「内房上総の古社巡り・2」
<平成7年4月参拝>


目次
その1<袖ヶ浦>「飽富神社」「率土神社」

その2<姉ヶ崎>「姉崎神社」「島穴神社」



「姉崎神社」(式内社・県社・姉埼神社)
<千葉県市原市姉崎鎮座・朱印

祭神:
志那斗弁命(シナトベ命)・・・日本書紀では級長戸辺命
相殿:
日本武尊・天児屋根命・塞三柱命・大雀命(仁徳天皇)

日本書紀によると嶋穴神社のシナツヒコ命と当社のシナトベ命は同神という。
しかし一説によるとシナトベ命は女神で、シナツヒコ命は男神ともいう。
いずれにせよ姉崎神社は風神を祀る。

鎮座地は姉ヶ崎駅東南約1キロの台地上。当社の付近は古墳群となっており、姉崎古墳群と形成。境内地にも古墳が点在。房総三国の中でも最大級の前方後円古墳である大塚山古墳(136M)も近隣にある。おそらくはこれらの古墳群の被葬者は上海上(かみつうな)国国造(大化の改新後に上総国海上郡となる)であろう。
上海上国の国造家は成務天皇の時代に天穂日命の8世の孫である忍立化多比命を祖とする。天穂日命を先祖とすると武蔵国造家と同族。

創建は景行天皇40年。日本武尊東征の際に、海上での暴風雨を避けることが出来たことに感謝し、当地に風神をまつったことにはじまるという。
一説に姉崎神社と島穴神社は夫婦神(姉弟神とも)ともされている。
嶋穴神が遠方に赴くことになり、妻神たる姉崎神が「帰ってくるまで待っているように」と伝えて出立。しかし嶋穴神はなかなか戻らず姉崎神は「待つ身は辛い」といわれたという。その伝承により、姉崎神社の境内には「松」は生えておらず、氏子も正月の「門松」を立てない。姉崎神が「待つ」に通じる「松」を嫌われたため、という。
明治社格では県社。
<式内社調査報告・房総の古社・菱沼勇を参考>

姉崎神社
一之鳥居
姉崎神社
二之鳥居
姉崎神社
正面
姉崎神社
拝殿
姉崎神社
社殿
姉崎神社
社殿横姿
姉崎神社
神門、右奧に社殿
姉崎神社
鎮座地の宮山から霊泉が湧く

1時30分。姉崎神社に到着。駅から南東に600メートル。高台に鎮座しているのでわかりやすい。石段を昇れば、正面に拝殿。なかなか堂々とした気配。高台上にひろがる境内地はすがすがしい。やはり海が近い千葉内房の土地だけあって風が強い。木々のざわめきの中で落ち葉が賑賑しく舞っていた。

宮山から湧き出る霊泉がある。各地の霊泉の光景として、地元の方々がとぎれることなく水を求めている。人の流れの切れ間のなかで、ちょっとだけ失礼して写真を撮る私。綺麗な水がある神社は、神社気配が美しい。

姉崎の駅に戻って、いつもの如くに途方に暮れる。
やっぱりバスのタイミングがわるい。30分に一本ほどのバスが5分ほど前に発車したらしい。平日なら20分間隔であれど休日は30分間隔であった。
なにやら待つのも辛い・・・というのは姉崎神ではあれど、島穴神のいるところに歩いていく自信もあまりないので、タクシーに乗り込む。最近の私は横着だ。



「島穴神社」(式内社・県社・嶋穴神社)
<千葉県市原市島野鎮座>

祭神:
志那都比古命(シナツヒコ命)
相殿:
日本武尊・倭比売命

島穴の地は上総国府から安房国府に通じる官路に当たる交通の要衝。大化の改新以前には上海上国に属し、のちに上総国海上郡となる。
創建由緒は姉崎神社と同じ。
創建は景行天皇40年。日本武尊東征の際に、海上での暴風雨を避けることが出来たことに感謝し、当地に風神をまつったことにはじまるという。
明治6年に郷社、明治12年に県社昇格。
鎮座地の背面200メートルの所に元宮古跡あり。(内房線の反対側の地)

島穴神社
一之鳥居
島穴神社
神橋
島穴神社
参道
島穴神社
正面
島穴神社
拝殿
島穴神社
拝殿
島穴神社
拝殿彫刻
島穴神社
本殿
島穴神社
島穴神社神饌田
島穴神社
島穴神社社地
島穴神社 左:
島穴神社社地の後方にJR内房線
かなり逆光ですが。

14時30分。
タクシーは姉ヶ崎駅から約1500円。なかなか車で行くのに不便な場所らしく、大回り。運転手さんも「実は島穴神社の名前はよく耳にするんですが、行くのは初めてなんですよ」とのこと。一緒に地図であっちですね、と確認しあう。「地図的な位置を考えると『あの杜』が神社だと思います」と私がいえば、たしかにそれが島穴神社の社叢であった。
鎮座地は姉ヶ崎と五井との中間地点。内房線の車内からもその杜がはっきりとわかる。姉ヶ崎からは約3キロ。五井から約4キロほど。

一度、正面鳥居まで歩いて、そして戻る。春の陽気が心地よい。参道の玉砂利を踏みしめ神橋をわたり、桜を愛でる。周辺は水地が多く、用水路に小川に、水田。とにかくみずみずしい土地は豊穣さを感じる。

この気配。すごくステキな気配だった。境内は樹木に囲まれ、そしてシンプルながらに主張をしている彫刻をみつめながらに接する。水音にそって歩けば、そこには「神饌田」もある。水田からみる社地はまるで「島」であった。なるほどなとのんびりと歩いていれば、すぐ後をJR内房線が駆け抜ける。
なにやら贅沢なひとときであった。

実は探していたことがある。「旧社地」が200メートル離れた場所にあるらしい、と情報を得るも、なにぶん下調べをしていなかったので、どこにあるのかが不明。水田をながめて、ひたすら水田しかない光景。

まあいいや、と諦めてバス停まで約1キロ歩いて、五井駅に赴くバスに乗り込む。今日はこのぐらいで帰ろうかな、と思いつつ。
あとで調べれば旧社地は線路を挟んだ後方であったらしい。さすがに線路の向こうまでは感覚的に気が付かなかった。


参考文献
境内案内看板・由緒書
角川日本地名大辞典・茨城県
神社辞典 東京堂出版
式内社調査報告 第十一巻 東海道6 皇學館大學出版部
房総の古社 菱沼勇・梅田義彦著 有峰書店




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