「若狭湾岸の古社詣で・その1 敦賀(1)」
<平成17年7月参拝・7月記載>
目次
その1・敦賀(1) 「気比神宮」「金崎宮」
その2・敦賀(2) 「天満神社」「晴明神社」「八幡神社」「松原神社」
その3・小浜 「鵜之瀬・白石神社」「若狭彦神社」「若狭姫神社」「小浜府中ノ総神社」
その4・舞鶴 「弥加宜神社(大森神社)」「朝代神社」「笑原神社」
その5・天橋立 「天橋立神社」「籠神社」「真名井神社」
その6・丹後岩滝 「板列八幡神社」「板列稲荷神社」
7月の連休。しばらく遠出をしていなかった私は、そろそろ旅の虫がうずき始めていた。
梅雨時ではある。梅雨時ではあるが、それでも出かけたいという欲求が上回ったようで、気がつけば京都に赴くことになった。
京都といっても、丹波国「園部」の知人にお世話になるわけで、京都市内とは関係ない。山陰本線園部駅に赴くにはいかなる手段が一番効率が良いだろう。
私の結論。
東京都区内発東京都区内着。
経由。東北・高崎・上越・信越・北陸・小浜・舞鶴・山陰・東海道
そんなわけで「片道切符」を片手に旅路に出る私は
上野駅発23時33分の「夜行急行・能登号」にのりこむ。いささかストイックではあるが、東京から北陸路を経由して、まずはめざす目的地が「敦賀」であるのが、なにやらおかしくもある。
寝ている間に長岡でスイッチバックとなり、目が覚めればイスは逆向きとなっている能登号。旧国鉄ボンネット特急車両を使用した急行列車はいささか古さを感じるが、私は快適感よりもレア度に喜ぶ。
上野発の急行「能登号」 |
明け方の5時過ぎ。まだ5時過ぎであれど乗り換えをする。能登号でこのまま終着の金沢に赴いても良いのだが、それでは敦賀到着時間が9時を過ぎてしまう。金沢で接続している特急しらさぎ2号に乗りかえると能登号に先行して、なおかつ一気に敦賀まで赴くことができる。到着時間も7時47分過ぎと、大幅な時間節約もできる。それゆえの乗りかえ。
もっとも、金沢あたりで途中下車しても良いのだが、北陸路は行かねばならない場所が多いので、あえて通過して前回の「北陸路詣で」で詣でることが出来なかった敦賀を第一目的地とする。
しかし困った。能登号が遅れている。ギリギリの接続で、能登号の金沢到着が5時47分。そして「しらさぎ2号」の発車が5時48分。一分接続で朝からドキドキもの。
「気比神宮」(氣比神宮・延喜式内名神大社・官幣大社・越前一の宮・北陸道総鎮守)
<福井県敦賀市曙町鎮座・朱印>
主祭神
伊奢沙別命(イザサワケ命・気比大神・御食津神)
<本宮>
伊奢沙別命・仲哀天皇・神功皇后
四社殿
<東殿宮>日本武尊
<総社宮>応神天皇
<平殿宮>玉妃命
<西殿宮>武内宿禰命
由緒
創建年代は不詳。祭神たる気比大神は古くからこの地に鎮座する神。天筒山に神霊蹟があり、境内「土公」の地に降臨したとされている。
仲哀天皇の時に神功皇后が三韓出兵の成功を気比大神に祈ったとされ、武内宿禰が皇子誉田別命以下の群臣を従えて参拝したともされている古社。
気比大神は古くから御食津神(食物を司る神)として海人族に信仰されてきた神とされる。
文武天皇大宝二年(702)に勅によって社殿を修営。仲哀天皇・神功皇后を合祀。日本武尊をはじめとする四柱神を別殿(四社の宮)に奉斎。
地頭天皇期以来、神領の増封が行われ奈良期から平安期に能登沿岸地域までを御厨として領有。渤海使の来着を請け負う神領「気比の松原」には渤海使定宿として「松原客館」が建設。
延元元年(1336)気比神宮大宮司氏治ら気比一族は後醍醐天皇皇子尊良皇子らを奉じ金ヶ崎城を築城。足利勢を相手に奮戦するも尊良皇子・新田義顕らとともに気比氏治も討ち死に。<詳細は金崎宮で記載>
社領が著しく減ぜられたが、なお24万石を所有していたとされる。
