「近江湖南の神社紀行・湖南編・3」
<平成16年8月参拝>
目次
日吉大社編
1「日吉大社東本宮」「日吉大社樹下神社」「日吉大社三宮神社」「日吉大社牛尾神社」
2「日吉大社西本宮」「日吉大社白山姫神社」「日吉大社宇佐神社」「日吉大社・東照宮」
湖南編
3「近江神宮」「御上神社」「日牟礼八幡宮」
10時35分。「坂本駅」。そこから電車に揺られて「近江神宮前駅」へ。名前の通りに「近江神宮」に向かう。
近江神宮に到達したのが10時55分。なにやら天気が心配だ。雲行きがかなり怪しげになってきた。
「近江神宮」(官幣大社)
<滋賀県大津市鎮座・朱印>
祭神:天智天皇
由緒
宇佐山(神山)の中腹に鎮座。
天智天皇6年に遷都した近江朝ゆかりの地に由来する。
明治時代中頃に、近江神宮創建の世論が高まり、明治41年(1908)に創建に関する政治運動が近江市制施行10年を記念して衆議院に請願したことに始まる。
昭和9年に県民負担による建設が方針決定し、12年に創建が決定。
昭和15年11月7日に皇紀2600年を記念し近江神宮鎮座。
建物は近江造と呼ばれる新しい社殿建築。本殿・祝詞殿・中門・拝殿が棟続き、内拝殿と外拝殿が回廊で結ばれる。
また、境内には昭和38年に開館した時計博物館がある。
阪急電車と近江神宮鳥居 |
近江神宮 |
近江神宮 |
近江神宮楼門 |
楼門と日時計 |
外拝殿 |
内拝殿 |
内拝殿 |
いわゆる近代創設社。神社としてはもっとも新しい部類にはいる。逆に言うと、神社的イメージが濃厚に構築された空間でもある。近代的神威を如実に感じさせる空間は、嫌いではない。神社らしい神社を、さも最もらしく感じる。
広大な敷地であれど、小雨降る中での参拝者は、相も変わらず私一人。
天武天皇を、偲び想う事はできないし、感覚としてもほど遠いが、それでも小雨の中で目立ちすぎる私は、私なりに境内をフラフラと散策し、参拝する。
日吉大社から近江神宮。
11時35分に再び近江神宮駅に戻ってくる。次の選択肢を迷う。このまま近江国を進むか、京都方面にとって返すかを。
散々迷った挙げ句、京阪膳所駅でJR膳所駅に乗り換え。膳所駅から野洲駅。近江富士をめざせば、そこに「御上神社」という神社が鎮座しているので、そこに向かおうかと思う。
「御上神社」 (名神大社・官幣中社)
<滋賀県野洲郡野洲町鎮座・朱印>
祭神:天之御影命(アメノミカゲ神・天津彦根神の御子神・天照大神の御孫・国土開発の祖神)
別名を天目一箇神(アメノマヒトツ神・金工鍛冶の祖神)
由緒
三上山(432M)を神体としてその麓に鎮座。三上山は別名を御上山・三神山・御影山とも呼称し、近江富士、又はムカデ退治にちなみ百足山とも呼称。
三上山は遠望すれば孤峰にみえるが、近づけば男山女山の二峰から成立している。
第7代孝霊天皇のころに、祭神たる天之御影神が三上山に御降臨され、神孫の御上祝(神主)が三上山を神体山として斎き祭ったことにはじまる。
延喜式内の名神大社。月次・新嘗に預かる。
明治維新後に県社、そして大正13年に官幣中社列格。
世に名高い「俵藤太のムカデ退治」は当社にゆかりがある。
朱雀天皇の頃に、田原藤太秀郷という剛勇の士が近江国にいた。ある日、勢多の橋を渡ろうとすると橋の上に大蛇が横たわっていたが、藤太は気にせずに大蛇を踏んで通った。
大蛇は小男に化けて藤太の豪勇を誉めて語るには「我は竜神であるが、三上山を7巻半まいているムカデに悩まされているから助けてくれ」と嘆願。
藤太は快諾して、天孫降臨三十二神の武神である当社に祈願して弓の秘訣を授かり、勢多橋からムカデを射止めた。
竜神は大いに喜び、米俵や多くの宝物を贈ったことにより、俵藤太に名を改めたという。
本殿<国宝>
鎌倉時代造。入母屋造神社建築の代表とされる。
神社・仏堂・御殿の三様式合成構造で「三上式」ともいう。
本殿の裏扉は、祭礼時に御神体を拝するための構造。
拝殿<国重文>
鎌倉時代造。入母屋造。天井が船底形。
楼門<国重文>
