「上州の神社を東西に・1」
<平成7年4月参拝>


目次
その1「一之宮貫前神社」「山名八幡宮
その2「上野総社神社」「高山神社」
その3「世良田東照宮」「世良田ノ八坂神社」



貫前と総社と世良田に行こうとしていた。
結果的に私は、東武東上線・武蔵野線・埼京線・高崎線で高崎に。高崎から西に上信電鉄で「貫前神社」。高崎に戻って新前橋から「総社」へ。そして両毛線・東武伊勢崎線で「世良田」「太田」。そのまま東武伊勢崎線で埼玉に戻るというグルグル走る一日。

過去に上信電鉄には2回訪れている。6年ほど前に「上信電鉄に乗るため」に訪れ、そして3年ほど前に「貫前神社」に詣でるため、であった。
唐突に「貫前」に行きたくなる私。まだ本格的になるまえの神社訪問はやり直ししたいところ多数。そんなわけで「貫前」の御朱印を頂くために上信電鉄の土地に赴く。

8時14分に高崎駅を出発した電車は上州一ノ宮駅に8時57分到着。そこから10分ほど歩くのだ。
上信電鉄「上州一ノ宮」駅から600メートルほど歩けば正面に到達。そこから石段参道を昇ること200メートル。高台の上に誇らしげにそびえる大鳥居がある。
この大鳥居からみる秩父連山が好きだ。



「一之宮貫前神社」(式内名神大社・国幣中社・国重文・ぬきさき神社)
<群馬県富岡市一ノ宮鎮座・朱印

御祭神
経津主神(ふつぬしのかみ)・・・天孫降臨に活躍した神。武神、建国の祖神
姫大神(ひめのおおかみ)・・・上野国地方の神で養蚕機織の守護神とされている神

祭神は抜鉾(ぬきさき)大神とも称される。

創建は安閑天皇元年(531)3月15日と伝えられている。(一説に天武天皇の頃678年とも)
もともとは貫前神(女神)と抜鉾神(男神)の二社二神体制であったが、いつのころからか一社とされ、明治以降は「貫前神社」と称されてきた。

天武天皇白鳳2年に最初の奉弊があり、醍醐天皇の延喜の制には延喜式内名神大社に列せられ、上野国一之宮となった。元寇の際には異国降伏の祈祷を命じられ、関東祈祷寺でもあった。武田信玄・勝頼父子、小田原北条氏、徳川家ら武家の信仰が篤かった。

明治4年に国幣中社に列せられたが、終戦により社格制度が廃止され、その時に「一之宮貫前神社」と称すようになった。

現在の社殿は徳川家光公の命による寛永12年の造営といわれ、本殿、拝殿、楼門、回廊が国指定重要文化財にされている。また境内に樹齢約1200年という杉の御神木があり、平将門討伐の折に藤原太郎秀郷が植えたと伝えられている。境内には他にも神仏習合時代の三重塔跡礎石や神宮寺跡、経堂跡の痕跡(すべて破却)も残されている。

貫前神社
正面大鳥居
貫前神社
大鳥居から秩父連山をのぞむ
貫前神社
貫前神社総門

当社は石段を登って、
そして総門からは石段降りると社殿という立地条件。
貫前神社
総門の先は降りる石段。珍しい社地様式
貫前神社
楼門側から総門をみあげる
貫前神社
楼門<国重文>
貫前神社
拝殿<国重文>
貫前神社
社殿
貫前神社
本殿<国重文>後方に御神木・藤太杉
貫前神社
本殿
貫前神社
不明門と勅額鳥居
貫前神社
社殿遠望
貫前神社
仮殿跡地と末社
貫前神社
御神木・藤太杉<藤原秀郷手植えという>

ひさしぶりの貫前神社は3年ぶりらしい。
私は貫前神社がかなり好き。以前から、再訪したくてウズウズしていたのだ。
ちょうど乗り合わせた上信電鉄から貫前を目指す人が私以外にも1人いた。地方の神社で目的が同じ人種もなにやら珍しい。どうやらその人は「一ノ宮めぐり」らしく「一之宮朱印帳」を持参していた。この大きな朱印帳がなにやらうらやましくもある。
朱印を頂戴したら、花粉症の身であるが、境内を巡る。ぐるぐると巡る。意外と不思議なもので「神社で花粉症」はつらくないのだ。たとえ杉木多数であっても。

