「熊野三宮巡拝記・その4」
<平成7年2月参拝>

目次
その1・那智大社編 「熊野へ」/「那智大社」/「飛瀧神社」
その2.花の窟神社編 「新宮−有井」/「花の窟神社」
その3.速玉大社編 「新宮へ」/「熊野速玉大社」/「神倉神社」/「阿須賀神社」/「新宮城趾」

その4.本宮大社編 「本宮へ」/「熊野本宮大社

その5.中辺路と闘鶏神社編

熊野の朱印ページはこちらから


「本宮へ」
新宮のホテルを出立する。朝の天気予報では「大寒波」がおしよせているらしいが、今いる場所は「南紀熊野」。そんなことは関係ないや、と思いつつ眠い目をこすっている私がいた。
今思えば、この考えが甘かった・・・。

新宮駅発6時55分。バスにのる客は私一人だけ。これから1時間30分ほどバスにゆられる。なかなか長旅になるようだが、ここで私は気づかされる。
自分ってバスに弱いジャン、と。なにやら悪酔いした気分で、バスは苦手だなあ、と認識。

だが、問題はそんなことではなかった。30分ほど走ると、なにやら降り始める。「なんか舞ってるなあ、雪かなあ」と思っていると、舞っているというささやかなレベルではなく、激しく積もり始める。
冗談だろ、と思うも、大まじめに雪が降っていた。始発から終点まで結局私一人しか乗客がいなかったのだが、私は運転席隣の一番前に座っている。運転手さんも「こんなに降るのは珍しいなあ、もうすこし降り始めると、これはチェーンがないと危ないぞ」
・・・マジですか。なんかますますバス酔いしているのですが。


6時55分。眠い。まだ薄暗いバスターミナル

有名な「仙人風呂」。川を掘れば温泉に・・・。雪だけど。

バスは本宮周辺の温泉街をグルグルと巡回して、本宮大社前に到着。
8時25分。定刻よりも3分ほどのわずかな遅れだった。あれだけの雪の中ごくろうさまでした、と思うも私は「周遊きっぷ」所有者だから券をみせるだけで下車。現金が動かずに、なおさらあれだけの雪の中を私一人だけのために走ったバスになにやら申し訳なく感じる。

幸いにして、雪は止んだようで、私も心を落ち着けて本宮大社へ足を進める。



「熊野本宮大社」(日本第一霊験所・全国熊野神社総本社・熊野権現・熊野坐神社・熊野本宮・本宮)
(官幣大社・式内名神大社・世界遺産・国重文社殿)
<和歌山県東牟婁郡本宮町鎮座・朱印

祭神
御本社(証誠大権現)
第三殿<証誠殿>家都美御子大神(素戔嗚尊・阿弥陀)

中御前(両所権現)
第二殿<速玉宮>御子速玉大神
西御前(両所権現)
第一殿<結宮>熊野牟須美大神
東御前(若一王子)
第四殿<若宮>天照皇大神

以上三棟四殿を上四社とする。中四社・下四社は旧社地「大斎原(おおゆのはら)」に石祠として祀っている。


*神社辞典参考
本殿
第三殿<証誠殿>家都御子大神(けつみこの大神・素戔嗚尊・阿弥陀如来)

相殿
第一殿<結宮(西御前)>熊野夫須美大神(くまのふすみの大神・伊弉冉尊・千手観音)
第二殿<速玉宮(中御前)>熊野速玉大神(速玉明神・伊弉諾尊・薬師如来)
第四殿<若宮)>天照大神(十一面観音)

以下は旧社地「大斎原」鎮座。
第五殿<禅師宮>・・・天忍穂耳尊(地蔵)
第六殿<聖宮>・・・瓊瓊杵尊(竜樹)
第七殿<児宮>・・・彦火火出見尊(如意輪観音)
第八殿<子守宮>・・・鵜ガヤ草葺不合命(聖観音)

   五、六、七、八殿を一棟に祀る「中四社」

第九殿・・・軻偶遇突智命
第十殿・・・埴山姫命
第十一殿・・・弥都波能売命
第十二殿・・・和久産霊命

   九十、十一、十二殿を一棟に祀る「下四社」
   上中下の十二社をあわせて「熊野十二権現」

由緒
全国各地の熊野社の総本宮。熊野大権現。
創立は三山のうちで最も古く、崇神天皇の御代とされている。
伝説によれば熊野三神は神武天皇の頃にインドの摩迦陀国より飛んでこられ、鎮西彦山の峰、次いで四国石鎚山、淡路遊鶴羽峰に移られた。そののちに紀伊の無漏の切り目、熊野の神倉阿須賀社の北岩淵に降臨されたという。
のちに家都御子大神だけは熊野川をさかのぼり、上流の本宮の地に降臨されたという。そののち崇神天皇の代に社殿建立。

延喜式では名神大社。宇多法皇(1)、花山法皇(1)、白河(9)、鳥羽(21)、崇徳(1)、後白河(34)、後鳥羽(28)、後嵯峨(2)、亀山(1)の各上皇も御幸なされている。(数字)は御幸回数。
上皇、女院から公家、一般庶民にいたるまで熊野参詣は盛況をきわめ「蟻の熊野詣で」といわれるほど崇敬を極めた。