鎌倉時代弘安三年(1280)造。入母屋造。
摂社・若宮本殿<国重文>
鎌倉時代弘安三年(1280)造。切妻造。
御上神社 |
御上神社正面 |
楼門<国重文> |
楼門<国重文> |
拝殿<国重文> |
拝殿・楼門<国重文> |
本殿<国宝> |
本殿後方<国宝> |
末社・三宮神社<室町造・県文化財> |
摂社・若宮神社<国重文> |
美しい神奈備山は近江富士たる美名を誇る 三上山。 |
野洲駅で、いつもどおりに途方に暮れる。バスがあるかと思ったが、バスなんかありはしない。方向感覚もなく、そして急に思い立った「御上神社」行だったために、土地勘も道順もわからない。
しょうがないので、タクシーで「御上神社へ」、というもっとも安易な選択肢を選んでしまう。どうやら私も歳をとったようだ。
御上神社に到着したのが、12時35分。ちょうど、近江神宮から1時間の道のり、だった。
野洲駅からは南東2キロ。近江富士を目指して歩けば到達できるだろう。
境内に足を踏み入れ、そしてワクワクする。かなりこころおどる瞬間。「神さびた雰囲気」、そして神威的充満度が高まる空気の中で、苔むした社殿が私を迎えてくれる。
国宝の社殿は、空間に埋没していて、過度の主張をしていない。それでいて、歴史的密度が濃縮されており、四方をいつまで眺めても、飽きることがなかった。どうやら完全に見惚れ気味な私がそこにいた。
どうやら私は神社社殿に歴史の息吹を感じるために訪問をしているようだ。その点、簡単に如実に、信仰心はない、ともいえるのが皮肉でもある。
いずれにせよ、近江富士に抱かれた御上神社。最上級の空間を私は満喫する。
13時10分。御上神社をあとにする。神奈備の近江富士を背中にして、駅へと歩く。一度、タクシーで運ばれた道ゆえに、戻るのはさほど難しい道ではない。何度も何度も、近江富士をながめつつ、その姿は段々と小さくなり、私は野洲駅に13時40分頃に戻る。
あいかわらずだが、次も未定。まだ時間がある。ひとつ、思いだした有名神社。近江八幡の八幡様にいってみよう、そう思い立ち近江八幡駅まで北上。
「日牟礼八幡宮」(県社・別表神社)
<滋賀県近江八幡市宮内鎮座・朱印>
祭神:応神天皇
由来
神功皇后の出自の地である近江のこの地に応神天皇と比売神をまつったものという。
寛弘二年に宇佐八幡宮を勧進。日牟礼山山頂に上の宮、麓に下の宮を造営。
天正十四年、豊臣秀次の築城に際して上の宮を移して山下の一社とした。
日触・火振と書いて「ひふれ」ともいう。平安期には「一国一社八幡宮」に定められる。
明治社格では県社。現在は神社本庁別表神社。
日牟礼八幡宮 |
八幡堀 |
左 日牟礼八幡楼門 |
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神楽殿 |
拝殿 |
近江八幡駅からはバスにのる。今度はバスが走っていて助かった。3キロ弱を進めば、八幡山の麓に日牟礼八幡が鎮座している。
14時30分。到着してみて驚く。人が多すぎだ、と。さすがに近江八幡は人気のある観光都市であり、その歴史情緒を醸し出す街並みに、歴史情緒がない人々が好き好きに歩んでいる。大型観光バスも飛び込んで、今日一番の騒々しさ。ちょっとだけ来たことを後悔するが、逆に今日の神社はいずれも静かすぎた。たまには賑やかな神社も良いだろう。
楼門をぬけ、神楽殿・社殿をそれぞれ拝す。それだけのこと。それ以上でも無し、ことさらに近江八幡の町歩きをしようとも思わない。
このあたりにはいろいろと神社が多く、それこそきりがない。なにげに近江国の神社密集度は、並はずれた濃さがあるのだ。そろそろ、疲れたので家に帰ろうと思う。
この時間からなら、青春18切符利用にて鈍行で東京に帰れるのだが、さすがに飽きたし疲れた。18切符所持者であれど、米原から新幹線に乗り込む私は、もうどうしようもなく歳をとったようだった。
参考文献
境内案内看板・由緒書
神社辞典(東京堂出版)
角川地名大辞典25・滋賀県