元亀元年(1570)気比神宮大宮司憲直ら気比一族は越前国主朝倉義景の為に挙兵。織田信長の越前北伐を迎え撃ち、朝倉勢は金ヶ崎城、気比勢は天筒山城に立てこもり大激戦の末に敗北。気比神宮社坊は灰燼に帰し、社僧離散、社領没収、祭祀廃絶するまでに到った。
慶長19年(1614)に越前福井藩祖の結城秀康(徳川家康次男)によって社殿造営。社家復興となった。なお結城秀康建立の旧本殿は国宝に指定されていたが、昭和20年に戦災焼失。現在の本殿は昭和25年再建、拝殿は昭和37年再建。
平安期には延喜式内名神大社であり「気比神社七座並名神大社」。明治4年国幣中社列格。明治28年官幣大社昇格、神宮号が宣下されて気比神宮となる。
境内の延喜式内社。
大神下前神社・角鹿神社・天利劔神社・天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社
「角鹿神社」(ツヌガ神社)
摂社。式内社。
祭神は都怒我阿羅斯等命(ツヌガアラシトノ命)
崇神天皇の頃に任那の皇子であったツヌガアラシト命等が気比の浦に上陸して貢物を奉じる。崇神天皇は気比神宮の司祭と共に敦賀の政治をまかせ、その政庁跡地にツヌガアラシト命を祀ったことにはじまるという。
敦賀の地名はもとは「角鹿(ツヌガ)」と呼称されており、地名発祥の神社でもある。
なお祭神を角鹿国造祖である建功狭日命とする説もある。
「大神下前神社」
末社。式内社。
祭神は大己貴命。もともとは気比大神神蹟の地たる天筒山山麓に鎮座。明治期に現在地に遷座。
国指定重要文化財
<気比神宮大鳥居(旧国宝)>
正保2(1645)年に気比神宮の旧神領地佐渡領から献上されたムロの大木を初代小浜藩主酒井忠勝が再建。高さ10.9Mで柱間7.45M。木造鳥居としては厳島・春日として日本三大鳥居に数えられる。鳥居扁額は有栖川宮威仁親王。
大鳥居(重文)。左後方の山が「神蹟・天筒山」 |
正面参道 |
国重文・大鳥居。 |
境内。気比氏治が後醍醐天皇を奉じた「旗掲の松」 |
拝殿 |
気比神宮本殿と旧殿地「土公」 そして神蹟「天筒山」は一直線上に鎮座している |
拝殿 |
拝殿。後方に天筒山 |
本殿 |
手前三社は式内社 順に天伊弉奈彦神社・天伊弉奈姫神社・天利劔神社 |
気比神宮古殿地「土公」 |
気比神宮古殿地「土公」(敦賀北小学校地) |
式内社・末社 大神下前神社 |
式内社・摂社 角鹿神社 |
敦賀7時47分。予定通りに到着。駅からバスにのって「気比神宮前」。駅から北に1.5キロであるので歩いても問題はないのだが、バスがあるならバスにのったほうが良いだろう。そんなわけでさっそく気比神宮の神域に足を踏み入れる。
天気はどんよりと曇り空。いつ雨が降ってもおかしくなかった。
後方の神蹟とされる天筒山を拝みながら、整理された境内を歩む。摂末社も大事にされていて、式内社とわかるように摂社も整えられているのに好感を抱く。
境内には人の気配も皆無。さすがに朝も早い部類に入るのであろう。掃除中の神職さんに「朱印って、もう大丈夫ですか」と尋ねるも「8時30分頃に他の神職が出勤して準備いたしますので、お待ち下さい」とのこと。
それならばで、気比神宮と境内社等を散策しつつ、そのまま金崎宮へと赴くことにする。金崎宮の帰路に気比神宮はまた通るのだから。
「金崎宮」(官幣中社・かねがさき宮)
<福井県敦賀市金ヶ崎町鎮座・朱印>
祭神
尊良親王(たかなが親王・後醍醐天皇皇子)
恒良親王(つねなが親王・後醍醐天皇皇子)
延元元年(1336)5月に九州で再挙兵した足利尊氏が湊川で楠正成を打ち破って京都に攻め寄ると、後醍醐天皇は比叡山に難を逃れられた。同年10月に後醍醐帝は尊氏と和睦し京都に還幸された。その際に天皇は密かに新田義貞に命じて尊良親王・恒良親王を奉じて北陸鎮撫のために下向された。
