「神のやしろを想う・水戸周辺の神社・史跡編」
平成13年3月訪問
目次
酒列へ
茨城交通湊線
酒列磯前神社(式内名神大社・国幣中社)
大洗へ
大洗磯前神社(式内名神大社・国幣中社)
軽巡洋艦「那珂」
水戸市内史跡見聞等(東照宮・弘道館・水戸城趾等)
吉田神社(式内名神大社・常陸国三の宮・県社)
常磐神社(別格官幣社)
「酒列へ」
18きっぷ利用も複数に渡ると飽きてくる。しかし行く場所は尽きない。しかたがないけど、いつもの通りに始発電車に身をゆだねる。
朝早い時間から、自分と関係ない土地にたっているのがいつもながらおかしかったりするけど、今回も7時55分にはJR勝田駅に立っていた。この地に来たのは初めてではないし、ましてやこれから乗ろうとしている「茨城交通湊線」も初めて乗る電車というわけではない。
「茨城交通湊線」
茨城交通湊線は全長14.3キロ。かつては茨城交通の鉄道として「茨城線(茨城鉄道・国鉄赤塚駅−御前山間25.2K、昭和46年廃止)」「水浜線(水浜電車・上水戸−国鉄水戸駅前−大洗間20K、昭和41年廃止)」という路線があったが、いまでは「湊線」を残すのみである。湊線は勝田−金上間は日立工機の社宅群と住宅地、金上−那珂湊間は南東にほぼ直線に田園地帯を抜け、那珂湊で北北東に方向転換、海岸沿いに北上して海水浴場で知られる阿字ヶ浦に達する路線。紆余曲折(水戸知事の大構想などの諸話は省略)あって明治40年に湊鉄道が創立、大正2年に勝田−湊間の8.2キロが開業、同13年に磯崎、昭和3年に阿字ヶ浦に延長された。その後昭和19年に茨城交通(茨城鉄道・水浜電車・湊鉄道)に企業統合され「茨城交通湊線」とされた。
茨城交通阿字ヶ浦駅 |
茨城交通那珂湊駅(良い駅です/笑) |
8時5分。勝田駅を定刻に出発した茨城交通の電車(新潟鉄工所製2004号)はディーゼル特有の匂いを立ちこめながら、車体をふるわせ静かに走り出す。初めての車窓ではない。それなのに懐かしさよりも新鮮さが勝っていた。私鉄王国「茨城」には現在でも多様な私鉄たちが走っている。それらが独特の味わいを出しており、私鉄鉄道に乗るなら茨城県とすら思っていたりもする。にぎやかさはないけど、充分に鉄道の醍醐味を体感する。
8時31分、阿字ヶ浦駅。終着駅の味わい。夏は有人駅として海水浴で賑わう駅も、冬場は無人。利用客もまばらの中で、懐かしい駅のなかで余韻に浸る。
以前来たときは知らなかった。駅の目の前に「鳥居」が見える。この駅前に神社があるということに全く気がつかなかった。どのみち通り道なので堀出神社(旧村社)という神社の境内を抜け、海の雰囲気を潮風で味わいながら酒列磯前神社に向かう。本当は一つ手前の「磯崎駅」から歩いた方が近いのだが、そこは終着駅まで行かないと気が済まない性分なので、我慢して多少長い距離(1.5K)を歩く。
途中、緑の空間が広がる。案内板が立っているので駆けよってみると「川子塚前方後円墳」(那珂湊市指定史跡・那珂湊市と勝田市が合併して現「ひたちなか市」)とある。この平磯から磯崎にかけて、太平洋を東に望む台地上に120基あまりの古墳がみられる古墳群で「酒列磯前神社」付近に古墳が点在している。なかでもこの川子塚は市内最大級で五世紀末頃のものとされているという。いづれにせよ、古墳は下から見てもおもしろくない。上に登れば多少はおもしろくなるが時間が許さない。この地は古くから開けていたのだな、という至極当たり前のことを認識して先に進むとする。歩くこと15分ほどで神の空間を感じる。木々に囲まれた怪しげなる場所が左手に見え、正面には大鳥居が見えてくる。なんとなく左が気になって覗いてみると「酒列磯前神社旧社地」とある。
