「神のやしろを想う・日光宇都宮編」
はじめに
前篇/中篇/後篇に分けたのは文章量のためではなく写真量のためです。日光の神社というものは「神社」であり、なおかつ「歴史遺産」「文化遺産」としての側面もあり、一種の「建築美術」「工芸美術」そして「文化財」の側面もある。ゆえに私としては写真を通常作品よりも多く掲載したいために分割することにする。とくに私は「滝尾神社」の女神(笑)に惚れてしまった。ゆえに他に比べて扱いが多寡となったためにバランス上の分割という意味もある。
目次
前篇・日光1
「日光へ」
「日光東照宮」(別格官幣社・国宝・国重文)
「二荒山神社」(国幣中社・ふたらさん神社・式内明神大社論社・下野一の宮・日光三社筆頭・国重文)
中篇・日光2
「滝尾神社」(二荒山神社別宮・日光三社のひとつ・国重文)
「本宮神社」(二荒山神社別宮・日光三社のひとつ・国重文)
後篇・宇都宮
「宇都宮へ」
「蒲生神社」(県社・蒲生君平命)
「二荒山神社」(国幣中社・ふたあらやま神社・式内明神大社論社・下野一の宮)
「日光へ」
あいもかわらず、書きたくないと思いつつも筆を執る。日光東照宮なんぞは、改めて触れなくとも皆が知っている。飽き飽きするほど知っている。誰もが修学旅行等で一度は行ったことがあるだろう。ところが、私は日光に行ったことがない。修学旅行のときに高熱で参加を断念という苦い思い出があるため、日光というだけで苦虫をかみつぶしたようにおもしろくない。おもしろくないけどそこに神社がある。東照宮というゴテゴテした神社らしからぬものであれど一応は神社である。そしてなおかつ関東地方の一の宮で唯一参拝していなかった「二荒山神社」がそこにある。ゆえに私は崇高な使命で気持ちを騙しつつ日光なんぞへ行かねばならなかった。
昔、内田百ケン(百鬼園)先生よろしく『だれでも人の行く所へは行つておかなければいけないとも思ふ。しかし、だから却つて、今更だれが行つてやるものかと云う気もする』(区間阿房列車)と意地を張られて日光に行かれなかったのと同質の気持ちを抱きつつも「関東一の宮」参拝の為には日光に行かねばならない。嫌だ嫌だといいつつも、これを幸いとして、逆説的にある種の念願の地であった「日光」にいくことにする。
もうひとつ、体質的に日光に行きたくない事情があった。季節は4月上旬。関東平野南部でおさまりつつあるスギ花粉が北関東で猛威を振るっている頃。そして私は極度の花粉症患者。日光ときいて連想するのが「日光杉並木」。わざわざ花粉症の源であるスギの群生している場所に行くというのは、もはや阿房の気狂いの世界であり、ますますもって気分は重くなる。ただ、ほかに行くべき場所が見いだせず、どうあっても日光にいくしかなかった。
始発の電車に乗るつもりで地元の駅にいく。今回は近場なので時刻表も持たずに手軽な気分で出かける。東北本線の接続は手慣れたものでいつも通りに乗り込む。ところが京浜東北線が朝から動いていないと車内アナウンスがいっている。いまさら動いていないといわれてもどうしようもない。結局、電車の遅れ10分が、大宮駅では接続上40分の遅れに広がる。
7時36分に宇都宮を発車したJR日光線は逆行するように線路を南下する。車体はクハ107系。適宜に混んでいる電車も駅に着くごとに乗客を吐き出しみるみる少なくなっていく。しばらくすると日光例幣使街道と並ぶように電車は走る。例幣使街道は豪快な杉並木街道。まるで理想的な古社にむかう参道のように鬱蒼としていた。ただ見ていると電車窓で遮られているとはいえ鼻がむずむずしだす。わざわざスギを見に日光に行くのは本当に阿呆かもしれない。ますますもってスギに囲まれる。辺り一面のスギを横目に前方には男体山。女峰山を拝む。東武日光線の線路にまたがれ、例幣使街道を横断すると「今市駅」。電車アナウンスは「東武日光線乗り換えです」という。これは親切なのだろう。わざわざ接続もしていないライバル社である東武電車の案内をするのだから。もっともJRは敗北を認めたともいうけど。
JR日光線は全長40.5キロ。東北本線の支線として明治23年に日本鉄道会社によって敷設。明治4年に東武日光線の開通により、東武との熾烈な路線争いがおこなわれ、国鉄側は上野駅直通の食堂車連結国内最速準急列車や急行を導入するも敗退。現在は全線宇都宮駅での乗り換えを余儀なくされている。