明治四年(1871)、国幣中社列格。新宮社(明治四年県社のち官幣大社)那智社(明治六年県社のち官幣中社)とくらべても、三山の中心として認知されていたことがわかる。

明治22年(1889)の熊野川大洪水によって社地「大斎原」から現社地に遷座。

第一殿第二殿第三殿は享和二年、第四殿は文化四年の造営で国重文指定。徳川将軍家斉の命によって紀州治宝によって建立。明治22年の洪水によって、現社地に社殿も修造遷座。

旧社地「大斎原」には仮宮として西側に「中四社下四社」、東側に「境内摂末社」を合祀した石祠二殿が鎮座している。

熊野本宮大社
境内入口
熊野本宮大社
参道
熊野本宮大社
参道、神門
熊野本宮大社
神門から正面が「第三殿」本殿。右は「第四殿」。左は「第一・二殿」
神門内は撮影許可が必要
熊野本宮大社
第一・第二殿。 雪が舞った瞬間の写真。
熊野本宮大社
左が第三殿「本宮」本殿。右が第四殿。
熊野本宮大社
手前から第四殿、第三殿。第二・一殿。
熊野本宮大社
熊野本宮大社・拝殿
熊野本宮大社
第四殿の隣の「満山社」。八百万神々。社殿はない。
熊野本宮大社
熊野本宮大社のすぐ北側100Mのところにある「祓戸王子」

熊野本宮大社。雪景色の社殿を拝むことが出来るとは予想できなかった。南紀熊野は雪とは無縁だと早合点していたがさすがに「熊野山系」。山にはいれば雪も降るわけだ。
雪という環境故か、さすがに誰もいない。まずはお参りをする。
立て看板には「神門内撮影禁止」とある。あわてる私は「!」となるが、「個人での記念撮影等希望される方は社務所にて撮影許可をとって下さい」という意味の文面が記載されている。
まずは案内に書いてあった順番に参拝をすます。
雪を踏みしめる音と、風のざわめきが、心地よい環境。ありがたさにあふれていた。

第三殿<証誠殿>、第二殿<速玉宮>、第一殿<結宮>、第四殿<若宮>、満山社の順番に。
社殿レイアウト的には「3・2・1・4・5」の順に中央から左、そして右に、という順番になる。

参拝をすまして、札所で朱印帳と朱印と牛王神符を頂戴する。またまた、朱印帳を頂いているが、もはや規定事項なのだからしょうがない。札所の巫女さんに「社殿の撮影はここではなくて社務所で許可ですかね」とお伺いすると「雑誌等の取材か何かですか?」と尋ねられる。確かに「デジタル一眼レフカメラ」を持って神社の撮影許可を願うとなると、そうみえるかもしれないが、私は「いや、取材というか・・・個人の記念撮影です」。そう返答すると「個人の撮影なら、構いませんよ」と。
???
そうなると「あの看板」はなんなんでしょうか。まあ、構わないならそれにこした事はないので、境内の撮影を改めてする。私はいつも社殿本殿を撮影するときは「撮らせて頂きありがとうございます」の意を込めて礼をしている。熊野本宮大社、雪景色の社殿は、一層の神々しさでもって私を迎えてくれた。
改めて「雪」という得難い環境にも感謝する。

大斎原
大斎原<おおゆのはら>。旧社地。
大斎原
大斎原の仮殿
大斎原
大斎原
大斎原
大斎原付近から現在の社地をのぞむ

大斎原を訪れる。明治22年の大洪水があるまでは「熊野本宮大社」が鎮座されていた場所。水害後に残った神殿を現在地に移築遷座し、この地には熊野神の留守を預かるように、小さな祠が鎮座している。

行きの際にお世話になったバスの運転手も「あそこの大鳥居が昔の神社の場所ですよ」と教えてくれた。
「日本一の大鳥居」は高さ約34M、幅42M、平成12年に建立されたもの。
その「威圧的」とも「尊厳的」ともとれる鳥居の意味するところは、人それぞれだろう。
旧社地には「大きな鳥居」をのぞけば、ちいさな祠と碑があり、あとは神域を護る樹木と、今日は静かにせせらいでいる熊野川が流れているぐらゐ。雪がここちよく光を反射させ、空気を冷やす。
このままずーっと佇んでいるのも良いかも知れない。

ただ、私は迷っていた。
熊野本宮から「紀伊田辺方面」に出発するバスは「9時20分」「」12時20」「15時10分」。到着が8時25分。本宮滞在を1時間とするか4時間滞在とするかで選択肢がわかれる。
1時間とするなら急いで行動をしなければいけなかった。4時間ならば「本宮周辺の熊野古道歩き」も計画できるが、なにぶん雪が不安だった。

とりあえず弱気な私は4時間の滞在に自信をなくし、バス停に赴く。時間は考えて動いているので、9時20分でも問題はなかった。かなり名殘惜しい「本宮大社」であれど、今日は御挨拶程度。また、ゆっくりしにくる事もあるだろうと思いつつバスの人になる。

この先、バスは温泉街に迂回しながら、熊野古道に沿いつつ「国道311号」を走る。私はバスを途中下車する場所で迷うことになるのだが、それはまた次の話。


参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
郷土資料事典・30・和歌山(人文社)




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