「酒列磯前神社」(さかつらいそざき神社・式内名神大社・国幣中社)
<平成十七年五月・再掲載ページはこちらにて>
御祭神
主祭神:少彦名命(スクナヒコナ命・高皇産霊神の御子神・医薬、醸造、海の神・詳細)
配祀神:大名持命(オオナモチ命・オオクニヌシ命の別名・国土開拓の神・詳細)
開基の年代は古く、斉衡三年(856)の鎮座とされ、天安元年(857)には官社、延喜の制では「酒列磯前薬師菩薩明神」として明神大社に列している。元禄十五年に隣接する西方の台地から社地が移動され、社殿を造営。現在の社殿は、元禄時の木材・彫刻等を再利用し、昭和九年から国費でもって改築されたものである。
大鳥居を抜けると参道が一直線に延びている。上が見えないほどに木々が覆い被さり、圧迫感を抱きつつも爽快感を感じてしまう。鬱蒼とした古木が多い自然林の参道は厳粛であり、一歩一歩足を進めていくだけで、心が洗われていくようですらあった。木々の隙間に横道を見る。予想以上の高台であり、左手の眼下には阿字ヶ浦の海を望む。まぶしいばかりにきらめく海は静かに波を漂わせていた。神の気を漂わせながら。
前方が明るくなり、拝殿を望む。一転してまぶしい日差しをあび社殿の屋根が光を反射させる。自然と調和した「やしろ」は、ただただ自然と調和していた。あいもかわらず誰もいない境内。いつものとおりに境内を満喫する。
拝殿の上部に彫刻が施されている。「ブドウとリス」の彫刻で、「懸魚(けぎょ)の彫刻」(防火のための彫刻)という。東照宮の彫刻を終えた左甚五郎が飛騨に帰国する途中で、当社に参拝し、その御神徳に心をうたれて彫ったものであるという。ケヤキの大きな木材の木目を活かした透かし彫りで見事に彫られており、味わいのある彫刻が施されていた。私の観察眼は大したことがないが、日光の彫刻は他の装飾に圧倒されて左甚五郎彫刻はその良さが完全に引き出されているとは言い難いが、当社の拝殿彫刻のこの一点は、自らを主張することなく拝殿全体と溶け込んでおり、それでいて注視せざるを得ない見事さがあった。
酒列磯前神社旧社地 |
酒列磯前神社鳥居と鬱蒼とした参道 |
拝殿 |
ブドウとリスの彫刻 |
「大洗へ」
時間がなくなってきた。まだ朝の9時15分だというのに私は慌てていた。この空間を立ち去るのは名残惜しく、いつまでも海を眺め、やしろを感じていたいが、帰りの電車の都合もある。一時は10時01分の電車に乗ろうと思っていたが、後のことを考えると次の9時23分の電車に乗りたかったので、15分歩いた道のりを8分程度で走る。本気で走って駅前に発車間際に到着。慌てて駆け乗るのが発車の合図であった。
9時23分の電車は誰もいなかった。つまり駆け込んだ私以外にはひとりの乗客もおらず、不思議な空間の中で電車は走る。
9時35分、茨城交通湊線の中心駅である那珂湊駅で降りる。「大洗磯前神社」を参拝するコースとして通常は水戸駅から大洗方面行きバス、もしくは水戸駅乗り換えで鹿島臨海鉄道の大洗駅を使うべきなのだろう。だが私の感覚では那珂湊駅で降りるのが吉と判断した。それは車庫があるから・・・というのは以前の私の弁。初めて茨城交通湊線に乗った際には那珂湊で下車して経験がある。つまり二回目の下車。車庫は関係なく、地図をみるとこの駅から那珂川を渡って4キロほど南下したところに大洗磯前神社が鎮座している。4キロ程度なら歩いても支障はないし大洗駅からも実際は同等の距離ぐらい離れている。水戸まで戻る手間を考えたら電車好きの私でさえも電車を降りた方が吉であるという判断ぐらいはできる。ゆえに関東の駅100選にも選ばれた那珂湊駅で下車という結果に成らざるを得ない。
