「濃尾三訪拝記・その4」
<平成16年3月参拝>
その1.美濃:南宮/伊奈波
その2.尾張:尾張大国霊/津島
その3.三河:知立神社/岡崎・伊賀八幡宮/岡崎・六所神社
その4.三河:砥鹿神社/菟足神社
15時過ぎに東岡崎駅をあとにした私は、もう時間との戦いをするしかなかった。
16時過ぎに豊橋駅に到達。16時13分に豊橋を発車する飯田線。しかし、これに飛び乗るべきかどうかを迷う。私はこれから東京に帰る身。そろそろ帰路につかないと「鈍行」では危ない時間帯でもある。
しかし、ここまできたからには「三河一宮」には行きたい。
行きたいゆえに、帰りは新幹線でもいいや、的な気分になって「飯田線」に飛び乗る。
16時30分。「三河一宮」駅に到達。到達と同時に駆け出す私がいた。
「砥鹿神社」(国幣小社・式内社・三河一の宮)
<愛知県宝飯郡一宮町鎮座・朱印>
主祭神:大己貴命
由緒
延喜式内社。三河国一の宮。創建年代は不詳ながらもとは本宮山山頂(789メートル)に鎮座。大宝年間(701−04)に文武天皇が神託によって勅願し現在地に遷座したという。本宮山山頂には現在は奥宮が鎮座している。
文武天皇のころにはすでに本宮山の山岳信仰と豊川の川神信仰、そして修験道や神仏習合(鳳来寺の影響強し)の影響が強かったとされる。
三河国一の宮として古くから崇敬をあつめ、正一位砥鹿大明神とされる。国司、そして武家の崇敬が篤く、江戸期には徳川家、そして吉田藩代々の崇敬が特に篤かった。
明治四年、国幣小社に列格。
参道 |
参道 |
神門 |
神門から |
左:砥鹿神社拝殿 |
三河一の宮。砥鹿神社。もはや息絶え絶え。16時40分まえに到着。境内を堪能する余裕よりも、なによりも最初に朱印を頂く。これさえ頂いておけば、あとはゆっくりとできるだろう。ただし、帰りに飯田線までだが。
境内は広い。馬場もあり、ちょうど馬が駆けていた。祭礼の練習であろうことはどことなく察しがつく。夕方ということもありどことなく寂しい境内。
夕日に照らされる社殿の前にたつ。今日一日を思い返して、自分は何をして居るんだろう、と我に返る。この努力はなんらかの意味を持ってくれるのだろうかと。
静かな静かな、三河の一の宮だった。
あいかわらず小走りに駅まで戻る。ここでまた次の行動を迷う。
17時7分「三河一宮」駅を出発すると「小坂井」駅に17時19分に到着する。ここで奮起した私は電車を飛び降り、菟足神社を目指す。
「菟足神社」 (県社・式内社)
<愛知県宝飯郡小坂井町鎮座>
主祭神:菟上足尼命(うのうえたりにのみこと・うなかみのくすねのみこと・初代穂国造)
由緒
古くは八幡社・菟足神社とも称された。
白雉元年(650)孝徳天皇の勅によって平井の柏木の浜に創建。のち天智天皇三年(664)に当地に遷座とされる。また白鳳15年(686)創建ともいう。
一説にはじめは応神天皇を祀り、のちに菟上足尼命を相殿に祀り菟足八幡宮と称したともいう。
祭神の菟上足尼命は第八代孝元天皇の末である葛城襲津彦命の四世の孫であり、第二一代雄略天皇の時に穂国(三河豊川付近)国造となって善政を施したとされる。
当社の祭礼として四月にとりおこなわれる「風まつり」は「宇治拾遺」や「今昔」に記載されるほどに有名。特に手筒花火は三河名物とされる。また当社には徐福伝説が伝えられているのが興味深い。
菟足神社 |
菟足神社 |
菟足神社 |
菟足神社の紋はウサギですね |
17時25分。菟足神社。もう閉める時間だった。私がいる間に拝殿の扉が閉じられていった。ますます孤独を感じる瞬間。
時間的な無理を承知で乗り込んだ飯田線という象徴が、すべてをもの悲しく演出してくれた。神社の気配は、やはりその時々で移りかわるものだなと、実感しながら。
私はここにきたという事実を感じながら、あとはもうゆっくりとする。どうせ飯田線は17時54分まで来ないのだから。
余事ながら。
豊橋を18時14分に出発した私は鈍行を乗り継いで静岡に20時02分に到着。このまま鈍行だと東京到着が23時26分と家路に着くには不安があったために、静岡で新幹線に乗り換え。
「青春18きっぷ」を持ちながら、鈍行を断念するという悪い癖を憶えてしまった。
一日にあまり欲張ると精神的疲労が大きい。いつもいつもわかっているのだが最後の方の神社が「ぼ−ぜん」としてしまう。すこしは余裕を持とうと、いつもいつもに反省はするのだが。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版