「京都寺町夕暮参拝記」
<平成16年9月参拝>
「京都大神宮」「火除天満宮」
この日は京都日帰りだった。日中は「丹波園部亀山」の神社を詣で、夕方5時過ぎに「寺町通り」にいた。もともとの用事は近くのライブハウス「都雅都雅」での岩男潤子ライブに参加する用事だった、から。
それまでの時間、近くの神社を散策してみる。
「京都大神宮」
<下京区寺町通鎮座>
祭神:天照皇大神、豊受大神、他八柱の大神
明治6年7月に伊勢神宮より内宮、外宮を奉迎。社殿は元一条家の書院を移築した。当初神風講社として発展。戦後、京都大神宮としてあらたな発展をする。
<京都府神道青年会サイトより引用>
寺町に着いて、ライブまでの時間を潰す。もはや5時をすぎており夕暮れ時。京都大神宮も社務所はすでに閉じていたので、参拝以外にすることはない。
それにしても寺町通りは人と自転車と車の往来が激しい。なにやら「京都の下町に来た」感じがする。
「火除天満宮」
<下京区寺町通鎮座>
祭神:菅原道真公
由緒
天正7(1579)、一人の老神官が九州筑紫国(福岡県)大宰府から菅原道真公の尊像を背負い入洛し、菅原公を祀ったことにはじまるという。
天正10年(1582)「に本能寺の変にて織田信長信忠父子が死し、天正15年に信長父子を弔うための「大雲院」が開創されると、その鎮守社として鎮座。
秀吉の京都町割によって大雲院が寺町に移ると当社も遷座。
幕末期。元治元年(1864)の蛤御門の変によって京都が火の手に包まれるが、不思議なことに大雲院から南の地域は類焼を免れた。大雲院を本陣としていた砂土原藩の消火活動や風向き等の環境以上に、当社の「火除」が益々の神威として崇敬されたという。
<公式サイト参照>
火除天満宮。 ビルにつぶされそうな立地条件。 ちなみに入口の左側に ライブハウス「都雅都雅」がある |
火除天満宮。それは予想外の鎮座状態であった。ビルにつぶされるかのように入口があり、ビルの脇が参道となり、そしてその奧に社が鎮座していた。
参拝をして、まだ時間があるが、迷いたくないのでライブ会場を探す。
地図ではこの近く(火除天満宮)にあるはずなのに見つけられない。かなり焦る私は何度か往復してみるも一向に見つけられない。
もう一度、火除天満に来てみれば、そこにあった。
なんと火除天満の入口の隣の扉がライブ会場「都雅都雅」だった。かなりびっくりで我ながら気が付かなかったことをあきれる。
もっとも神社紀行にとっては余事ではあるが。ちなみにライブレポはこちら