「近鉄南大阪沿線途中下車詣で・2」
<平成7年3月参拝・5月記載>
目次
その1・土師 「黒田神社」「志貴県主神社」「国府八幡神社」「土師ノ里八幡神社」「道明寺天満宮」
その2・古市 「誉田八幡宮」「白鳥神社」「杜本神社」「飛鳥戸神社」「錦織神社」
近鉄の道明寺から南下して一駅。ターミナル駅たる「古市駅」で下車。古市駅から約500メートル北上すれば八幡様に到着。
道明寺天満宮を13時に出発して電車に乗り込んで歩いて20分後の13時20分に次の神社に到達できるのだから効率が良かった。
「誉田八幡宮」(府社・こんだ八幡・式外社)
<大阪府羽曳野市誉田鎮座・朱印>
祭神
応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
配祀
住吉大神
社地は応神天皇陵のすぐ南側にある。応神天皇ゆかりの地に欽明天皇の勅命によって建立。欽明天皇が任那の再興を願って応神天皇陵後円部頂上に神廟を設けたことにはじまる。奈良中期に行基によって陵の南部に長野山護国寺が創建。
永承六年(1051)後冷泉天皇の行幸があり、現在地に新社殿を建立遷座。応神天皇陵での祭祀が神社に発展したものともされている。
文久(1861−64)の御陵改築までは後円部の後方より堀を渡って頂上部で参拝ができたという。
中世期には織田信長の河内侵攻で社殿焼失。豊臣秀頼が社殿の再建を決意し、片桐且元を奉行として建造したが、完成直前に豊臣氏が滅亡。江戸幕府が再建を引き継いだ。
明治社格では明治5年に府社列格。護国寺は廃寺となっている。
明治40年に近隣の神社を合祀。その中には式内社「当宗(まさむね)神社」も含まれている。
本殿は三間社千鳥破風造で桃山期の造営。拝殿は割拝殿形式で桃山期の造営。
境内社の「当宗神社」は延喜式の式内大社・三座(月次・新嘗)。祭神は不詳であるが渡来氏族の当宗忌寸(まさむねのいみき)一族の祖山陽公を祀ると推定。
正面 |
神門(護国寺の遺構・南大門) |
拝殿 |
拝殿は割拝殿形式。 |
拝殿 |
本殿社殿 |
放生橋(鎌倉末期) 橋の向こうは「応神天皇陵」 |
式内社・当宗神社 |
13時20分。
応神天皇陵をひかえる地。さっきまでの雪混じりの曇り空がウソのように晴れ渡り、すがすがしい気持ちで境内に足を踏み入れる。八幡信仰の原点たる応神天皇陵のお膝元。この地に祀られる八幡様は、その佇まいも特別なものがあった。
昔の私はあまり八幡様をすきではなかったが、最近になってようやくに見方が変わった。八幡様はどこにでもある。ただ、その顔つきは違うのだ、というあたりまえのことに気づかされる。ましてや応神天皇陵の八幡様ともなれば、その心持ちもありがたさに満ちてくる。
社殿は東を向いている。社殿の北側には応神天皇陵があり、その間に「放生橋」がかかる。9月の祭礼のときに応神天皇陵まで神輿がわたるというが、その時以外は「渡らず橋」でもある。
応神天皇がかもし出すイメージ、武人的な猛々しさがなく、神社はやわらかい気配に包まれていた。あまり見ることの少ない割拝殿をのんびりと眺めて、そろそろ来た道を戻る。
古市駅まで戻る。この駅の裏手には「白鳥神社」が鎮座している。まさしく裏手で、すぐそこといった感じ。
「白鳥神社」(村社・しらとり神社・伊岐宮・式外社)
<大阪府羽曳野市古市鎮座>
祭神:日本武尊・素戔嗚尊
当社の創建年代は不詳。西に1.3キロ離れた「伊岐宮」伝日本武尊陵(軽里古墳)の上に鎮座し日本武尊を祀っていた。
寛永年間(1624−43)末期に軽里古墳にあった「伊岐宮」を古市村の産土神として現在地に遷座。
