「茨城交通湊線沿線の古社・その2」
<平成7年3月参拝・5月執筆>


目次
その1「橿原神宮」「堀出神社」

その2「酒列磯前神社」「大洗磯前神社



茨城交通湊線「阿字ヶ浦駅」から東に約1.2キロ。駅からの道は一直線。迷うこともない
なんとなく茨城交通沿線の古社を詣でているが、酒列と大洗の磯前は一度来たことがある。今から三年前のこと。あのころは無知だったので、改めての再訪でもある。そして御朱印を頂きに行くのが目的でもあった。



「酒列磯前神社」(延喜式内名神大社・国幣中社)
<茨城県ひたちなか市磯前町鎮座・朱印
前回の訪問はこちら

祭神
少彦名命(スクナヒコナ命・高皇産霊神の御子神・医薬、醸造、海の神)

配祀神
大名持命(オオナモチ命・オオクニヌシ命の別名・国土開拓の神)


創建の年代は古く、斉衡三年(856)の鎮座とされ、天安元年(857)には官社、延喜の制では「酒列磯前薬師菩薩明神」として明神大社に列している。
神社周辺には古墳群もあり、古くからの発展をうかがい知ることが出来る。
当社の「酒列」とは付近の海岸の岩石群が南に傾斜して列なっているなかで、一部だけが北側に傾斜している箇所があり、その様相から「逆列」の地名が生まれ、酒の神様を祀ることから「酒列」となったとされている。
元禄十五年(1702)に隣接する西方の台地から社地が移動され、社殿を造営。現在の社殿は、元禄時の木材・彫刻等を再利用し、昭和九年から国費でもって改築されたもの。
明治十八年に国幣中社列格。
拝殿の上部に彫刻が施されている。「ブドウとリス」の彫刻で、「懸魚(けぎょ)の彫刻」(防火のための彫刻)。東照宮の彫刻を終えた左甚五郎が飛騨に帰国する途中で、当社に参拝し、その御神徳に心をうたれて彫ったものであるという。

酒列磯前神社
酒列磯前神社旧鎮座地

現在地のすぐ北東側。
酒列磯前神社
社頭。
酒列磯前神社
左をむけば、すぐ脇は海が見える。
酒列磯前神社 独特の参道は、木漏れ日が美しい。
酒列磯前神社
左甚五郎作「ブドウとリス」(約350年前)
酒列磯前神社
初代梅輔作「一本ケヤキの龍」(約200年前)
酒列磯前神社
拝殿
酒列磯前神社
拝殿
酒列磯前神社
本殿
酒列磯前神社
本殿

一度来たことがあるが、三年もたてば新鮮な心持ちでの参拝となる。以前の自分は何をやっていたのだろうか、と反省したくなるぐらいに心境が違っていた。海風が木々を搖らし、木漏れ日の参道をぬければ、太陽に照らされる社殿に到達。照り返す白光が鏡のように眩しかった。
それでいて以前の私もおなじような感想を書いているし、あのころのほうが感受性が良いようだ。

社務所に赴くも、無人。拝殿内で祓いの儀式が行われている。それゆえに無人。待っていれば、次々に人が待ち出す。車祓い受け付け待ちの様相となる。私は朱印が欲しかっただけなのだが。
戻り時間との兼ね合いもある。気が急くも、まあ電車に乗りおくれてもいいかな、ぐらいに考えて待つ。
朱印を頂戴すれば、あとは一目散に駅に戻る。

ありえないことに阿字ヶ浦駅に6分で駆け戻っている。なんか心臟がバクバクいって、ヤバいのですが。
普通に歩いて10〜15分ぐらいかかる道のりのはずですが。

おかげで、電車には間にあったが、こんなことはあまりしたいことではない。
那珂湊からバスに乗り換える。大洗方面のバスもタイミングによって全く走ってこない時もある。こういうバスは1時間に一本でも走っているだけありがたいものである。
那珂湊駅からのバスに運良く乗り込めれば、あとは大洗磯前神社まで、バスが運んでくれる。