今市をすぎると電車は正確に正面に男体山(二荒山)・女峰山を捉えて突き進み、8時25分に日光に到着。
JR日光駅は、古風な洋風建築。東武と比べるとハイカラさは劣るが私はJR駅のほうが好き。ゆっくりと眺めたいところだが、駅前にバスが止まっている。どうやらこのバスは東照宮に向かうらしいので、おおあわてでバスに乗り込む。東武の街「日光」を走る東武バス。バスは立派なロータリーを備え、国際觀光都市「日光」に相応しい玄関駅「東武日光駅」を経由して、中禅寺湖の奧地に向かう。あいにく私はそんなに奧に行くつもりはない。ただ朝から歩く気になれずバスに乗っただけ。たいした距離ではない(2キロぐらい)が300円を払って下車をする。
この年になるまで日光未体験というのは世間的には自慢できないものがある。だからといって初心の如くうろうろするのは好きではないから脇目もふらずに歩くと「東照宮」らしいところが目につく。しかし「らしい」と思ったのは「輪王寺」。私はこの日光二社一寺の立地関係がわからず混乱気味。おまけに発券所も何ヶ所か有り何パターンか有る。便宜上私が券に名前を付けると「広く浅く券」は東照宮と輪王寺を拝観できるけど、東照宮奧院や輪王寺の一部は入れない。当然寺社ごとの券ではそこにしか入れない。「観光」という名がつくバカバカしさ加減でもう忘れてしまったが、とにかく金がかかる。一時のさわぎがおさまっているとはいえ、とにかく「雰囲気」がいやだった。根本的理由として、このうすら馬鹿げた「観光」空気が嫌ゆえに日光が嫌いだった。
最初から気が変わった。別に日光観光をするわけではない。ただ一の宮「二荒山神社」に用事があるだけである。東照宮は神社ゆえに軽く参拝して、輪王寺はパス。あとは早々に立ち去ろうと思う。ただ救いは修学旅行シーズンではなく、その手のバカ学生がいないことだけ。
「日光東照宮」(別格官幣社・国宝・重文)
旧社格、別格官幣社。主祭神は徳川家康。配祀として源頼朝、豊臣秀吉を祀る。神紋は徳川家の葵紋。
元和2年(1616)4月17日に没した徳川家康の遺骸は久能山に葬られ神廟が営まれたが、遺言(一周忌以後は日光に祀れという遺言)にしたがい二代将軍秀忠は、天海・藤堂高虎・本多正純らに命じて神廟造営を下命。その年の秋から翌年にかけて日光東照宮(江戸の北東守護位置)が建てられ改葬された。その後三代将軍家光の頃、寛永11年(1634)11月から13年4月までの間に大工工事のべ78万人を動員してこの時に現在の形が整えられた。
なお陽明門をくぐるには士分以上、拝殿内は四位以上の大名、幣殿(本殿)にすすんで拝礼できるのは将軍だけであったとされ、厳格な参拝方式が整えられていた。境内には黒田長政奉納石鳥居、鍋島勝茂奉納水盤、酒井忠勝奉納五重塔、伊達政宗奉納青銅灯籠、そして松平正綱父子奉納の杉並木等が特に有名。ちなみに「日光杉並木街道」とは日光東照宮境内を起点として今市で合流する日光街道(国道119号)、例幣使街道(国道325号)、会津西街道(国道121号)等を総括し全長37キロをさしている。この並木は松平正綱が東照宮に寄進し寛永2年から約20年かけて植樹したものであるという。現在、スギの本数は直径30センチ以上のもので15000本。総計25000本以上という。なお、杉並木は東照宮の所有であり国特別史跡・特別天然記念物。
もう書くことはことさらにないが、松尾芭蕉は奥の細道で「あらたふと青葉若葉の日の光」と詠んでいる。また幕末期には徳川軍が2000人が日光山に立てこもったが板垣退助らの努力により戦火はまぬがれた。神橋(平成17年3月まで改修工事中・二荒山神社所有)のちかくにはこれを記念して板垣退助像が鎮座している。
別に改めて書くことは何もない。仕方がないから買ったチケット(1500円)で東照宮に入る。まさか神社に入るのにこんなに資金が必要だとは想定していなかった。入ってすぐの所に噂の「三猿」がいた。まさかこんなすぐの所とは想定していなかった。ただ、その下が団体用の撮影場所となっており、みるからにシラケる空気。私はこの猿のいる建物「神厩」が撮りたい。しかし邪魔だ。そしてもっとも有名である陽明門。これも人の通行が多くゆっくりと写真などをとるいとまがない。とにかく神社に来ているという気は起きず、なにやら博物館のなかをうごめかされているような気がしてしまう。
