丹波の皇女とタチバナの実
今は亡き皇后の沙本毘売命の進言に従い、垂仁天皇は丹波から美知能宇斯王(みちのうしのみこ・娘含めて前述・ただし名前と数は一致せず)の娘達を呼び寄せた。
比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、弟比売命(おとひめのみこと)、歌凝比売命(うたこりひめのみこと)、円野比売命(まとぬひめのみこと)の合わせて4人を呼んだが、比婆須比売命と弟比売命の二人を留めて、その妹である歌凝比売命と円野比売命は、容貌が醜いと言うことで親元に帰されてしまった。
円野比売命は、これを恥じて「同じ姉妹のなかでも容貌が醜いことによって返されたことは近隣の噂になるでしょう。これは大変恥ずかしいことです。」と言って山城の相楽に着いたときに、首をつって死のうとした。しかしその時は死なず、山城の弟国(乙訓)に着いたときに、険しい淵に飛び込んで死んでしまったという。
垂仁天皇は三宅連らの祖である多遅摩毛理(たじまもり・新羅国王の子孫・詳細は応神天皇の項で後述)を常世の国(海の彼方の国・スクナヒコが以前やってきた・前述)に遣わして「時を定めず常に輝く木の実」を求めさせた。そしてタジマモリが、遂に常世の国につき、その木の実をとって、葉がついたままの枝や、実が付いた枝を八組持ち帰る間に垂仁天皇はすでに崩御されてしまっていた。
そこでタジマモリは、そのうちの四組を皇后(沙本毘売亡き後の皇后=比婆須比売命?)に献上し、もう四組を天皇の御陵の戸に捧げ置き、木の実を枝からもぎ取って高くささげ、大声で泣きながら「時を定めず常に輝く木の実を持って参上し、おそばにお仕えしております」と申し上げて、絶叫して死んでしまった。その木の実はいまのタチバナのことであるという。
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后の話は前述したように古事記、書記双方で名前も数も違う。はっきり言えることは、当時は容貌の美しいものを后とし、容貌の美しくなかったものは返されたということ。
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書記によるとタジマモリは垂仁天皇の御陵で「ご命令を天皇より承って、遠隔の地に参り、万里の波濤を越えて、遙かに弱水を渡りました。この常世国は、神仙が隠れ住む世界であって、俗人がいける所ではありません。そういうわけで往復する間に十年が経過いたしました。聖帝の神霊によって帰ることができましたのに、今、天皇はすでに崩御なされ復命もできません。私が生きている甲斐がありましょうか」と申し、自殺したという。
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タジマモリは新羅の王族の子孫である。書記では新羅王族の末裔の話がこの垂仁天皇の段で語られているが、古事記では応神天皇の段で記されている。私も手順としてはこの段で触れたいが、古事記を主としている関係上、応神天皇の段で触れることにする。ゆえにタジマモリの一族に関しては後述となる。
* タジマモリの話でいえることは、天皇の対する忠誠心が帰化人にも及んでいたということだろう。