大洗磯前神社(延喜式内名神大社・国幣中社)
<茨城県東茨城郡大洗町磯浜町鎮座・朱印
前回の訪問はこちら

祭神

主祭神:大名貴命(オオナムチ命・オオクニヌシ命の別名・国土開拓の神)
配祀神:少彦名命(スクナヒコナ命・高皇産霊神の御子神・医薬、醸造、海の神)

文徳天皇実録(六国史の一つ)によると斉衡三年(856)、度々地震が発生し人心動揺し国内が乱れて居た時に、常陸国鹿島郡大洗の浜に「両恠石」(二つの怪しい石の意)が示現し、それは「高各尺許、体於神造、非人間石」というものであったという。石の出現の翌日には「亦有廿余小石、在向石左右、似若侍坐」とされ、里人の一人に神がかりして人々にいうには「我は、これ大名貴、少彦名神也。昔、この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救うために再びこの地に帰ってきた」と仰せられたという。オオクニヌシ神(元々、オオクニヌシ神とスクナヒコナ神は同神との説もある)は自ら東国の混乱を鎮める平和な国土を構築するために大洗の降臨したということになる。
大洗磯前神社は創立当初から関東一円の総守護神として祀られ、酒列磯前神社共々に天安元年(857)には官社、そして延喜の制では「大洗磯前薬師菩薩明神」として明神大社に列している。(両社の関係は深く、那珂川を挟んで鹿島郡・那珂郡にそれぞれ両神が祀られている)

永禄年間(1558−1570)に小田氏治の兵乱で社殿以下の諸建築を焼失してしまい、以後小社で祭祀を続けていたという。水戸藩主徳川光圀は見るに忍びず元禄三年(1690)に現在の社地の中程に社殿を造営。
徳川綱條が享保十五年(1730)に本殿、拝殿、神門を再興。現存の社殿は当時の建造物(本殿・拝殿は県文化財)。
明治の世になると明治七年には県社、明治十八年には国幣中社に列せられている。

大洗磯前神社
正面大鳥居
大洗磯前神社
海をのぞむ
大洗磯前神社
楼門
大洗磯前神社
拝殿
大洗磯前神社
拝殿
大洗磯前神社
拝殿
大洗磯前神社
本殿
大洗磯前神社
本殿
大洗磯前神社
海鳥居
大洗磯前神社
海鳥居

実は私には同行人がいた。もともとは茨城交通の電車を撮る目的で一緒になったのだが、この日は「リバイバルカラー」が走っていないために、私が神社に連れ出したわけ。
さきほどの酒列のときは別行動であったが、那珂湊からのバスには同行。なんとなく大洗磯前神社を参拝。神社にさほどに感心がない人間が、この神社をどう思うかはなんともいえない。しかしこの大洗が佇む海と空。尋常の神社ではない。なかなか得難い経験を提供できたのではないか。もっともそう思わないと、連れ出した私の立場もないのだが。

それにしても。最初に訪れたほうがやっぱり感受性は豊かだよなあ。最近の私は神社に対してマンネリ化しているようである。

いずれにせよ私の好きな神社。この神社は冬場が良い。間違いなく夏場は「海」ゆえに混むだろう。それ故に海と無縁な冬場が良い。青空の下で海をながめ、海鳥居を拝し、神の息吹を感じれば、そこはかとなくありがたさが身にしみる。
茅葺きの本殿に接し、バスの時間まで長居をすれば、私の本日の行動は終了。

あとは鉄道趣味者の同行人(私も鉄道趣味者であるが)の趣向に合わせて、大洗駅から新鉾田駅まで「鹿島臨海鉄道」。そして鉾田駅まで歩いて鹿島鉄道に乗り換えて石岡駅から常磐線で帰京という帰り方をする。


参考文献
境内案内看板・由緒書
角川日本地名大辞典・茨城県
神社辞典 東京堂出版




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