「神のやしろを想う・日光宇都宮編」

前篇・日光1 / 後篇・宇都宮

目次
中篇・日光2
滝尾神社」(二荒山神社別宮・日光三社のひとつ・国重文)
本宮神社」(二荒山神社別宮・日光三社のひとつ・国重文)


滝尾神社(二荒山神社別宮・たきのお神社・日光三社のひとつ・国重文)
御祭神・田心姫命(たごりひめ命・女峰山の女神・詳細
 弘仁11年・820に弘法大師空海が創建したと伝えられている。

 二荒山神社を参拝したので、、もうこれでひきあげようと思っていた。ただ戴いた御由緒書きには「日光三社」案内図が掲載されており、三社めぐり所要時間2時間とある。ほかに行く当てもないし大猷院なんぞにはいくつもりもないので、「滝尾神社」にいこうかと思う。
 二荒山神社の脇に細く延びる参道があり「滝尾神社へ」と書かれた標識がある。すなおに標識に従って歩き始めるとみるみるうちに登り坂となり、気が付いたら隣の大猷院を見下す高所の細道は完全に「山道」となっていた。肩で息をしつつ登りきったところに「行者堂」というちいさな堂があり、その脇に「女峰山登山口」とあった。この修験道の祖と仰がれる役小角像が安置されている堂の脇の登山道から女峰山の登山が始まる。あいにくというかさいわいというか、私はここから登山道を外れて下り道へと進む。相対する登山道には「登山者カード」を記入してから山に入れ・・・とか書いてあったりしていささか戦慄する。多少は大袈裟だがそれでも「山に来た」という雰囲気は充分にあった。そんな山の気分を味わいつつ太陽の日差しとスギの木立に囲まれるなかを歩くこと20分ほどで原始的な風景から抜けだし近代的なアスファルトの道路がみえてくる。不思議なことに花粉症の私も花粉の親玉である杉のまっただなかに入ってしまうと、もはやスギどころではないようで、重傷に陥ることはなかった。

 石碑がある。そこには「大小べんきんぜい」と書かれていた。つまり大小便禁制。このあたりに鳥居があり滝尾神社の神域となるため、江戸期庶民にもよめるように平假名で書かれた(平假名で書かれているのが珍しい)という由来の碑。その先には「滝」がある。「白糸の滝」という名前が示すように白糸のような泡しぶきを飛ばしているなだらかな滝。なだらかではあるが何段かにわたっており高さは10メートルという。そんな滝の脇には  「大正天皇御観爆」を記念する碑(大正5年9月7日)が立っていた。ここまで  大正天皇がいらしたというのが意外だった。私の今いる空間は、まるで人の世の中で取り残されたかのように静まりかえり、ただ水の音しか聞こえない空間。人の気配を感じない空間に  大正帝がいらしたというのが想像できなかった。

 名前の通りにこの滝の近くに滝尾神社がある。入口に「二荒山神社別宮 滝尾神社」とあり、一部崩壊しかかっている石段が森の暗さと川の明るさにそれぞれ対応するかのような不思議な感覚で延びていた。
 私はここまで来るのに息も絶えの状態になるほど歩いた。東照宮から車で来れば数分で辿り着くだろう。しかし近くの道路は人はおろか車も来ない静けさ。日光にこのような場所があるのが意外だった。正面の女峰山から流れ出てくる豊かな水に圧倒されるような自然神的感覚を、女神の神社「滝尾神社」で全身にうける。

 左手の川と寄り添うような参道をすすむ。かつて東照宮が造営される以前はこの滝尾神社付近が日光の中心であったという。その名残は「別所跡」(明治期に廃止)として空虚なる空間しか残っていないが、日光責めとして有名な輪王寺「強飯式」(ごうはんしき・山伏が大盛り飯を残さず食べろと責め立てる儀式)も、この滝尾神社別所が発祥という。別宮跡の先には「影向石」(ようごうせき)という石がある。影向とは神仏が仮の姿をとってこの世に現れることを言い、空海が弘仁11年にこの地に来てこの岩の付近で祈願したところ美しい女神が現れたと伝えられている。このため滝尾神社は聖地日光のなかでももっとも神聖な土地とされてきた。