電車から降りて地図を確認しつつ、さて歩くかと考えていたところに茨城交通バスが止まる。行き先は大洗方面。目の前に止まったバスが私の行こうとしている方向と同じらしいので運転手に「大洗磯前神社にはいくか?」と尋ねると「行きますよ」とのこと。これで私もバスの人となってしまった。
バスに揺られてしばらくすると「大洗水族館」に到着する。バスは運転間隔の調整からしばらく待機。この水族館はなかなかの賑わいのようで車も多く、人も多い。ところがそれ以上に「警備員」の数が多い。なぜ警備員が多いのかが謎だが、そこからいかがわしさを感じさせられるほどであった。海に隣接する水族館を眺めながら海を見る。先日房総半島で海を眺めたばかりなのに海が恋しくなってくる。
ぼーっとバスに揺られていると「大洗磯前神社」の鳥居が見えてくる。予想以上に大きな鳥居で圧倒されてしまう。神社前のバス停で下車して神社を見上げるも「やしろ」は見えてこない。ただ正面には大鳥居と100段以上もあるかと思われる石段しか見えない。
「大洗磯前神社」(式内名神大社・国幣中社)
<平成十七年五月・再掲載ページはこちらにて>
御祭神
主祭神:大名貴命(オオナムチ命・オオクニヌシ命の別名・国土開拓の神・詳細)
配祀神:少彦名命(スクナヒコナ命・高皇産霊神の御子神・医薬、醸造、海の神・詳細)
文徳天皇実録(六国史の一つ)によると斉衡三年(856)、度々地震が発生し人心動揺し国内が乱れて居た時に、常陸国鹿島郡大洗の浜に「両恠石」(二つの怪しい石の意)が示現し、それは「高各尺許、体於神造、非人間石」というものであったという。石の出現の翌日には「亦有廿余小石、在向石左右、似若侍坐」とされ、里人の一人に神がかりして人々にいうには「我は、これ大名貴、少彦名神也。昔、この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救うために再びこの地に帰ってきた」と仰せられたという。オオクニヌシ神(元々、オオクニヌシ神とスクナヒコナ神は同神との説もある)は自ら東国の混乱を鎮める平和な国土を構築するために大洗の降臨したということになる。大洗磯前神社は創立当初から関東一円の総守護神として祀られ、酒列磯前神社共々に天安元年(857)には官社、そして延喜の制では「大洗磯前薬師菩薩明神」として明神大社に列している。(両社の関係は不明だが、那珂川を挟んで鹿島郡・那珂郡にそれぞれ両神が祀られたと考えて良いだろう。)永禄年間(1558−1570)に小田氏治の兵乱で社殿以下の諸建築を焼失してしまい、以後小社で祭祀を続けていたという。水戸藩主徳川光圀は見るに忍びず元禄三年(1690)に現在の社地の中程に社殿を造営。徳川綱條が享保十五年(1730)に本殿、拝殿、神門を再興したという。現存の社殿は当時の建造物(本殿・拝殿は県文化財)。明治の世になると明治七年には県社、明治十八年には国幣中社に列せられている。
見上げるような大鳥居をぬけ、石段を昇ろうとする脇に、人目をはばかるように社号標が立っていた。中途半端な位置から「大洗磯前神社」と記されていることから、容易に「国幣中社」が塗り固められたあとであることはわかる。石段を登る。石段途中で振り向くと陽をあびてまぶしいばかりに輝く太平洋を望む。大洗の浜からやってきた神様を祀るには絶好の位置どりであった。私の参拝する多くの神社は「山の神様」が多いようで鬱蒼とした「やしろ」が多い。ところがこの「磯前神社」二社は、名前の通りに「海の神様」を祀っている。実際に海の近くにあっても神社から海が見渡せるところは少ない(関東に於いては、としておく)が、ここのやしろからは、神門から一直線に海が見える。海がみえるというだけでもうれしかった。日頃見ている海は「普通の海」だが、神社から海を見ると、ただそれだけで「神の海」になってしまう。
