにぼーっとする。今日は風が冷たい日で、さすがに長居をすると身体が冷える。どのみち、14時49分の特急に乗る以外に選択肢がないわけで、そう言う意味でも私はのんびりしていた。

14時55分。南紀新宮方面が強風のため、わずかに遅れた特急にのって熊野をあとにする。このまま乗車していれば16時31分に天王寺に到着。わずか1時間40分で大阪と田辺を結んでいるのだから時間的距離はだいぶ近かった。
そう考えると、私のすごした時間も、余韻わずかで大阪の喧騒に呼ばれてしまう。
それでもこの二日間。今までの神社参拝歴でも、匹敵することがないほどの充実度であった。ひとまわり、心持ちが広く大きくなった気もする。この気持ちを大事にして、「熊野」を節目に新たに歩み出したいと思う次第。


参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
郷土資料事典・30・和歌山(人文社)




前に戻る