それにしても苦い。修学旅行を休んだおかげで、友人その他から同情のおみやげとして無意味なキーホルダーや定番の猿や猫を貰った記憶がよみがえり、ますますもって苦虫をかみつぶしたかのようにおもしろくなくなる。
普通の神社でいうところの昇殿参拝をおこなう。ただ私の中では「東照宮」は神社ではなく文化施設という概念でもって接するのが一番とわかった為にそんな意識はない。この場所は撮影禁止。一言で言うなれば豪壮豪華、ただし悪食いの嫌いあり、といったところ。一番奧まったところで、ことさらに頭を下げて参拝する。ふと我に返る。「今、東照大権現、つまり徳川家康に頭をさげているのか」と。神話の神様なら問題ない。実在でもイメージは湧かない人物ならかまわない。そういう意味では靖國の英霊も個々のイメージは湧かないし、南北朝期や戦国期の祭神(武将)等も抽象的である。ただ唯一、徳川家康という一個の人物は鮮烈すぎた。どうしても気に障ってしまった。これが同等の織田信長や豊臣秀吉なら表面化して考えはしないだろう。ただ家康に限っては意識してしまった。たぶんこの異樣な妖気をはなつ建物の毒気に当てられたのだろう。ふと思う。この豪壮豪華でまばゆいばかりに光り輝く建物におさまる家康の魂は何を考えているのか、と。
東照宮のなかに異質な空間がある。本地堂という仏教施設。ここで鳴龍を体感させられる。私が普段見慣れていた坊主よりも俗習をはなつ坊主が、なんやかんやと説明しつつ、線香の漂う空間の中で「かしわ手」を拍つ。なんてことはなく反響し上に書かれた龍が鳴いたようになる。他の場所では反響はせず、その場所だけで反響するという代物。よく出来た工夫ではある。
ことさらに書くのがバカバカしくなった。「参拝文」を書くというかたちを執っている以上、すべての紹介を文章で行いたいとは思っている。しかし、東照宮という歴史的建造物は、もはや神社の枠ではない。「視的美術」の世界である。私の文章では視的美術の「良さ」を補いきれず、その範疇を越えてしまっているため、東照宮にかんする事項は写真でお茶を濁したいと思う。べつに東照宮が嫌いなわけではない。東照宮自体は非常に興味深い文化財であり一日中見ていてもあきないものである。ただ難をいえば見世物とかした環境が気に入らないだけだがそれは個人のわがままの範疇である。
長居をするほどの余裕もなく、そもそも東照宮は余興のたぐいなので、本来の目的地である日光二荒山神社に行こうと思う。
写真に関してひとこと。私の撮る写真。ほとんどヒトが写っていません(笑)。観光客の集中する東照宮でこの快挙はなかなか凄いかと。
黒田長政奉納・石鳥居 |
酒井忠勝奉納・五重塔(1650) |
神厩(神馬の厩舍・東照宮唯一の素木造) |
神厩の猿(猿が馬を護るという信仰に基づく神猿彫刻) |
鍋島勝茂奉納・手水舎(1618) |
伊達政宗公奉納・南蛮鉄燈籠(ポルトガル鉄使用) |
陽明門(日暮門) |
陽明門後部から |
陽明門一部(扁額は後水尾天皇) |
鐘楼 |
東照宮社殿 |
牡丹の下で日の光を浴びて眠る猫 (奥宮の魔除け・眠猫・左甚五郎) |
奥宮拝殿 |
鋳抜門(いぬきもん・1650 )後方に奥宮御宝塔(御墓所・家康の柩塔) |
「二荒山神社」(ふたらさん神社・国幣中社・下野国一の宮・延喜式内明神大社論社・日光三社大権現)
主神・大己貴命(おおなむち命・オオクニヌシ神・男体山の神・詳細)
妃神・田心姫命(たごりひめ命・女峰山の神・詳細)
子神・味耜高彦根命(あじすきたかひこね命・太郎山の神・詳細)
二荒山神社は中禅寺湖ほとりの男体山を御神体として奉祀されてきた神社。本社(新宮=二荒山神社)のほかに中宮祠(中禅寺湖湖畔)、奥宮(男体山2484メートル頂上)、別宮として滝尾神社(後述)、本宮神社(後述)、摂社として若子神社、また女峰山、太郎山、大真名子山、小真名子山、赤薙山、白根山などの日光連山各山頂に境外末社が祀られている。境内地は広大であり神橋は当社所有、日光華厳滝、いろは坂、日光連山等も本来の意味では二荒山神社の社地内であり、日光国立公園の中枢をなしているといえる。
二荒山神社神社は二荒山(男体山)えお主峰とする日光連山に対する古代山岳信仰に起源を有しており、二荒の名も男体山と女峰山の二荒(二現)神をフタアラと呼んだのに由来するという。(ちなみに「二荒」を音読して「日光」の名を生んだとされている)