いつまでも後方の海をみていてもキリがないので、前方の社殿に向かう。拝殿は一般的によく見る入母屋造り。本殿は江戸の頃がよく感じられる木造流れ造りであり、茅葺屋根。本殿は見応えがあり、それでいて目隠しもされていないので存分にみることが出来る。細かい彫刻が施され、それでいて質素に豪華な、幽玄でかわいらしい、なんとも言い難い立派な本殿であった。
大洗磯前神社(高台に鎮座) |
拝殿 |
本殿 |
神は海からやってくる(大洗磯前神社海鳥居) |
軽巡洋艦「那珂」
境内を散策する。ひときわ大きな石碑があるので見物してみると「軍艦那珂忠魂碑」(第四代艦長今和泉喜次郎<海兵44期>謹書)と記されていた。海軍史専攻の私としては、当然の如く立ち止まり頭を下げる。先ほど那珂川を渡ってきた。海軍の軍艦名称には法則があり、軽巡洋艦には川名をつける。その軽巡洋艦「那珂」を忠魂する碑は、那珂川ほとりの「大洗磯前神社」で静かに眠っていた。たとえ関係者以外だれも見向きもしない碑でも、時々私のような人間がいる。那珂という名から、軽巡を思い起こすような人間が・・・。
大正十四年十一月に竣工した「那珂」は5500トン型「球磨」「長良」型の最終改良艦である「川内」型の二番艦(姉妹艦「川内」「神通」)。新造時の常備排水量5595トン、全長162.46メートル、全幅14.2メートル、走力35.25ノット、主要兵装14センチ砲7門・8センチ高角砲2門・61センチ魚雷発射管8門・水偵1機。球磨型・長良型の3本煙突に対して、ひとめでわかる4本煙突が特徴であった。進水直前に関東大震災にみまわれ横浜ドック造船台内で炎上。解体の上再起工という不幸に見舞われ竣工した那珂は、その後も昭和二年八月二十四日の「美保ヶ関事件」(大演習中の衝突事故。僚艦「神通」は駆逐艦「蕨」と衝突し蕨は沈没。神通艦長であった水城大佐には直接の責任はなかったが自刃という事件)で那珂は駆逐艦「葦」と衝突、那珂の艦尾を切断してしまった。大東亜戦争では西村祥治少将率いる第四水雷戦隊の旗艦として、フィリピン上陸作戦・スラバヤ沖海戦で奮戦した。ところが昭和十七年四月にクリスマス島沖で潜水艦の攻撃を受け大破、修理に一年余を費やすこととなってしまい、第四水雷戦隊の旗艦を由良(長良型四番艦)に譲り、第一線部隊を退いた。十八年四月に第四艦隊第十四戦隊に編入され中部太平洋水域の輸送作戦に従事(軽巡すらももはや輸送作戦につかわざるを得なかった)、昭和十九年二月十七日のトラック大空襲で艦載機の雷撃によって沈没した。
碑には那珂の艦歴が記されている。その昭和十九年二月十七日の部分を抜粋したい。
「トラック島ニ来襲敵機動部隊ト応戦同島南西海域ニ於テ九時間ニ及ブ激烈ナル対空戦斗ノ末満身創痍砲ハ飛散艦首艦橋切断海中ニ没ス 後進交戦魔ノ紅ノ炎ト化シ遂ニ沈没連合艦隊ノ一翼ノ使命ヲ果シ輝シイ武勲ヲ残シテ終焉」
碑は何も語っていない。ただ「那珂」を偲ぶだけだった。この簡潔な文章が那珂の最期を伝え、そしてありし日のすがたを偲ぶ。大洗の地から太平洋を望み、はるかなトラック群島を感じるだけであった。