鎮座地の丘は、もともと古墳後円部であり、近鉄南大阪線(東寺は河陽鉄道)が敷設された時に前方部が破壊されたという。
明治社格では村社。
白鳥神社 晴れ間だったのが、いつの間にか雪混じり。 |
13時55分
なぜだか、先ほどの天気がウソのように雪が舞い始める。どうやら私はもてあそばれているようだ。日本武尊ゆかりの白鳥陵。その白鳥陵候補が羽曳野市にある。古市駅から南西約300メートルの地に。
もっとも古墳は下から見てもあまり愉快ではないので、私は古墳よりも神社に赴く。古墳上にあるとのことで、たしかにこんもりと丘になっている。丘の上には東面した社殿。本殿のすぐ後が「近鉄」なのだ。
しばらく雪が闇のを待って、もっとも駅は近いのだから慌てることなくのんびりする。
「杜本神社」(式内名神大社論社・村社・もりもと神社)
(大阪府羽曳野市駒ヶ谷鎮座)
祭神
経津主命・経津主姫命
創建年代は不詳。周辺には駒ヶ谷古墳群がある。
延喜式神明帳記載の安宿郡名神大社(二座・月次・新嘗)
経津主命を祖とする伊波別命一族が代々の祭祀を司ってきたとされる。
中世期には織田信長の高屋城攻めに際して社殿焼失。江戸期に大阪の高津神社社殿を移築して再興。
杜本神社 |
杜本神社 |
杜本神社参道 |
杜本神社拝殿 |
杜本神社社殿 |
藤原長手の墓や、楠正成首塚が境内にはある。 |
近鉄古市駅から目的駅の川西とは違う路線に乗り込む。まだ時間があったから。
南大阪線に乗り込んで、古市の次の駅たる「駒ヶ谷駅」で下車。なんか駅急に寂しくなった気配がする。駅から250メートルほど東に歩く。こんもりとした丘が目につくと、そこに杜本神社が鎮座している。
ちょうど、子どもたちが境内の山の中で走り回っているらしく、そんな景観も「郷土の鎮守様」的にほほえましくて好印象。写真を撮る時には、彼らは写真の邪魔にならないように避けてくれるのも有り難い。なかなか都会の神社ではこうもいかないのだ。
境内には楠正成の首塚などもあり、なるほど河内の神社だな、と改めて実感。
さらに隣の駅「上ノ太子駅」に赴く。あとは時間との戦いでもあった。
「飛鳥戸神社」(あすかべ神社・式内名神大社・村社・飛鳥大神・牛頭天王の宮)
(大阪府鎮座)
祭神:百済コンキ王(コンは「王昆」一文字、キは「伎」)
素戔嗚尊
延喜式では河内国安宿(あすかべ)郡所属の名神大社(月次・新嘗)。もともと当地は古墳時代に「飛鳥戸」と称されていた地。
雄略天皇のころに渡来したとされる百済系氏族飛鳥戸造一族の祖神を祀る。
創建年代は不詳。近隣より祭祀土器が発掘されており、また百済宿禰・御春朝臣らの働きによって貞観元年(859)に無位から正四位下を授けられ翌年に官社となっていることから、平安初期には創建していたとされる。
中世期には付近が戦火に巻き込まれ衰退。江戸期には小祠として存在していたが、明治期に村社列格し、現在地に改めて再建されたという。
明治四〇年に壺井八幡に合祀されるも、昭和27年に旧地に復して現在に至る。
飛鳥戸神社 ちいさな神社であれど、歴史の息吹を感じさせる佇まい |
近鉄上ノ太子駅。この先は奈良県。気配はますます寂しくなってくる。近鉄も二上山へと向かってしまう。そしてこの駒ヶ谷−上ノ太子は「竹内街道」。古の気配を濃厚にしつつ、歴史ロマンに溢れて来るも、残念ながら私は「片手間の用事」。本腰をいれてこの地に来たわけではないのだ。
用事の時間までのつなぎ。神社を求めてやってきた。駅前から約300メートルを北上すればそこに「飛鳥戸神社」という小さな神社が鎮座している。いまは小さいけれども、かつては名神大社。そんな存在が好きだ。
