望郷と白鳥

 

生気を取り戻した倭建命は、当芸野(たぎの・岐阜養老付近)のあたりに着いたときに「私の心は、いつも空を飛んでいこうと思っている。しかし今、私の足は歩けなくなり、たぎたぎしく(足がむくんだの意か?)なってしまった。」と仰せられた。それでこの地を当芸(たぎ)という。
その地から、少し進んだが、ひどく疲れたので杖をついてそろそろと歩いた。その地は杖衝坂(つえつきざか)という。
そうして尾津前(おつのさき・三重桑名多度)の一本松のもとに着くと、以前この地で食事をしたさいに、この地に置き忘れた刀(草那藝とは違う普通の太刀)が、そこに置かれたままになっていた。そこで倭建命は

尾張に 直に向へる 尾津崎(をつのさき)なる 一つ松 吾兄(あせ)を 一つ松 人にありせば 
大刀佩けましを 衣着せましを 一つ松 吾兄を
(尾張に直接向いている、尾津前にある一本松よ。なあ、お前よ。もし一本松が人であったならば、
太刀をはかせようものを。きものをきせようものを。一本松よ。お前よ。)

とお歌いになった。

 

     現実の順路としては当芸野−尾津前−杖衝坂−三重村−能煩野とされるが、物語的には、足がたぎたぎしくなり、杖をついて、さらには足が立たなくなり(三重になり)のほうが、ふさわしい。

 

そこからさらに進み、三重村(三重四日市釆女か?)に着いたときに「私の足は三重に折れるようになって、ひどく疲れてしまった」と仰せられた。それでこの地を三重という。
さらに進んで能煩野(のぼの・三重鈴鹿野登山か?)に着いた際に、故郷を思って

倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し
(大和は国の中でもっともよいところだ。重なりあった青い垣根の山、その中にこもっている大和は美しい)

とお歌いになり、続けて

命の 全(また)けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うづ)に挿せ その子
(命の無事な人は、平群の山の大きな樫の木の葉をかんざしに挿せ。お前たちよ)

と歌った。この二首の歌は思国歌(くにしのひうた)という。

また、

愛(は)しけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居(くもゐ)立ち来も
(なつかしい、我が家の方から、雲がこちらに沸き起こってくる)

とお歌いになった。これは片歌である。
この時に病が急変して危篤状態に陥ってしまった。そうして倭建命は、

嬢子(をとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや
(乙女〔美夜受比売〕の床のあたりに私が置いてきた太刀。ああ、その太刀よ)

とお歌い終わるとともに、崩御なされた。そこで(従者が)早馬でもって都に急を報じた。
 

     書記では30歳で崩じたとある。

     書記では最後まで朝廷に忠実な姿が描かれており悲壮ではあるが、古事記のような哀愁はそこには感じられない。

 

 

その知らせを聞いて大和にいた后や御子たち(後述)は、みな能煩野にやってきて、そこに御陵を作り、その地の水田を這い回って泣いて歌った。

なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 這ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)
(水のひたった田の稲の茎に、その稲の茎に、這いまわっている山芋の蔓よ)

と歌った。
すると倭建命は大きな白鳥(古事記は白い千鳥、書記は白鳥)の姿になって、天空に羽ばたき、浜に向かって飛び去った。これをみて后と御子たちは、篠の切り株に足を切りつけながらも、その傷みも忘れて、泣きながら追いかけた。その時に歌って

浅小竹原(あさじのはら) 腰泥(こしなづ)む 空は行かず 足よ行くな
(丈の低い篠原は、篠が腰にまつわりついてなかなか進めない。空は飛べずに、足でよたよた歩くことだ。)

と歌った。また海に入って、難儀しながら白鳥(白い千鳥)を追って歌うには

海処(うみが)行けば 腰泥む 大河原の 植ゑ草 海処は いさよう
(海を行くと、腰まで水につかってなかなか進めない。広い河の水面に生えている浮き草のように、海では漂うばかりでなかなか進めない)

と歌った。さらに白鳥(白い千鳥)が飛んでいって、磯についた時に

浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ
(浜の千鳥は、浜は行かずに磯を行くことよ)

と歌った。この四首は、すべて葬送の時に歌われ、のちに天皇の大葬の時に歌われるようになった。
(古事記編纂1500後の 昭和天皇大葬でもこの4首が歌われた。このような伝統が息づいているということは、喜ばしいことである)

そして千鳥(白鳥)は、その国から飛び去って、河内の志磯(しき・大坂柏原・八尾)にきてとまった。そこでこの地に御陵を作って鎮座させた。その御陵を白鳥御陵(しらとりのみささぎ)という。千鳥はその地からさらに天高く飛んでいったという。

 

     倭建命の御霊である千鳥(白鳥)は、伊勢の近隣の磯に留まったのちに大和を飛び越え河内に入った。大和は王権の地であり、素通りしたことは倭建命は天皇の世界から離れたことを象徴している

     白い鳥は古事記では河内国志磯(大坂柏原か八尾か)に留まったとされるが、書記では大和の琴弾原(ことひきのはら・奈良御所)に留まったのちに、河内古市(ふるいち・羽曳野)に留まったと伝えられている。

     倭建命の白鳥陵とされるところは各地に40カ所以上あるとされている。(それらが白鳥の留まった地とされる)

 

 

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