「吉備中山探訪記」
<平成16年7月参拝>
その1.吉備津神社(備中一の宮)
その2.吉備中山
その3.吉備津彦神社(備前一の宮)
2時30分。吉備津彦神社の脇に到達するも、そのまま脇から参拝するのも気分的にも面白くないので参道正面まで一度回る。正面から社地を望むと後方に神奈備の姿を誇る「吉備中山」が、その美しい山並みを現していた。ことさらに「あそこの山頂を登っていたのか」と自分に呆れつつ。
「吉備津彦神社」(備前一の宮・国幣小社)
<岡山県岡山市一宮鎮座・朱印>
主祭神:大吉備津彦命
相殿:孝霊・孝元・開化・崇神の四天皇
天足彦国押入命・吉備武彦
由緒
大化の改新後に吉備国が備中・備前・備後の三国に分割され、吉備国総鎮守の神として祀られていた大吉備津彦命を、備前国の鎮護神として祀ったことに始まる。
吉備中山の山裾に鎮座する当社は、社殿を中心に神池には鶴島・亀島を配した蓬莱庭園が広がっており、社殿前には東洋一と呼ばれる八畳ほどの笠石をのせた安政の大石燈籠(安政六年1859完成・高さ11メートル)がある。
中世期に日蓮宗への改宗を迫る金川城主の松田左近将監によって社殿が焼失。江戸期には岡山藩主池田氏の崇敬があつく、元禄10年(1697)に池田綱政によって社殿が建立されている。
昭和3年(1928)には国幣小社列格。
昭和5年に不慮の火災にて本殿・随神門を除いて焼失。現在の社殿は昭和11年の再建。
吉備津彦神社正面 |
吉備津彦神社随神門 |
吉備津彦の大燈籠 |
正面 |
拝殿 |
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本殿 |
神木 |
神池 |
古代祭祀を物語る磐座 |
神池と神奈備型の吉備中山 |
改めて正面から足を運ぶ。左右に広がる巨大石灯籠を眺めつつ、拝殿に頭を垂れる。吉備中山を詣でた私は、ことさらに丁寧に丹念に、いわば疲れ切った爽快感に包まれつつに拝す。御朱印と御朱印帳とご由緒書きを頂き、一連の吉備詣でも終幕へと近づいていた。
神池が広がる社頭。亀島・鶴島と目出度く別れており、亀島の後方には祭祀遺跡ともいうべき環状石が残されている。里の地と、山頂。ふたつの聖なる区画を最後に脳裏に焼き付けつつ、綿々と受け継がれてきた「神社祭祀」の一形態の物語を垣間見た充実に心は満ちていた。
ローカルたる吉備線をローカルな吉備一宮駅で乗り込み、あとは岡山駅に赴く。さしての大きさを感じない駅本屋でのんびりとしつつ、休息する。
そうか、と改めて思い出さなくても岡山は内田百阨S鬼園先生の郷里である。文筆活動の中心が東京であっても、そこは郷里。作中にしばしば岡山が物語られる。もともと私の紀行文癖には「阿房列車」があるわけで、そんな百鬼園先生からいわれせば私の旅行は邪道の極みである。「なんにも用事はないけれども・・・」という精神で旅立たれた先生とは違い、私は用事のオンパレード。そんなこんなで、岡山入りにあたり飛行機などは邪道だ、という百鬼園先生の意志が働いたのかもしれない。
ゆえに私は行きは新幹線で地上を走り、帰りにやっとこそ飛行機に乗り込むのだ。
内田百關謳カを思い起こしつつ、「本場物の大手まんじゅう」を買い込んで、岡山空港へとむかう連絡バスに乗り込む。
なにやら空港に着いたら、さきほどの青空がウソのように曇り始めて、あれれあれれと雷を伴う大雨に見舞われる。
18時50分。
吉備中山登山中に雨に降られたら洒落にならないな、と安堵心を抱きながら雷神に感謝しつつ、私は岡山空港をあとにする。
飛び立つ頃には、これまたウソのように晴れ渡った空を望みつつ、瀬戸内の街々を眼下に望むフライトが待っていた。
ひとときの雨が私を見送るかのような、そんな岡山だった。吉備中山。慌ただしい一日であったけれども、間違いなく充実の一日。感無量に浸りながら、脳裏の想い出に浸る。また来る時を楽しみにしつつ。
参考文献
境内案内看板
「吉備津神社」岡山文庫・昭和48年・藤井駿著
「吉備津神社」由緒書
角川日本地名大辞典・岡山県
吉備中山関連サイト
「独断と偏見の吉備路物語」http://homepage2.nifty.com/mike1203taiyo/
<こちらのサイト情報にお世話になりました>