 眼の先に「鳥居」がある。普段なら鳥居には見向きもしないが、今回は凝視してしまう。この鳥居は「運試しの鳥居」と言われている。元禄2年(1689)に梶定長が奉納したもので、鳥居の中央額束に丸い穴が開いている。小石を3つ投げ、穴を通った数で運を試したために「運試しの鳥居」というらしい。
 普段の私なら、一瞥して通り過ぎるだろう。しかし私はこの滝尾神社の置かれた環境に一目惚れし、なおかつこの境内には人の気配もなく誰もいなかった。ゆえに誰にはばかることもなく小石を投げてみる。集中して投げた一投目は額の縁にあたり小石は跳ね返され、さらに下の石畳の上で砕けてしまった。なにやらよほど運がないらしい。軽く投げたつもりの石が下で砕け散るというのにショックを受けてしまう。これに懲りたのが幸いなのか二投目、三投目は問題なく通過。三回中二回というのは上々の成績であろう。ただ砕けたのが心に痛いが。
 この鳥居で思い出したことがある。私の住まいは東武鉄道沿線。その東武が配信しているケーブルテレビでこの「滝尾神社」の紹介をしていた記憶が甦る。何年もまえに記憶で、私が神社趣味を持つ前のことで何も覚えていないが、この石を投げる鳥居だけは脳裏に残っていた。そして不思議なことに、当時は全く関心がなかった私が、今では鳥居で石を投げている。
 単純な疑問。皆が皆、この場所で石を投げ続けていれば、私のように鳥居にぶつけてしまう場合もあるだろう。最悪、鳥居が砕ける心配はしなくても大丈夫なのだろうか、と。大馬鹿者が剛速球を投げないとも限らないので。

滝尾神社入口
滝尾神社入口
運試しの鳥居
運試しの鳥居


 新緑の緑に対抗するかのように紅く映える社殿がみえる。この無人のやしろからは全く想像も出来ないほど、重厚的な「楼門」(国重文)は元禄10年(1697)に移転新築されたもの。「拝殿」(国重文)は正徳3年(1713)に造営されたもの。前方の楼門や後方の本殿に比べるのかなり控えめな造りではあるがそれでも格調の高さはにじみ出ていた。そして普通なら拝殿後方に取り込まれ、普通に接することが出来ない本殿は、この滝尾神社では拝殿とは別の区画で独立していた。「本殿」(国重文)も正徳3年(1713)に造営されたもの。本殿の後方には扉がついており、本殿内部から後方のご神体山である女峰山が拝めるという珍しい造りになっている。
 本殿の後方、御神木の手前にちいさな石造りの橋がある。なんら変わったところがない石橋だけど国の重要文化財。「無念橋」(俗称・願い橋)というこの橋を渡ることで俗世界との縁を絶ちきり身を清めるのが本来の意味であったが、いつのころからか己れの歳の歩数で渡ると女峰山山頂奥宮まで健脚で渡ったことにより願いが叶えられるといわれるようになり、「願い橋」ともいう。この滝尾の地は日光修験道の中心地でもあり、修験者修行が、伝承されたものであろうとされている。
 例の如く普段の私なら一瞥のうえ、大股一歩で渡っているだろう。ところが境内はあいかわらず無人の空間。意識しているわけでもないが、いや意識しなくては渡れない小幅の23歩で渡る。いまの今まで、私は年齡不詳の扱いであったが(サイトのいたるところで老化現象が見られる/笑)、ここで23歳とばれてしまった。いずれにせよ、23歩で橋を渡る。願掛けなどという無用なことはせずとも、古来つちかわれてきた風習を大事にしつつ・・・。
 橋の先には御神木である「三本杉」がある。初代の杉は1699年、1747年、1749年に相次いで倒れ、現在は二代目の杉。倒れた杉の神木はそのままに放置しておくのが習わしで、現に辺り一面に巨木の残骸が転がり朽ち、そして自然と同化していた。三本杉の手前には本殿の後扉があり、三本杉の向こうには大きな女峰山を拝む。

楼門(1697)
楼門(1697)
拝殿(1713)
拝殿(1713)
本殿(1713)
本殿(1713)
無念橋(こんな橋でも重文)
無念橋(こんな橋でも重文)
御神木・三本杉
御神木・三本杉
女峰山から流れてきた水流
女峰山から流れてきた水流


 日光連山の主神・大己貴命(おおなむち命・オオクニヌシ神・男体山の神)妃神・田心姫命(たごりひめ命・女峰山の神)子神・味耜高彦根命(あじすきたかひこね命・太郎山の神)がそれぞれ山々にあらわれている。男体山は補陀洛山・二荒山・黒髮山・国神山とも呼ばれた標高2484メートルの円錐状成層火山。日光連山の中心であり最大の山である男体山は関東屈指の名山。しかし山腹には放射谷が多く「なぎ」と呼ばれる山崩れによる崩壊が続き、風雨によってむしばまれている男体山は将来には山容が変わるのではないかとも言われている。男体山の北東に太郎山(2368メートル)、大真名子山(2375メートル)が連なり、女峰山(2464メートル)がある。女峰山という名前とは相反する荒荒しい山。むしろ男体山の方が遠望するかぎりでは優雅な山裾かもしれない。