彩色の美しさと、時代の風化。その重みを感じる社殿にみとれる。石段の下、石段の上。社地レイアウトを楽しむ。まったく飽きの来ない神社。この気配が好きなのだ。


もっとも私も先を急ぐ。そのわりには時間を満喫し一時間ほど貫前神社に滞在。
このあとは上信電鉄の接続を考え10時4分に乗り込み「上州一ノ宮駅」から「南蛇井駅」に赴く。このあたりが鉄道趣味の行動。一度、南蛇井駅に行きたかったのだ。高崎方面の電車もどうせ折り返しで同じなのだから乗っただけでもある。

そして南蛇井駅から高崎に向かい、途中の「山名駅」で下車。行く時に神社があるのが気になったので途中下車。
山名駅到着は11時5分。上州一ノ宮から南蛇井を経由して1時間ほどなのだから、効率はよい。経由しなくても同じ便なので、そこをどう考えるか。



「山名八幡宮」
<群馬県高崎市山名町鎮座>

祭神:
玉依比売命・品陀和気命・息長足姫命・大ヒルメ命

通称八幡山の中腹に鎮座。宇佐八幡を勧請したとされ文治年間(1185−1190)に山名三郎義範の創建とされる。
平安期に当地に新田一族の山名氏が成立しており、新田義重の三男であった山名城主の山名義範が社殿を造営。山名義範は鎌倉幕府成立のさいに活躍し時流に乗り損ねた新田本家(父が新田義重)を凌ぐ勢力を築く。
その後、約150年後に新田本家の新田義貞が鎌倉幕府を滅亡させるが、足利尊氏が幕府を設立。新田氏は再び没落。
約300年後に山名氏の山名宗全が応仁の乱(1467−78)で足利室町幕府崩壊のきっかけとなる。旗頭となった山名宗全に代表される山名氏は、上州山名を出自としている。
その約120年後に新田義重氏の流れをくみ、山名氏と同族の上州世良田出自の徳川氏の徳川家康によって江戸幕府創立。
神社由緒とは関係ないが、新田氏、そして山名氏、徳川氏。歴史を動かす息吹がある。

現存の社殿は18世紀中期の明和年間(1764−1771)とされる。彫刻は群馬を代表する彫物師の関口文治郎によるもの。平成3年に修復工事。
彫刻の神獣に6種の動物「鳳凰」「龍」「莫」「唐獅子」「蜃」「象鼻」が彫られている珍しい彫刻である。

山名八幡宮
山名八幡宮正面
山名八幡宮
参道が上信電鉄の線路をくぐる。おもしろい参道でもある
山名八幡宮
神門
山名八幡宮
神門内側で電車を待ってました。みごとに決まった一枚。
鉄道写真と神社写真の融合は両者を趣味とする私の本望。
山名八幡宮
参道
山名八幡宮
拝殿 拝殿の彫刻も見応え有り
山名八幡宮
本殿
山名八幡宮
本殿。賑やかなる彫刻


由緒も由来もしらないけれども、なにか心惹かれたのが「線路のすぐ近く」だったから。このあたりの心持ちも「鉄道写真」的に面白いのが撮れそうだ、という発想が働いている。
神社の由緒を拝見して、かなり驚く。あの山名氏の発祥地だったということに。そもそも山名氏が新田系統であることすら認識していなかつた。歴史好きの私もまだまだ探究が足りない。上信電鉄からたまたま降りた上州山名というマイナーな土地で、山名一族を垣間見るのだから面白い。神社探訪と歴史探訪の重なる面白さがやめられないのだ。

山名八幡。彫刻が賑やかだった。整然と連なる神獣にみとれつつ、上信電鉄の電車を待ちつつ、神社と電車をからめた写真を模索していれば時間はいくらあっても足りない。このまま「鉄道趣味」に移行しても良いのだが、上州の神社で行きたいところがある。
方向は違うが、無理をしてでもそちらに向かう。


参考文献
境内案内看板・由緒書
角川日本地名大辞典・群馬県
神社辞典 東京堂出版




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