碑の語っていない部分を状況説明したい。亜米利加軍がマーシャル諸島を泊地としたことから連合艦隊の根拠地であったトラック群島は極めて危険な状態となり、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は連合艦隊主力艦隊を二月十日に退避。そのわずか一週間後の十七日に米軍のトラック大空襲(スプルーアンス中将率いる第五艦隊・空母5軽空母4戦艦6巡洋艦10駆逐艦28)が敢行された。トラック基地及び第四艦隊(司令官小林仁中将)の迎撃は後手となり、航空機のほととんどが離陸時に撃墜。完全に制空権を握られ十七日十八日の二日間の空襲で基地機能喪失、航空機270機、軽巡洋艦「那珂」、駆逐艦「太刀風」「追風」「文月」、特設巡洋艦「愛国丸」「清澄丸」「赤城山丸」、特設潜水母艦「平安丸」「りおでじゃねいろ丸」、輸送艦30隻(194000トン)が撃沈。そのほか水上機母艦「秋津洲」駆逐艦「時雨」特務艦3隻「秋風」潜水艦4隻が損害を受けた。
またトラック島を出港しようとした新鋭軽巡洋艦「阿賀野」が十六日に潜水艦の雷撃で撃沈。翌十七日に脱出しようとした軽巡洋艦「鹿取」駆逐艦「舞風」「野分」は包囲していた戦艦部隊に捕捉され「鹿取」「舞風」は撃沈。「野分」だけは脱出に成功した。
最近の私は「神社専門家」とされているようだが、本音は「海軍専門家」。ゆえに海軍の面影を辿るかのように、普通の神社趣味者ではない視点がときどきある。しかし、人はいろいろ。私は私なりに神社を想い、そして「大海軍を想う」(伊藤正隆氏の名著のタイトルだ・・・)。すくなくとも大洗磯前神社よりも軍艦那珂の説明の方が多いような気がする。ここらが趣味と専門の比重の違い?
軍艦「那珂」忠魂碑 |
新造時の那珂が彫られている・・・。 |
「大洗磯前神社」から磯に出る。磯に見える鳥居に赴こうと思う。釣り人が不思議そうに私を窺うなかで、波打ち際に向かう。カメラを持っている重装備な都合上鳥居に触れる距離まで近づくのは不可能だった。今の私には1メートルぐらいの岩の切れ目(下は潮水)を飛ぶ自信がない。
神磯におりる。ただの磯も、今は神域の神磯となる。海に向かって立つ鳥居は不可思議だった。ただ神はやってくる。海のかなたからこの地にやってくる。そう感じ、遙かな海を眺めながら、ただひたすらに潮風に吹かれる。釣り人は不思議そうだった。確かに20代な若者が「神磯」で「神」を実感しているのはいささか奇妙であった。
大洗海岸は静かだった。夏は海水浴客でにぎわうであろうこの地も、いまは静かだった。海岸の付近はバス停が100メートル間隔で並んでいた。少なくとも私の今立っているバス停の前後のバス停が見えるぐらいの間隔であった。そんなバス停に立ったとたんにバスが来る。歩いて行こうか思ったのもつかの間。バスが来たから乗ろうと思う。身体を休ませたかったので鹿島臨海鉄道大洗駅は素通り。バスは水戸駅に向かう。この区間はかつて「茨城交通水浜線」が大洗−水戸駅間を結んでいたというが、昭和41年5月に廃止。いまではそんなものを偲ぶものはまったくなく、茨城交通バスはバイパスを快走して640円で水戸駅前に到着する。
「水戸市内見聞」
12時前後に水戸に着く。しかし水戸ですることは考えていない。ただ吉田神社に行こうと思い、観光案内所で地図を頂いて思案する。どうも水戸は観光地らしい。今更いうまでもないが見所がある。水戸というイメージは幕末で強烈に発揮され、私はあまり好きではないが、少なくとも今は初めての水戸の地にいる。そして時間があるし、街を歩かなくては「吉田神社」にはいけない。ゆえに水戸の史跡を廻ろうと思う。「神のやしろ」ではない部分もあるが一まとめに筆を進める都合上、以下を「水戸市内見聞」としたい。
