「吉備中山探訪記」
<平成16年7月参拝>

その1.吉備津神社(備中一の宮)

その2.吉備中山

その3.吉備津彦神社(備前一の宮)


冗談みたいな幕開けであった。二ヶ月前の「バーゲンフェア割引」で確保していた「羽田−岡山」の往復航空券。しかし二ヶ月は長すぎた。二ヶ月後の7月は職場に嵐が吹いていた。「吉備津の神」のイタズラかはしらないが、旅行予定日の前日になぜだか「スタッフ徹夜で改装作業」などがおこなわれていた。まったく予期せぬ事態。そして前日来の残業につぐ残業で私の疲労はピークに達していた。前日は終電まで作業をし、家路につく。帰宅したのが旅行日当日の午前1時。そして家を出る予定が4時30分。

やはりうつらうつらしていたらしい。下手に寝ると危ないな、と直感していた私はパソコンを起動させて出発の時間まで、適当に遊んでいようと思っていた。それなのになぜか布団の上で目が覚めたのが6時30分。なぜ?なぜ自分は布団にいるのでしょうか。事態を把握できない数秒間。とりあえず呆然としつつ思考する。無理だ。もう間に合わない。この時間で羽田に赴いても飛行機の出発時間にはとうてい間に合わない。7時25分に羽田空港を飛び立つ予定はこの瞬間に崩壊した。一瞬のうちにすべての計画が白紙となり、その事実を目の当たりにして瞬時に頭を回転させる。目の前で起動させたままのパソコンですぐさま時刻表検索をする。今から家を出ればどうなるか、という検索。予想通りに羽田には間に合わない。しかし新幹線なら、いまから家を出ればどうやら12時には岡山吉備津に到着できそうだ。飛行機での岡山吉備津入りの予定は9時40分であったから2時間30分の時間的ロスと15850円の金銭的ロスをすることになる。それぐらいなら、航空券を全く無駄にするよりから全くマシだろう。4時間30分は滞在できるならば「吉備津神社」「吉備津彦神社」と「吉備中山」に赴く時間は確保できる。

瞬時の決断。そのぐらいなら「吉備路」は無理であれど「吉備の中山」はいけそうだ、と。
そう決断すれば行動あるのみ。荷物をまとめて、一目散に家を飛び出す。吉備に行きたい行きたいとかねてより思い願っていた私の吉備路行きはとんでもない幕開けであった。そうであってもキャンセルはしたくなかった。航空券を不意にして何も得るものがないのなら、新幹線代を出費しても「吉備」に赴いたという事実を得た方が良いに決まっているから。

8時13分。東京駅から「のぞみ7号」が出発する。この車両で名古屋0956、京都1034、新大阪1049、新神戸1104、姫路1121。そして岡山は1142の到着予定。速いようでもまだまだ時間がかかる気配。それでも京都まで2時間15分で到達できるのは速いといえるのだろう。なんせ夜行快速で一晩かけて赴くのが京都なのだから。
いずれにせよ、私の選択肢は間違っていたか、あっていたかはわからない。無茶苦茶すぎる行動力は空回りの気配を醸し出しつつ、一路「岡山」へと突き進んでいた。

岡山駅で乗りかえ、吉備線へ。車窓をながめて驚愕する。「備前一宮駅」目の前に吉備津彦神社があるのはなんら問題ないが、その後方に堂々とそびえ立つ霊峰が「吉備中山」であることは間違いない。間近に見聞する「吉備中山」は予想以上に高々と私を迎えてくれた。この山を登ることを覚悟し、隣駅たる「吉備津駅」に列車は入線する。到着時間は12時9分。

駅から松参道を歩む。松参道をあゆみながら、吉備中山を左斜めに眺める。まっすぐに歩むと北参道に到達する。神社配置的には北参道からまっすぐに本殿まで連なっている。つまり神社社殿は北面しており、その東側に吉備中山の山並みがある。一方の備前吉備津彦神社は中山を後方に捉えているのに対して意味深な配置でもある。
ちなみに「吉備の中山」は頂点が「二峰」ある。見方によっては二山並立にもみえるし、一山にもみえるのが興味深い。中山に関しては登頂時にあらためて触れようかと思う。


「吉備津神社」(備中一の宮・官幣中社)
<岡山県岡山市吉備津鎮座・朱印

主祭神:
大吉備津彦大神

相殿配祀神:
千千速比売命・倭迹迹日百襲姫命・彦寝間命・若日子建吉備津日子命・御友別命・仲彦命・他

由緒
主祭神の大吉備津彦大神は孝霊天皇の第三皇子。書記によると崇神天皇十年に四道将軍に任じられ、武埴安彦命の乱を平定し、異母弟である若日子武吉備津日子命とともに吉備国の豪族「温羅(ウラ)」(吉備の鬼とよばれた=桃太郎の鬼退治の原点とも)を征討した。
当社は大吉備津彦命を主神とし、その異母弟の若日子建吉備津日子命と、その子吉備武彦命等、一族の神々を合わせ祀っている。子孫は代々が吉備国国造となり吉備臣と称して勢力を拡げていった。

吉備津神社の正確な造営時期は不詳。吉備津彦命から五代の孫である加夜臣奈留美命という人物が吉備津彦命が吉備中山麓に建てた「茅葺宮」の跡地に社殿を営み祖神として吉備津彦命を吉備国(備中・備前・備後・美作)総鎮守として祀ったことに始まる。

