「紀州和歌山・貴志川三社詣で・その2」
<平成7年1月参拝>
目次
その1・ 「貴志川線」/「日前国縣宮」/「大国主神社」
その2・「伊太祁曽神社」/「竃山神社」/「静火神社」
その3・「紀州東照宮」/「和歌浦天満宮」
番外・「南海貴志川線〜三社詣で路線〜」
11時35分。伊太祁曽駅に到着。南海貴志川線の中心駅でもあり、列車交換などをながめてからいよいよ本腰をいれて歩く。もっとも駅の近くに鎮座しているのが有り難いのだが。
「伊太祁曽神社」(紀伊国一之宮・官幣中社・式内名神大社・山東宮)
<和歌山県和歌山市伊太祈曽鎮座・朱印>
主祭神
五十猛命(=大屋毘古命)
大屋都比売命・都麻津比売命(二神は五十猛命の妹神)
三神を称して「伊太祁曽三神」とも。
五十猛命は素戔嗚尊の御子神であり、はじめは素戔嗚尊とともに新羅国に天降り、多くの木種をもって日本大八州に渡られ木々の植樹に携わり、のちに鎮座した土地を「木の国」と称し「紀伊国」となった。また厄災に遭われた大国主神を木の国で助けたのも五十猛命とされる。
創立年代は不詳。本来は三神供に「日前宮の社地」に鎮座していたが、垂仁天皇十六年に社地を遷座してきた日前宮・。国縣宮に譲り、山東の「亥ノ森」(現社地から東南500M)に遷座。大宝二年(702)に三神が分遷して、五十猛命が現在地に遷座。妹神である二神は、大屋都比売命が「大屋都姫神社」、都麻津比売命が「都麻津姫神社」に祀られた。(いずれも和歌山市内に鎮座)
延喜式では式内名神大社。月次・相嘗・新嘗にあずかった。
明治十八年に県社、次いで国幣中社、大正七年に官幣中社列格。当社の北西には「紀伊風土記の丘・岩瀬千塚古墳群」がひろがっており境内には伊太祁曽神社古墳群として三基の円墳が点在している。なかでも一号墳(神社創建と同時期の古墳=奈良初期)は横穴が開口しており、「天岩戸」と称されている。
伊太祁曽神社正面 |
一号円墳付近から神社方面をのぞむ |
社地周辺には切り通しが多い |
木の股をくぐって厄災から逃れた大国主神にちなむ 「木の俣くぐり」・・・御神木の一部 |
手前、御神木(昭和三十七年に落雷炎上)。樹齢千年とも。 |
正面。 |
右 脇殿・・・都麻津比売命 中央 本殿・・・五十猛命 左 脇殿・・・大屋津比売命 |
本殿正面拝所 |
御井社。水が湧き出る社。 境内山中西側に鎮座。水の神「弥都波能売神」を祀る |
神橋(太鼓橋)と神池 木々と水。豊かな境内。 |
駅からゆっくり歩いても五分もかからない。すぐ近くに鎮座している。参道右手は岡(=円墳)になっており、左手に社地が広がる。駅からは一直線に南下している。そして右側におれると本殿がある。つまり神社は東面をしている。
神池をのぞみ、太鼓橋を渡ればちょっとした高台に本殿が鎮座。木々の厚みとともに立体感を感じる神社だ。そして社殿脇にも切り通しがあったり、円墳御ような高台が周囲に何ヶ所かあったりする。
水と木のバランスがすばらしい。さすがに「木の国、木の神」・・・とはさきほどの日前宮と同じ感想だが、伊太祁曽にはさらに「立体感」が加わる。飽きない神社。拝しおえて、さすがに私は「木の俣」にはくぐれないな、とぱっとみで判断して、あとは朱印を頂戴し、御井社の水を頂き、境内の摂社群を巡って、向かいの円墳と開口部を見聞して、と人の気配少なく、神々の気配豊富な境内を満喫する。
12時20分に出発した貴志川線は8分後には「竈山駅」に到着。ここから「竃山神社」までは南に600メートル。道は一直線。非常に詣でやすい「南海貴志川線」の三社であった。
「竃山神社」(延喜式内小社・官幣大社・別表神社・釜山神社)
<和歌山県和歌山市和田鎮座・朱印>
祭神:彦五瀬命(=神武天皇の兄)