「東照宮」(県社・水戸東照宮)
まずは駅の近くの東照宮に行こうと思う。御祭神はいうまでもなく徳川家康公、そして徳川頼房公。元和7年に家康公を祀ったことに始まったという。つまり水戸藩の東照宮。明治には県社に列せられるも、昭和20年の戦災で焼失。37年に復興したという。
いうべきことはこれだけ。水戸駅前の歓楽街の真ん中の高台に位置しており、神社・歓楽街双方の立場に立ってみてもお互いが邪魔にしかみえないような駅前に位置している。下界ではそのような状態だけど、そこはさすがに東照宮。高台の上に立ってしまえば見晴らしもよく、そんな下界の状態を忘れさせる神域が広がっていた。
東照宮に長居をするつもりはないので、どんどん先に行こうと思う。一度、駅前に戻りイチョウの木をかすめるようにすすむと城壁のようなものが見えてくる。その城壁のようなものの中には、城のような蔵のような建物がある。これが「三の丸小学校」であり、名前の通り「水戸城三の丸」から由来しているのだろう。その一角に有名な「弘道館」があるというのでせっかくだから行ってみる。
水戸東照宮鳥居 |
拝殿 |
「弘道館」(国特別史跡・国重要文化財)
弘道館とは水戸藩の藩校で、現在の建物のうち正門、政庁、至善堂が国重文に指定されている。水戸藩九代徳川斉昭が天保十二年(1841)に藩校を創立し、藩士子弟に文武の教育をしたところであり、世にいう「水戸学」発祥の場でもある。
もっとも、私にとっては「歴史体感装置」でしかない。190円の入館料を払って中に入るも、印象は江戸期の典型的な建物以上のものはない。幕末の強烈な「水戸」という個性が私の中で渦を巻く。「水戸藩」というイメージを払拭することができない。その強烈な個性の原点が発揚された場所で時勢を想う。ただただ、水戸という洗練された空間がそこにあるだけだった。
弘道館 |
「水戸城趾」
水戸城趾といっても何かが残っているわけではない。ただ、城が存在したという空気が残っているにすぎない。かつては残っていた城の名残も昭和二十年の空襲で焼失してしまったという。中世鎌倉期に馬場氏が館を水戸に設け、以後江戸氏、佐竹氏と領主を変えてきた。私のような戦国史趣味者の印象では水戸は佐竹と考えがちだが、水戸の地は天正十八年(1590)までは江戸氏の領地であり、佐竹氏は常陸北部の太田地方を支配していたに過ぎないという。秀吉の小田原攻め期に佐竹義宣が江戸氏を攻め水戸を攻略。とのときから水戸城は佐竹氏五十四万石の本城となった。以後の佐竹氏の水戸居住は十三年間に過ぎず、慶長七年(1602)に関ヶ原の責を負って秋田に国替えを命ぜられている。佐竹氏と水戸の関係は短かったというのは意外であり、中央的な見方で「常陸は佐竹氏」と一概にはみることが出来ないという意味でも勉強になった。
三の丸から二の丸に渡る。現在は堀の下に道路が通されているが、それでもかなりの堀の深さを感じることが出来る。その先に碑がある。何気なく近づくと「御製碑」とあるので、おもわず直立してしまう。 昭和天皇が敗戦直後の昭和二十一年十一月に水戸に行幸された際に市街を見渡し「たのもしく よはあけそめぬ 水戸の町 うつつちのおとも たかくきこえて」と復興ぶりをお歌いになった記念の碑であるという。以前は水戸駅前にあったというが、再開発で(邪魔になって?)城趾の地に移動してきたという。 昭和の陛下は翌年の新年歌会始で「あけぼの」と題し、この水戸での御製をお歌いになったという。些細なことだけど、 陛下の想いがよく伝わり何気なく繊細なことにも気を遣っていた 陛下の偉大さを改めて思い直してしまった。
