「京都の神社風景 白峯・健勲編」
<平成15年4月参拝・平成15年12月記>


白峯神宮」/「健勲神社

「堀河今出川」バス停を降りて、白峯神宮に到着したのが11時25分。境内正面入口が通りに面しておりなんとなく窮屈な印象。ここは予備知識なして来てしまったので、由緒もわからないままの参拝。まずは由緒を熟読する。


「白峯神宮」 (官幣大社)
<京都府京都市上京区今出川堀川東入ル鎮座・朱印

祭神:
崇徳天皇
淳仁天皇

由緒
崇徳天皇は後鳥羽天皇の皇子。保安4年(1123)に第七五代天皇として即位。保元の乱にて讃岐国に配流され、長寛2年(1164)に45歳にて讃岐国で御崩御。
淳仁天皇は日本書紀を編集した舍人親王の王子。孝謙女帝の皇太子となり、天平宝宇2年(758)に第47代天皇として即位。藤原仲麻呂(のちの恵美押勝)に政治をまかせ仁政をひくが、弓削道鏡の讒言謀略による恵美押勝の反乱によって御廃位とされ淡路島に御配流。天平神護元年(765)に同島にて御崩御。

幕末の孝明天皇は、崇徳帝の神霊を京都に迎えて慰め奉らんと、慶応2年(1866)に社殿造営をはじめるが、未完成のうちに御崩御。あとを継いだ明治天皇が継承なされ明治元年(1868)に神殿竣工。白峯宮と名付け、讃岐坂出の白峯山陵から崇徳帝の御神霊を還幸された。
明治三年に同じように悲運にあわれた淳仁天皇の霊も京都に奉遷するべきとの意見があり、明治六年一二月に淡路山陵から淳仁帝の御神霊が還幸され、当社に合祀された。
なお明治六年六月に官幣中社に列格している。昭和15年に白峯神宮と神宮号が宣下され、同時に官幣大社に昇格。

当地は飛鳥井家の旧宅跡地でもある。飛鳥井家は蹴鞠・和歌の家元宗家であり、ゆえに飛鳥井地主神であった精大明神にちなんで当社は球技全般(サッカー)の神様としても崇敬されている。

白峯神宮
正面
白峯神宮
境内
白峯神宮
社殿
白峯神宮
本殿
白峯神宮
地主社
飛鳥井家の地主神をまつる。
飛鳥井家は蹴鞠の家元であったため
当社は球技全般の神様として崇敬されている
白峯神宮
小賀玉の木(同木としては市内最大)

このあたりは西陣という。すぐちかくには西陣会館もある。もっともそんなことは今知ったわけであり参拝時には何にもしらなかったわけではあるが。こうやって、少しずつでも京都の地理と立地状況を把握しておかないと、とてもじゃないが、私が京都のどこにいるのかがわからなくなる。

静かな境内。訪れる人も希な境内。なにやら当社はサッカーの神様として崇敬されているらしい。社務所にはそれらしい奉納が多数。
鳥居・神門・舞殿・拝殿・本殿が一列に並ぶ境内は直線距離としては窮屈さを感じるも、横幅にゆとりがあるため、息苦しくはない。明治創建の神社であれど150年ちかい時を刻めば、神社としての風格も落ち着いてくる。それこそ平安の天皇様を奉っているのだから、漂う重みも違う。
社務所で朱印を頂戴するのも恒例となりつつある。一緒に御由緒書きも頂いて、あらためて神社に接し境内を散策。

11時45分。さて、つぎの神社をきめよう。計画もなく、こうやって地図とバス路線図をみながら次をきめるのもなかなか味があって良いと思う。かなりいいかげんな性格も見え隠れするが。
地図をみると、大徳寺金閣寺方面に行くバスが途中「建勲神社」をとおる。とりあえず、行く場所はそこに決めた。単純明快で、逆に言うと有名神社ならどこでも良いという気配も漂いはじめていたが。


「建勲神社」(別格官幣社・けんくん神社・たけいさお神社)
<京都市北区北船岡町鎮座・朱印

祭神:織田信長公
配祀:織田信忠公

由緒
応仁の乱以後、混乱し疲弊し続けていた京都。天下に号令する志でもって近隣に武威を轟かせていた尾張の風雲児織田信長公は上洛後に、すぐさま京都の復興再興に着手。
しかし織田信長公は天正10年(1582)、明智光秀によって無惨にも本能寺に死す。
羽柴秀吉は凶報に接するや、すぐさま明智をうちはたし、主君の無念を晴らす。京都紫野大徳寺で盛大な法要を営み、信長公の霊を船岡山に慰めるべく正親町天皇より「天正寺」寺号を授かるも、寺の竣工は中途におわり秀吉も薨去。以後、船岡山は信長公霊地として保護。
明治維新にいたり、明治二年。明治天皇は信長公の偉勲に対して、「建織田社」号を創建すべき旨を宣下。明治3年1月、織田氏末裔である織田信敏は江戸邸宅内と藩領であった天童にそれぞれ社殿を造営。明治3年10月に「建勲社」と改称すべし旨が通達。明治8年に別格官幣社として船岡山を社地とし神社新造。明治13年に信忠公を配祀。明治43年に本殿を中腹から山上の現在地に遷座し、現在に至る。

船岡山は標高45メートルの小山。豊臣秀吉が信長公霊地に定めて以来、自然がよく残されている。船岡山は京都に都が定められると風水思想・陰陽五行思想に基いて「玄武の小山」とされ、船岡山の真南が太極殿・朱雀大路とされた。ゆえに建勲神社境内には船岡妙見社として玄武神をまつる社がある。
応仁の乱の頃に、船岡山は西軍の陣地がおかれたために、周辺は「西陣」と呼ばれる様になったという。

建勲神社
建勲神社入り口。
建勲神社
建勲神社旧社地
建勲神社
建勲神社拝殿
建勲神社
建勲神社本殿
建勲神社
社地風景
建勲神社
船岡妙見社・船岡山の地主神

織田信長公をまつる神社。船岡山という京都の要所をしめる地に信長公の御霊はねむる。天下に臨んだ英雄。天下を見つめた英雄。いまはただ静かに京都の繁栄を護っていた。
静かな山のなかに埋もれる。しずかな神社。登山から下山まで私は神職さん以外の人には出会わなかった。通りの大徳寺は大いに賑わっていたが、ここに信長公が鎮まることすら忘れられているのかもしれない。
この神社に接し、あらためて信長公を見直す。この風雲児がいなかったら日本は、近世の歩みを遅らせていただろう。最大級の敬意を表す。静かで小さな船岡山で。

気が付いたら12時30分。私の京都滞在時間も刻刻と制限が近づいてきた。さて改めて「つぎはどうしよう」。
一箇所、行きたいところを思い出す。唐突に。
吉田神社。
行きたくなったのだから、近所かどうかは関係ない。バス路線図で方向を定めて一気に「京大正門前」を目指す。


参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名辞典・京都府


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