神武天皇東征に際して、五瀬命は難波の渡しから大和国にはいろうとして孔舍衛(くさえ)の坂で、長髄彦の軍勢と会戦。その時に流れ矢にあたり進路を変えて茅渟の水門から紀伊国竃山に至ったところで薨去された。そこで竃山に葬ったことにはじまる。この山に釜山陵と釜山神社が鎮座している。陵墓としては和歌山県内唯一の陵墓。
中世期には社地社殿も御陵も荒廃。紀州徳川頼宣によって寛文9年に再興。
明治14年に墓陵を調査し、陵墓と神社を区分。はじめは村社であったが明治18年に官幣中社昇格。
明治42年に静火神社<延喜式内名神大社>を合祀。に大正4年に官幣大社昇格。
大鳥居 |
竃山神社正面 |
竃山神社参道 |
竃山神社神門 |
竃山神社拝殿 |
竃山神社本殿 |
彦五瀬命が祀られているという御陵。 宮内庁の御陵はあいかわらず真否不明。 |
竃山神社まで歩く。駅前ちかくの橋には「大鳥居」があるが、そこかた神社まではまだだいぶある。到着時間は12時45分。どうやら10分ほど歩いたらしい。
境内は広く立派。御陵とあわせた敷地はかなり広かった。社殿は良くも悪くも明治風。神武天皇の兄を祀る当社は、近代神社的な様相もある。しかし御陵とそれを取り巻く緑の境内が整えられており、その奧行きも佇まいも好ましく、気配は綺麗でもあった。
社殿は南面。本殿の後方が御陵となっている。ただし、御陵の宮内庁的な入口は本殿側にはなく、その東側。一度、境内を出て外から回り込む。
その宮内庁的正面から北東300メートルのところに小高い丘がある。
見た目は「双丘」。竃山神社側からみて、東側の岡に「静火神社」が鎮座しているはず。そこまで赴こうかと思う。
「静火神社」(延喜式内名神大社・旧村社・現在は竃山神社摂社)
<和歌山県和歌山市和田鎮座>
祭神:都麻都比売神
延喜式内名神大社。「紀三所社」と呼称された「伊達神社」「志磨神社」「静火神社」の三社は常に同時期に神階が授けられていることからも三社の関係が強かった。
永仁期(1293〜)以前にすでに廃絶していたとも、天正期の豊臣秀吉の紀州侵攻によって竃山神社とともに焼失したともいわれている。江戸期には完全に廃絶。
享保9年(1724年)に和歌山藩によって現在地(天霧山(薬師山)頂上)に再興。明治維新後には村社列格するも、竃山神社に合祀。そののちに改めて現在地に鎮座。現在は竃山神社摂社の扱い。
ここをのぼると・・・。 | |
ちいさな祠があった。 |
式内名神大社たる静火神を祀る象徴 |
迷った。静火神社に到着するまでに20分かかったのですが。鎮座地はわかっているのだが、そこに居たる道がわからない。なにやら丘を回り込んで、遠回りしたような気分。山道を登っていくと、開けた場所に「静火神社」が鎮座していた。
もっとも小さな祠で、扱いも「竃山神社摂社」。それでも歴史的な意味は大きく、延喜式内名神大社。そう考えると、平安期には竃山神社以上の社格を誇っていたことにもなる。もっとも往時の鎮座地は別の場所というが、今は「静火神」をまつる神社は山の中に静かに鎮座している。
竹藪が印象的。竹藪が搖られる風の音が木霊する。かなり寂しい気分になって、なにやらトボトボと山を降りると、地元のおじさんが声をかける。「山の上に行っていたのかい?」「えぇ、静火神社まで」「それは珍しいね」とかとか。まあ、自分でも珍しい人種だと思う。
14時。和歌山駅に戻ってくる。さて、貴志川線沿線は終了。次はどうしよう。時間を考えるとあまり遠くまでは動けない。
折角だから「重要文化財」にひかれて和歌浦の神社に赴きたいと思う。
参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
角川日本地名大辞典・和歌山県
他