更に進むと、二の丸と本丸の堀に行き当たる。こちらは下にJR水郡線が通っている。先日の「棚倉紀行」で乗ったばかりの水郡線というのも面白いようで面白くないが、とりあえず時刻表をひいてみるとあと10分で気動車がやってくるということがわかる。ほぼ一時間に一本の水郡線が10分でやってくるというのはタイミングが良いのだろう。しょうがないから二の丸と本丸を結ぶ橋の上でぼっーと佇み気動車がやってきたところを写真に納める。堀を撮るにしても線路があるなら、車両が走っていた方が良いにきまっている。
途中、「水戸黄門神社」という徳川光圀生誕の地に鎮座するちいさなやしろ(看板の方が大きかった/苦笑)を経由して、そろそろ本来の目的地である「吉田神社」まで行こうと思う。バスが経由しているはずだが、なにぶんにもどのバスだか分からないので、ここは素直に歩いていく。
左が二の丸跡。右が本丸跡。真ん中の堀がJR水郡線 |
水戸黄門神社(生誕の地) |
「吉田神社」(延喜式内名神大社・常陸国三の宮・県社)
御祭神
日本武尊(ヤマトタケル尊・詳細)
ヤマトタケル尊が東夷征討帰途に、兵を常陸の朝日山に留め休ませた故を以て、この地(朝日山)に神社を創建して尊を奉祀したことに始まるという。尊の御休憩の場所は今日も三角山と称して境内見晴台の一角を占め神聖なる地として伝え残されている。創立の年代は明らかではないが顕宗天皇(485)の頃とされている。後鳥羽天皇の建久四年(1193)に国司に勅して社殿を改築し遷宮式が行われ、以後常陸国内では鹿島神宮遷宮に次いで吉田神社遷宮が行われるようになったという。中世来、朝廷との関係が深く、また江戸期には徳川家光や頼房、光圀等の崇敬を集めていた。現在の社殿は昭和二十年の戦災によって焼失し(水戸の史跡等は大抵焼失している)、昭和二十三年以降に順次復興していったもの。
朝日山というだけあって、山である。しごく当たり前のことではあるが、朝から周辺を歩き回っていた私にとっては、高台すらも山となり大きく立ちふさがっていた。頂上(?)は見晴台となっており、水戸市街を一望できる展望が広がっていた。ちょうどJRの線路を挟むように対岸の水戸城趾の高台が望める。水戸城趾側は建物多数で展望も狭かったが、一方の吉田神社側は周辺を遮るものはなく、とおく阿武隈山地まで見渡せるというのも頷けるものがあった。
境内には桜の木がちらほらと咲き、下から感じたのとは違い意外と広々としていた。参道の傍らに「三角山」神域があり日本武尊を偲ぶ一隅がある。社殿自体は戦後の再建だが、真新しさは感じられず、「延喜式内明神大社」という歴史をそこなうことがなく、違和感を感じさせない落ち着いた雰囲気であった。あいもかわらず誰もいない神社境内を散策して、社務所で御由緒書きを頂く。毎度のことながら、貰うだけで何も購入しないのは胸にいたいが、そこは私は万年金欠。あくまで胸を痛めるだけ。境内でベンチに座りながら水戸の市内に目をやる。すくなくとも神社にいる気分はしなかった。春の風をあびながらあたりを見渡す。このまま朝日山「吉田神社」で夕日を望むのも悪くはないと思うが、まだ時間があった。せっかく水戸にいるから近隣の大きな神社に行かなくてはいけないだろう。本音をいうと行きたくないところなのだが。
吉田神社 |
吉田神社 |