 神社脇の川に降りてみる。足元がぬかるむけれども水の魅力にはかなわなかった。手をひたしてみる。女峰山から流れてきた水は、川の水とは思えないほどに冷たく澄んでいた。思わず顔を洗い、口に含んでみる。疲れ切っていた身体がまさに甦るかのような感覚。川の水というものがかくも綺麗なものであるという自然なことを、私はこの歳まで忘れていたようだった。そんな自然なことを女峰山の女神のつくりたもうた水に教えてもらう。川の水が飲めるという、都会人には信じられない事実を。

 参道のような小道をあるく。正確には「史跡探勝路」という。この道を辿っていけば東照宮まで戻れる。いささか歩きにくい道。石畳が私の足に引っかかり転びそうになる。ただ私がいけないだけなのかもしれない。そんなに足早にあるく必要性はない。足早に歩いているから転びそうになるのである。そう思い、ゆっくりとあたりを見渡しながら、自然に身を任せるように歩くことを心がける。どうやら私は歩き方まで自然をはぐくむ女神に教えてもらったようであった。

 巨石がある。巨石の先にはちいさな社―北野神社―がある。昔、滝尾の女神である田心姫神が、この巨石にお手をかけたと伝えられることから「手掛石」と呼ばれているという。学問の神―菅原道真公―をまつる北野神社に詣でたあとでこの石に手を掛けて祈願すると字が上達すると伝承されている。そう言われてしまうと例の如く単純な私はその通りにしてしまう。完全に滝尾の女神を心のうちで具体化させ惚れきっている私(苦笑)としては、岩からもその自然のぬくもりを感じてしまう。もはやどこまで本気で「神」を感じているのかわからなくなってしまう。

滝尾神社へいたる石畳
滝尾神社へいたる石畳
手掛石
手掛石


 しばらく直線の古道を稲荷川に沿って歩いていると、急に開けた場所に出て石畳の道は消滅してしまった。いわゆる「観光都市日光」としての最北東に位置している「開山堂」に出たらしい。ここには日光を開闢した勝道上人の木像が安置されている。この先からは急に俗臭ただよう空間となり、観光自家用車の氾濫する駐車場を抜け、東照宮、輪王寺の裏を経由してやかましい神橋前に戻ってくる。
 日光に来て輪王寺や大猷院をみないのは片手落ちかもしれない。しかし見ようという気が起きない。その気がないなら無駄である。そう考えているし、日帰りで時間もないので、最後に一個所だけ見て戻ることにする。



本宮神社(二荒山神社別宮・ほんぐう神社・日光三社のひとつ・国重文)
御祭神・味耜高彦根命(あじすきたかひこね命・太郎山の神・詳細

 神橋前の交差点に誰も見向きもしない石段が延びている。目の前の道路の騒がしさが嘘のように静まりかえった奧に「本宮神社」が鎮座していた。日光二荒山神社発祥の地であり日光の原点。本宮・新宮(二荒山神社本社)・滝尾とともに日光三社と呼ばれてきた。
 創建は大同3年(806)。貞享元年(1684)の大火で社殿焼失。翌年に再建された。

本宮神社入口
本宮神社入口
拝殿(1685)
拝殿(1685)
本殿(1685)
本殿(1685)


 雰囲気は滝尾神社の社殿を小さくした感じ。境内は輪王寺に圧迫されておりかなり窮屈な雰囲気。これらの日光の神社は「神仏習合」の空気を良く残しており、神社と寺院の間の線引きには大した意味もない。それは東照宮が明治13年に旧観保持のための永久据置がとられたためでもある。多くの神社で明治期に嵐のようにとりおこなわれた廃仏毀釈の波が、この日光では「伝統」として生き残った。私としても、本来なら寺社の区別をすることなくすべてを見物するべきだろう。ただ私の目的は日光と宇都宮にある二荒山神社を参拝すること。けっして日光見物に来たわけではなし、第一日光観光をするなら「中禅寺湖方面」にもいかねばならないだろう。今回は無視した中宮祠等を含めて、遠い将来に残しておくことにする。今後の生涯で何度かは日光に行きたくなくとも行かねばならない時が来るかもしれないので・・・。


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