越前に赴く新田勢を待ち受ける足利勢に、さらに難所の木ノ芽峠。北国の吹雪の中で、ようやくに敦賀に到着した尊良親王や新田義貞らは気比神宮の大宮司気比弥三郎大夫氏治に手厚く迎えられて金ヶ崎城に入城。
しかし足利方の高師泰は6万余の大軍でもって陸海から総攻撃。金ヶ崎城に籠城しつつ奮戦する新田勢、そして瓜生保勢らのも援軍も空しく、ついには糧食も尽きてあえなく落城。
尊良親王、越後守新田義顕(義貞長男)、気比神宮宮司の気比氏治は自刃。
恒良親王は気比氏治の子息である斎晴が奉じて脱出。斎晴は脱出後に城に戻って自刃。恒良親王はその後に捕らわれて京都で幽閉。恒良親王は延元3年(1338年)4月13日に毒殺されてしまう。
金ヶ崎城落城時に脱出した新田義貞・脇屋義助(義貞の弟)は越前に潜伏し機会を窺うも延元3年7月に新田義貞が藤島で戦死。ここにおいて越前の南朝勢は潰滅となってしまう。
明治の世になり、敦賀の人々は尊良親王を祭神とする神社を請願。
明治23年9月に金ヶ崎城趾に金崎宮として官幣中社に列格され神社創建。同年25年に恒良親王を合祀。
当時は現在地よりも高台奧に鎮座していたが明治36年に町内の出火により社殿焼失。明治39年に現在地に遷宮再建。
境内社
摂社・絹掛神社(尊良親王・新田勢と共に金ヶ崎城で闘った将士を祀る)
祭神:藤原行房・新田義顕・気比氏治・気比斎晴・瓜生保・瓜生義鑑・里見時成・里見義氏・由良具滋・長浜顕寛・武田与一、以下受難将士
末社・朝倉神社
祭神:朝倉景冬・景豊・教景(宗滴)・景紀・景悦・景恒・道景
由緒:戦国期に朝倉義景は織田信長との対立し際して金ヶ崎城・天筒城を整備。元亀元年(1570)に信長勢が金ヶ崎・天筒を攻略し城将朝倉景恒を降伏させた。当社は朝倉氏が城を構えた文明3年(1471)から落城までの累代の敦賀城主郡代朝倉氏を祀る神社。
金ヶ崎遠望。JR貨物・敦賀港駅付近 |
入口。右手は金前寺 |
参道 |
舞殿 |
拝殿中門 |
社殿 |
絹掛神社 |
朝倉神社 |
金崎宮裏手の高台に「尊良親王御陵見込地」がある。 御陵は京都左京区にあり、当地が自刃の地とされる |
旧金崎宮社地が「尊良親王自刃の地」の脇にある |
気比神宮の東参道から北上する。右手に手筒山を望む。北に500メートルすすむと天満神社があり、社号標には郷社と記載されている。道すがらもあるので、ちらりと立ち寄る。ただし掲載は次ページで。
その天満神社からさらに500メートルほどすすむと「敦賀港駅」の線路をまたぐ。ここは貨物専用の駅。そのまま松尾芭蕉ゆかりの金前寺から西手の山道を登ればようやくに金崎宮。要害の地でもあり、金ヶ崎城趾の中腹に金崎宮は鎮座している。
午前9時前。
気比神宮からの距離は約1.5キロ。参道をすすめばやっぱりまだ朝は早いのか掃除と境内準備中。私が来たことによって拝殿の門扉を開けるような、慌てさせた気配となる。そのまま朱印を頂戴して、金ヶ崎城の悲劇とともに南北朝期に思いをよせれば、祭神が自刃した場所とされる地まで足を運びたくもなっってくる。
金崎宮から来た道をもどれば、改めて気比神宮に到達。さらに改めて朱印を頂戴する。なにやらいよいよ雨も降り出す。降ったり止んだりで、非常に半端な天候は私の気分屋的な行動すらも表している。
さて、敦賀の大目的ははたした気分。この先をどうしよう。地図をみればいくつかの神社が徒歩圏内にある。折角だから辿っていこうかと思う。
参考文献
案内看板、由緒書き等。
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名大辞典・18 福井県