一度、水戸駅に戻ってくるとちょうどバスがあった。行き先は「偕楽園」行き。これだけで私が行きたくない理由がわかるだろう。日本中に名前が知られている「偕楽園」などというところには絶対に行きたくない。しかし「常磐神社」という神社がそこにある。別格官幣社という格の神社がそこにある。徳川家が嫌いだろうが、斉昭公が嫌いだろうが、そこに有名な神社があるのだから、しかたがないけど赴くことにする。今日参拝した神社はいずれも無人だった。嘘のようだがホントに神社関係者以外の人がいなかった。ただ、常磐神社ともなると、さすがにそうは行かないだろうという気になりながらバスに揺られる。
「常磐神社」(別格官幣社)
御祭神
高譲味道根之命(タカユズルウマシミチネノミコト・徳川光圀公・義公)
押健男国之御楯命(オシタケオクニノミタテノミコト・徳川斉昭公・烈公)
明治の初年に義公・烈公の徳を慕う人々によって偕楽園内に祠堂が創られたことに始まり、明治六年(1873)に勅旨をもって常磐神社の社号を賜り、同年県社に列格。翌年に現在地に遷座し明治十五年に別格官幣社に列せられた。昭和二十年の戦災で社殿を焼失し昭和三十三年に現在の社殿が完成したという。摂社には「東湖神社」(藤田東湖命)がある。もともとは鎮魂社であったというが、護国神社が桜山の地に移転した際に健立された。
案の定、おもしろくない。まず人が多すぎる。花見と重なりとにかく人が多い。神社社殿自体は見た感じが「安房神社」と同じ雰囲気であるが、抱く気持ちは全然違う。安房神社は自然と調和していた。この常磐神社も自然と調和はしているはずである。しかし、祭神の光圀と斉昭の印象が強烈すぎる。その個性の強さゆえに、常磐神社という別格官幣社は強烈な人工物としかイメージが湧かない。第一、祭神名がよくない。あからさますぎて、私にとっては悪しきイメージしかわかない。来て早々に後悔してしまう。1日の疲れもどっと押し寄せ最早気力すらも失う。本来なら偕楽園でも回遊しながら桜山護国神社等を散策しようと思ったのもつかのま。やはり水戸市内はおまけでしかなく、1日の行動の限界を超していたようなので、いいかげん幕引きをしたいと思う。
ただ、一言言うなれば「徳川の毒気」に当てられたような、そんな疲労が蓄積してしまい「両磯前神社」や「吉田神社」の良さが霞んでしまったような感じがする。水戸を訪問する際は「徹底的に水戸徳川趣味」でいくか「郷土史趣味」でいくかの線引きをしたほうが良いようで、半端な気分で歩くものではないということがわかった。どのみち茨城水戸散策も中途半端な状況であったので、再会を来させばという想いと共に「常磐線」に身をゆだねることとする。
常磐神社拝殿 |
摂社・東湖神社 |
「あとがき」
いつもの通り尻切れトンボ的(苦笑)。筆の勢いが落ちてきて最期になるといつもこんな感じで筆もいい加減になってしまうのが悪い癖。
今回は目次を見て分かるとおり不統一。「神のやしろ」と名乗りつつ「茨城交通」から始まっているし、ましてや「軽巡洋艦那珂」まである(笑)。神社が中心だから「神のやしろ」ではあるが、着目点が人とは違うのだからいたしかたがない。そうはいうものの「那珂」ネタが一番気合いはいってるかも。参考文献3冊使ったし(笑)、本音をいうと神社について書くのに飽きたとか・・・。
本来なら、「棚倉紀行」が先に来るはずだったが、諸般の事情によって「水戸紀行」が先となりました。御了承下さい。
「参考文献」
巡洋艦入門 佐藤和正著 光人社
日本海軍軍艦総覧 新人物往来社
太平洋戦争海戦ガイド 福田誠・牧啓夫共著 新紀元社
郷土資料事典 茨城県 人文社
角川日本地名辞典 茨城県 角川書店
日本の神々 神社と聖地 関東 谷川健一編 白水社
他、各神社御由緒書き、及び案内解説版等