平安期の延喜式では名神大社列格。また「一品吉備津大明神」として神階の高さを誇っており平安期から朝廷から崇敬されてきた名社である。明治社格でははじめ明治四年に国幣中社、大正三年に官幣中社に昇格。

現在の本殿拝殿は後光厳天皇の勅命によって足利義満が造営した「吉備津造り」と呼ばれる社殿。国宝に指定。応永三十二年(1425)に二十五年の歳月をかけて造営された。神社建築屈指の巨大建築であり傑作とされる。
また、延文二年(1357)に再建された南随神門、天文十一年(1543)の造営といわれる北随神門は国重要文化財指定。

吉備津彦神社
吉備津神社正面参道
吉備津彦神社
松参道
吉備津彦神社
吉備の中山は「双子山」。最高峰175メートル。
右手が「御陵」。左手が「竜王山」と「奥宮元宮磐座」。
その姿から頼山陽は「鯉山」と名付けた。
吉備津彦神社
吉備津神社北参道入口

吉備津彦神社
矢置岩<矢立の神事がとりおこなわれる>
鬼神「温羅」と矢を射あった吉備津彦大神が
その矢をおいたとされる岩。
吉備津彦神社
北随神門<国重文>
天文十一年(1543)の造営
吉備津彦神社
拝殿手前の総拝殿
吉備津彦神社
拝殿<国宝>応永三十二年(1425)の造営
吉備津彦神社
本殿<国宝>
応永三十二年(1425)の造営
吉備津彦神社
本殿<国宝>
応永三十二年(1425)の造営
吉備津彦神社
本殿拝殿<国宝>
応永三十二年(1425)の造営
吉備津彦神社
拝殿<国宝>
応永三十二年(1425)の造営
吉備津彦神社
御神木いちょう
吉備津彦神社
天正6年(1578)に再建された約360Mの回廊
吉備津彦神社
本殿・南随神門と回廊
吉備津彦神社
神池の宇賀神社
吉備津彦神社
釜鳴神事が行われる「お竃殿」<国重文>
慶長17年(1612)再建
吉備津彦神社
左手に社殿をのぞむ西入口。
吉備津彦神社
摂社「岩山宮」にいたる参道
アジサイの囲まれる道すがら
吉備津彦神社
岩山宮祭神は建日方別(たけひかたわけ)
吉備国の地主神
古事記記載の国生み六島(吉備児島)の神
吉備津彦神社
回廊の終着点は「本宮社」
本宮社
祭神:孝霊天皇
吉備津彦大神在世中の茅葺宮宮殿の地ともいう




吉備津彦神社
本宮社本殿。
明治期に摂社の新宮社と内宮社を本宮社に合祀している。
新宮社(元は南に800Mの地)
祭神:吉備武彦命
内宮社(元は吉備中山南部山頂)
祭神:百田弓矢比売命(吉備津大神の后)

上記三宮と岩山宮・正宮の五宮を
「吉備津五所大明神」と呼称。
吉備津彦神社
旧社務所門
吉備津彦神社
滝祭神社。吉備国最古の水神


北参道から北随神門(重文)を仰ぎ、さらに登ると拝殿をむかえる。拝殿の右手は回廊となり左手は広場となっている。心を落ち着けて吉備津に拝す。なにやら左手の広場の方ではTVカメラのリハーサルのような事をしている。一生懸命に吉備津彦命や桃太郎や鬼退治の説話を話しているのが耳に残る。
左手の広場に足を運んで改めて驚く。「吉備津造り」と呼ばれる独特の社殿は存じていた。私はこの社殿が後方からの気配にみえて仕方がなかった。自らの目で確認し、今更ながらに本殿の「雄大な横姿」を拝む。
神社建築としては極めて巨大な建築物は国宝に指定されており、見るものを魅了する。豪快さのなかにも、纖細な木々のとりあわせを感じられ、みるものをあきさせない。
念願の吉備津神社を拝むことができた私は、充分に満足し、いよいよ回廊に足をむける。

実のところ本殿も気になっていたが、こちらも独特な回廊に興味がひかれていた。いよいよの回廊。直感的に「ドツボ」にはまる。瞬間的に心がとらわれてしまった。「うわぁ、楽しすぎるぞ。この気配」。神龍がうねるかのように回廊は長々と延びていた。高低差をなだらかに延びていた。南随身門(重文)から眼下をながめ、そのあまりにも愉快さにおどる心をおさえきれなかった。
そのまま進むと回廊が分岐する。右手が「御竃殿」。昇殿できるようなのでのぞき見ると、竃が焚かれていた。神事以外には火を投入していないだろうな、という先入観も単純に打ち破かれる。いたるところの気配が私の心をとらえて離さなかった。

回廊に戻る。地主神をまつる摂社「岩山宮」を拝し、「本宮社」を拝す。回廊の端から端まで堪能して、境内をでる。名残惜しいが、次に進まねばならなかった。この先に待ち受けているものが、どうなるかはわからないが。


参考文献
境内案内看板
「吉備津神社」岡山文庫・昭和48年・藤井駿著
「吉備津神社」由緒書
角川日本地名大辞典・岡山県



前に戻る


「その2.吉備中山」編へ