当社の起源は天平神護2年(766)に勝道上人が二荒山麓に地主神を現在の「本宮神社」の地に祀り、その隣に神宮寺を建立したのに始まるという。勝道は天応2年(782)に男体山頂を登頂し山頂に奥宮を祀り、中禅寺湖畔に中宮祠を祀ると共に中禅寺を建てたという。そののち弘法大師空海が弘仁11年(820)に滝尾の地から女峰山を拝し滝尾権現(滝尾神社)、また寂光権現(若子神社)を創建。現在の本殿である新宮は嘉祥3年(850)に現在の東照宮付近に男体山・女峰山・太郎山の神を祀ったのに始まる。同じ頃に慈覚大師円仁が滝尾の地に三仏堂を建立し、二荒山神社神宮寺として満願寺、中宮祠には中禅寺、滝尾には三仏堂、本宮には四本竜寺が並立していた。
武家の台頭と共に当社は那須氏、宇都宮氏等の地方豪族に崇敬され、なかでも那須与一が屋島合戦の折に扇の的を射るにあたり生国の神「日光権現」等に祈念したことは良く知られている。(当然、日光権現=家康ではないが、日光=家康の図式がまかり通っている世の中では二荒山神社の影が薄い)
治承年間(1177−1181)に日光山の座主をめぐる争いから、周辺豪族(那須・宇都宮・大方・小山各氏)を巻き込む争乱となり、このときに多くの社寺が焼失。承元4年(1210)頃に座主となった弁覚が山内社寺を復興し、その後鎌倉末期に修験道が盛んとなった。
戦国期に日光山の実権を握っていた神領政所職の壬生義雄は天正年間に小田原北条氏に属していたため豊臣秀吉によって日光山の所領没収。著しく衰退した。その後、慶長18年(1614)に徳川家康が信任していた天海が日光山貫主となると、本格的に再興。元和3年(1617)に東照宮が当社地に鎮座することによって東照宮共々幕府の手厚い保護を受け、元和5年(1619)に徳川秀忠によって新宮本社の社殿が造営。寛永13年(1636)に家光が東照宮の大改築を行い、それにともない二荒山所有の「神橋」を架け替えた。引き続いて正保3年(1646)に滝尾神社、貞享2年(1685)に本宮神社、元禄12年(1699)に中宮祠の社殿が幕府の手によって造営された。二荒山神社に属する社殿のほとんどが国重要文化財に指定されている。
ちなみに江戸期は日光神領・大猷院領を合わせて1万3600石(実高は2万5000石)という。
明治元年の神仏分離によって明治4年に二荒山神社・東照宮・輪王寺の二社一寺に分離。一時衰退したが、明治6年に二荒山神社は国幣中社、東照宮は別格官幣社に列せられた。現在は宗教法人二荒山神社として氏子約2万5000人、講社崇敬者3万人、日光市の総氏神として崇敬されている。
日光・二荒山神社楼門 |
日光・二荒山神社神門 |
日光・二荒山神社社殿 |
日光・二荒山神社本殿(1619) 日光で一番古い建造物 |
東照宮のすぐとなりに鎮座している。鳥居をくぐって境内に足を踏み入れるも、こちらは東照宮の騒々しさが嘘のように静まりかえっていた。はたしてここが本当に「あの日光」なのか、と疑いたいぐらいに静かであった。(この静けさを上回る事実がのちに滝尾神社で衝撃となる)
誰もいない社務所で、御由緒書きをいただく。大きな神社では常駐している巫女さんも、呼ばないと出てこない。それだけ人がいなかった。たしかにシーズン前で日光を訪れる人の絶対数がすくないのは事実ではあれど、私としては人にあふれた空間は嫌いなので、このほうが一向に望ましい。
神苑の受付所には巫女さんが常駐して券を確認していた。そこで巫女さんとつまらない話をして(どう言う話の展開からかは忘れたが、この巫女さんがまだ1週間ばかりの新人巫女さんであったということがわかった。さらに私はこの一週間前に二荒山神社で新人巫女さんが修行中というニュースをみた記憶がある。どうしてこの新人巫女さんとこう言う話になったかはいまだに謎/笑)、境内を散策する。格別ひろいという訳ではない。広くはないが、この日光全てが神域だと思えば、これ以上ないぐらいの神社。神階も正一位。ところが、普通に接しやすいし、角張ったところがない。たぶん、東照宮の異質さを目の当たりにしてしまったあとでは、二荒山神社といえども霞んだ存在となっていまうのだろう。
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