本牟智和気御子と出雲
垂仁天皇と今は亡き沙本毘売命の間にできた本牟智和気御子(ほむちわけのみこ・古事記では天皇位についた人物だけが御子(みこ)と呼ばれるがこの本牟智和気命と倭建命だけが例外)は大切に育てられてきたが、成人しても言葉を話すことができなかった。
あるとき、空高く飛んでいく白鳥の声を聞いて、初めて不完全ながら言葉を発した。それゆえ垂仁天皇は山辺の大タカ(やまべのおおたか・人名・漢字出ず・たか=<帝鳥>の一字)を遣わしてその鳥を捕らえさせた。この人は紀伊国から播磨国、さらに因幡、丹波、但馬と追いかけ、東の近江、美濃、尾張に至り、信濃で追いつき越国の港で遂に捕まえて、都に持ち帰り献上した。またその鳥をみれば御子が言葉を発するだろうと思ったが、一向に御子がものを言うことはなかった。
天皇は大いに心配なされた。ある時、天皇が寝ていたときに夢に神が現れて「私の宮を天皇の宮と同じように整えたなら、御子はきちんと言葉を発するであろう。」と仰せられた。天皇は、この夢にでてきた神がどの神のお心か太占(ふとまに)で占って、求めたところ、その祟りは出雲大神(オオクニヌシ神・前述)の御心であった。
そこで御子を、出雲大神の宮に参拝させることになり、曙立王と菟上王(日子坐王の孫・前述)の二人に共を命じた。
出雲についた一行は出雲大神を参拝し、大和に帰る時に、肥河に中に仮宮を造って御子がお泊まりになった。そして出雲国造の祖先である岐比佐都美(きひさつみ)が、青葉の茂る山の形の飾り物を作り河下に立てて、お食事をさし上げようとした際に、御子が「この河下の青葉の茂る山のようなものは、山のようにみえるが山ではない。もしや出雲の葦原色許男大神(あしはらのしこおのおおかみ・オオクニヌシ神の別名)をお祭り仕えている神主の祭場ではないか」とお尋ねになった。その言葉を聞いた供の二人は多いに喜んで、すぐさま使いを天皇のもとに送った。
御子は一夜を肥長比売(ひながひめ)とすごすことになった。ところがこっそりと乙女をのぞき見ると、その姿は蛇であった。御子は一目でおそれをなして逃げ出したが、肥長比売は悲しんで海原を照らして船で追ってきた。御子はそれをみてますます恐くなって大和に逃げ帰ってきた。
お供をしていた二王は天皇に「出雲大神を参拝したことによって、御子はものを言う事が出来ました。」と奏上した。天皇は喜んでそのまま菟上王を出雲に引き返させ大神の宮殿を造らせた。
* 本牟智和気御子は皇太子に準じる扱いをうけているが、母親が謀反に荷担してしまったため、皇太子にはなれない。
* これは大和の天皇家に対して、一方の出雲の神(オオクニヌシ神)の霊威の強さをあらわす話でもある
* 書記では鵠(くぐい)をみて皇子が「あれはなにか」と初めて言葉を発し、鳥取造(とりとりのみやつこ)の祖である天湯河板挙(あめのゆかわのたな)は出雲・但馬の付近で捉え、皇子は鳥を手にすることで話すことができたという。
* 皇子が出雲に行く話はないが、出雲からきた人物の相撲話や、伊勢の祭祀の始まり、出雲の神宝の話や、殉死禁止の話等がある。