「東近江紀行 その4・建部編」
<平成15年7月参拝・平成15年8月記>

その1・彦根編:「大垣へ」「多賀大社」「滋賀縣護國神社」「彦根城趾」
その2・安土編:「安土」「沙沙貴神社」「活津彦根神社」「安土城趾」「石部神社」
その3「老蘇編:「老蘇」「奥石神社」「鎌若宮神社」
その4・建部編:「建部」「建部大社」「瀬田橋竜王宮秀郷社


「建部」

安土に後ろ髪をひかれるような思いは多々あるけれども、近江国にいるのだから、近江国の一の宮にいかなくては、神社参拝紀行の名が廃る。
一の宮が辺鄙極まりないところにあるのなら話は別ではあるが、幸いにして近江国一の宮たる建部大社はアクセスしやすい場所に鎮座している。ただ、最寄り駅から歩くことはいつもどおりに歩かざるを得ないのだが。

安土駅から東海道線で石山駅まで赴く。時間は2時30分過ぎ。石山駅は狭い空間。京阪線が狭い路地をさらに複雑に駆け抜けていた。もっとも私としてはそんな光景が楽しくてしかたがないのだが。1キロほど歩き「瀬田の唐橋」を渡り、500メートルほど行くと正面に建部大社の入口をみる。


「建部大社」(近江国一の宮・式内名神大社・官幣大社)

<滋賀県大津市神領鎮座・朱印

祭神
本殿:日本武尊・相殿:天照皇大神
権殿:大己貴命

由緒
延喜式内社。近江国一の宮。
日本武尊が東夷を平定後に伊勢能褒野にて崩御。景行天皇は尊の死をいたく悲しみ、御名代として建部を定め功名を伝えたことが建部の起源。
景行天皇46年に御妃であった近江安国造の娘の布多遅比売命が御子である稲依別王と共に住まわれた神崎群建部(現在の八日市市)の御名代の地に日本武尊の神霊を奉斎されたのが当社の起源という。
天武天皇白鳳4年に近江国府の所在地であった瀬田に遷座し、近江国一の宮とした。
朝廷の崇敬篤くたびたび神領増加。
永歴元年(1160)、平家に捕らわれた源頼朝が伊豆に流される際に、当社にたちより前途を祈願。源氏再興後の建久元年(1190)に上洛の際に、祈願成就に対して幾多の神宝と神領を寄進している。

明治18年に官幣中社、明治32年7月に官幣大社列格。屈指の古社ではあるが、古建築は現存していない。平安期の女神像と鎌倉期の石灯籠を所有する。(ともに国重文)

<参考>神社由緒・神社辞典・角川地名辞典

建部大社
建部大社入口
建部大社
参道
建部大社
参道
建部大社
神門
建部大社
拝殿
建部大社
拜殿前の神木
建部大社
本殿(左)及び権殿(右)
建部大社
社殿風景
建部大社
石灯籠(文永7・1270)国重文

あいもかわらず誰もいない境内。官幣大社にして一の宮クラスであり、さらには市街地に鎮座していても、誰もいない時がある。ただ、その感覚を建部大社で味わうことになるのが意外であった。神門の脇に社務所がある。いつもどおりに朱印を頂き、参拝をする。拝殿の後には社殿がふたつ。本殿と権殿があるという構成。関東ではなかなかこのタイプがないために、私にとってはある意味新鮮であった。
玉砂利が足に響く心地よさ。木々の配置、木々の枝振りまでもが見事に整っている。それほどに見応えのある景観であった。

瀬田唐橋のたもとに小さな神社があった。神社よりも雲住寺(藤原秀郷の子孫が建立という)という寺院のほうが大きい様だが。ただ伝説の舞台ゆえに気になってしまっただけ。


「瀬田橋龍王宮秀郷社」(橋守神社)
<滋賀県大津市瀬田鎮座>

祭神:大神霊竜王・藤原秀郷公

由緒:
勢多之唐橋・龍宮
瀬田の唐橋には龍神が御座るといわれており、橋をやしろとしていたという。室町期の1440年頃に、現在地に橋を架け替え、龍神を権殿に遷座。その後、龍宮の権殿が本宮となったという。

俵藤太と称された藤原秀郷は山城宇治田原の人。鎮守府将軍として勢多橋を渡るときに橋上に大蛇が横たわっていた。秀郷は恐れることなく跨ぎ通ると、呼び止める者があった。青衣を着た女人が「我は瀬田橋水底に棲む龍神である。大蛇の姿になり橋の上に横臥せり、未だ御仁ほどの剛勇の人を見ず。年来、我に仇するムカデあり。願わくば我が為に討て」と。秀郷は橋に戻り承諾する。
日没後、東方より巨大な両眼を光らせ百足山(三上山)を7巻半する大ムカデが迫り来る。秀郷は矢を二矢放つも効果はなかった。ムカデは人のツバキを嫌うといわれており、三矢目のヤジリに唾液をつけて、大ムカデの左目を射抜き、みごとにこれを倒された。龍神は大いに喜び、秀郷に宝物を授け竜王の乙姫と結ばれたというのがいわゆる「瀬田の百足退治」伝説。
伝説の真意は朱雀天皇のころに(935)勃発した平将門の乱に際して、将門が関東の軍勢、それこそムカデの足ほどに多い軍勢をひきつれていた状況に対して、俵藤太秀郷が勅命によってこれを討伐。将門の左目を射抜いて征討。これ京都の要所(東国からの入口)たる瀬田橋の龍神の御加護によるものである、ということに由来という。

<参考>神社由緒

瀬田の唐橋 瀬田川と瀬田の唐橋風景
瀬田橋竜王宮秀郷社
橋守神社境内風景
瀬田橋竜王宮秀郷社
社殿

私はやはり西国の伝承に弱い。俵藤太は東国にて幾多の伝承を残しているものの、瀬田での伝承はすっかり忘れていた。ムカデ退治自体はさすがに私も知っているが、それが瀬田唐橋とまったく直結していなかった。瀬田の橋をわたっているときにはじめて気が付き、そして橋守神社とよばれているちいさなやしろがあることを発見し、偶然たちよったというわけ。
境内は、狭い。となりの雲住寺がメインのようだった。その寺院もムカデ退治に関係があるといえば関係がある。龍神とムカデ、そして伝説がこうして「神社」という形態をもってここに伝承されている。そんな存在をかいまみるだけで歴史興味的に愉快であった。

石山駅に戻ったのが3時40分ごろ。時間的にはそろそろ微妙な感覚。この先の選択肢に迷う。さすがに近江神宮や日枝大社にむかうほどの時間的ゆとりはなさそうだった。
そうなると帰り道コースを辿る。ただなぜだか帰りが飛行機なために東ではなく西に向かう。瀬田から京都へと向かう。
ただ京都に滞在する時間があるかが謎ではあるが、いずれにせよ近江国から出国。一日で早駆けするのはやはり気分的には落ち着かないもので、今度はよっくりと琵琶湖を堪能したいと思いつつ、山城へ向かう。

後日談ながら、このあとは、なんとなく「大山崎」にむかった。疲れていたので駅から近そうな神社を考えていたら「山崎」というのを地図で思い出したから。

参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
日本地名大辞典 25 滋賀県 角川書店


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