鎮座地は高台であり、集落を見おろす斜面でもある。参道の入口は北を向いていて、社殿は西を向いている。
上ノ太子で歴史の息吹を感じながら駅で電車をまっていれば、また雪のようなものがちらついてくる。際限ない希望。このあたりの歴史と戯れようとするとそれこそ際限がない。箱根関の向こう側の人間としては、時々の機会でつまみ食いしながら表面の歴史舞台を眺めるぐらいが関の山。
そうこう考えながら、古市駅に戻り、乗り換えて南下。私は「川西駅」に用事があるのだ。
「錦織神社」(式外社・郷社・にしきおり・にしごり・国重要文化財)
(大阪府富田林市宮甲田町鎮座)
祭神:品陀別命(ほんだわけ命・応神天皇)
素戔嗚尊・菅原道真公
創建年代は不詳。本殿敷地内から平安中期の瓦が出土していることから、平安中期以前の創建であるとされる。
当地は「錦部郡」と称し難波から大和朝廷に通ずる水路交通の要衝でもあり百済からの帰化氏族が栄えた土地でもある。
錦部郡の最北端に位置し、水路のあつまる当地は錦部の名がいつしか「水郡(みずごり)」と変化し、「水郡宮」と称されるようになったという。
また、錦部一ノ宮「河内三水分」として「上の水分」と称された。
ちなみに美具久留御魂神社が下水分、建水分神社が上ノ上水分と呼称。
明治五年に郷社列格。明治四〇年に神饌幣帛料供進神社に指定された際に「水郡宮」から旧称の「錦織神社」に復した。
現在の社殿は南北朝期の正平18年(1363)に室町幕府二代将軍足利義詮が三善貞行に命じて建立した本殿。「錦織造」ともいわれる独特の建築は単層入母屋造、正面千鳥破風、向拝三間軒唐破風、檜皮葺。
昭和八年に旧国宝に指定。戦後は本殿・摂社春日社・摂社天神社とともに国指定重要文化財に指定。
錦織神社参道 |
割拝殿式 奧に本殿社殿 |
本殿・両脇の摂社ともに国重文 |
社殿 |
錦織神社 旧国宝、現在は国指定重要文化財。 |
「川西駅」の西200メートルのところに参道入口がある。そこから北上すること200メートル。長めの参道を歩くと、そこに豪華絢爛たる神社が鎮座している。旧国宝にして重要文化財の社殿。
余事ながらに私はたまたま川西に用事があった。たまたま近くに神社をみつけて、調べたらそれが「重文」の神社であった。
こういう、偶々の巡り合わせ、に感謝したい。
偶々の巡り合わせはなかなかの皮肉屋のようで、晴れ間も覗くが、雪も降る。どうも今日はそういう一日らしい。いい加減に、天気のイタズラにはなれたようではあるが。
実はとある人のライブが川西近くのホールであった。私はそこに参加するためにわざわざ関東から遠征。ライブに向かうファンは、必然的に神社の前を通る。私がしばらく神社で佇んでいると、約二名ほど、神社に足を運んだ「ライブに向かうファン」がいた。
うれしいようだが、なにやら複雑。多くの人間がいれば、私と同じような性癖をもったヤツもいるのだろう。
とにもかくにも。厭きは来ないが、時間が心配。そろそろ開場に向かいたい気分の時間は夕方の四時。なにげにこの日はライブのあとは夜行で東京に帰るというハードなスケジュールだったのだ。
それでいてこの日は11社の神社を巡って、歩いて、なのだから私の行動力にも呆れる。
それでも、本日最後の神社に、非常に優雅で美しく気品溢れる神社建築に接することが出来たことを感謝する。
最近は偶然と無計画と、その場気分で神社に赴いているので、なかなかバランス感覚が難しかったりもするのだ・・・。
参考文献
境内案内看板・由緒書
角川日本地名大辞典・大阪府
神社辞典 東京堂出版
日本の神々 神社と聖地3 谷川健一
他