「京都の神社風景 八坂・護國編」
<平成15年4月参拝・平成15年11月記>


八坂神社」/「京都霊山護國神社

下鴨神社をあとにして「出町柳駅に到着。ここからバスに乗ると「八坂神社」にいけるようなので、難しいことは考えずに八坂神社に向かうことにする。


「八坂神社」 (官幣大社)
<京都府京都市東山区祇園町北側鎮座・朱印

祭神:素戔嗚尊・稲田比売命・八柱御子神

由緒
古くは祇園感神院・祇園天神・祇園社・祇園牛頭天王・祇園大明神・祇園と称されてきた。
現在の祭神はスサノヲ神だが、もともとは祇園天神・牛頭天王が祀られていた。
創祀は貞観18年(876)に僧円如が神託によって播磨国広峰(吉備真備が唐土からもちかえって祀った)の牛頭天王を山城国愛宕郡八坂郷に遷し、その後、元慶年中(877−84)に藤原基経が精舍を建て、、さらに承平4年(934)に修行僧が観慶寺感神院を建てたとも、延長4年(926)に修行僧が祇園天神堂を建てたともいう。
社伝では斉明天皇2年(656)に新羅国の牛頭山の神霊を迎え祀り、天智天皇6年(667)に社殿が建立されたという。

平安中期頃から信仰をあつめており、延喜式では式外社でありながらも長徳元年(995)には「二十二社」に列格している。分霊社は3000社を数える。
平安京において風水思想に基く東山の青龍を司るのが八坂神社であり、本殿下には龍穴として清らかな水流が潤わされているという。

京都を彩る風物詩のひつとである「祇園祭」(京都、そして日本三大祭りのひとつ)が祭礼として有名。貞観11年(869)に「祇園御霊会」として疫病退散を祈願し祇園牛頭天王の祟りから厄災除去を祈ったことに始まる。

慶応4年(1868)に社名を祇園社から八坂神社に改称。明治4年(1871)に官幣中社列格。大正4年(1915)に官幣大社列格。
社殿は承応2年(1653)から三年をかけて再建されたものであり、楼門(明応6年)・本殿(承応3・祇園造)・末社蛭子社社殿(正保3)・石鳥居(正保3)・木造狛犬が国重文指定。

八坂神社
楼門(明応6・国重文)
八坂神社
徳川家綱が紫宸殿を模して再建したという
祇園造の社殿(承応3・国重文)
八坂神社
舞殿
八坂神社
南楼門
八坂神社
現存する最大規模の石鳥居(正保3・国重文)
八坂神社
末社蛭子社社殿(正保3・国重文)

さすがに祇園だった。賀茂とは比較にならないぐらいに賑わっていた。さすがに八坂神社。こうも賑わっていると写真をとるのすら大変な苦労をともなう。境内をゆっくりと散策しつつ、昇殿参拝・本殿見学の受付をしていたから、せっかくなので本殿参拝をしておく。
なにやら祭のように賑わっている。これが年中的な情況なのだろうか。屋台が大量にあるが、またそれも祇園さんらしくて良いのかもしれない。

そのまま祇園から南に歩みをすすめると、高台寺を経由して東山霊山の護國神社が鎮座している。今日の最後は、夕日を浴びながら「霊山」に佇もうかと想う。


「京都霊山護國神社」(内務省指定護國神社)
<京都市東山区清閑寺霊山町鎮座・朱印


祭神:護国の英霊73000余柱を祀る。

由緒
当社の創立は明治元年(1868)に黒船来航以来の国事受難者の霊を京都東山にまつったことにはじまる。

−−−−−以下、「靖国神社を想う・人を祀るということ」を書いた際の未発表未掲載文章を転載−−−−−

靖國神社はもともと「招魂社」であり「招魂場」であった。その後名称が「靖國神社」となっても、その本質は「招魂社」である。
「招魂社」の源流は、幕末から明治維新前後に王政復古に尽くした志士たちの霊を弔慰する目的で造られた招魂墳墓・招魂場にある。維新の前後に創建された招魂社の総数は官祭百五社・私祭三十三社あったとされている。特に全国諸藩の中でも長州藩は招魂場の設置に積極的に着手し藩内に建設された数は二十二カ所にのぼる。
長州藩は嘉永六(1853)年以来、藩の手で忠死者、戦没者弔祭を行っており、幕末にこの種の弔祭を営んできた唯一の藩であった。藩主毛利敬親が、藩史上の忠烈の臣を偲び山口にある毛利氏菩提寺である洞春寺で仏教式の弔祭を行ったという。
招魂祭としての最初は文久二(1862)年十二月に京都東山霊山で津和野藩士の国学者である福羽美静ら六十六名が参集し神道式で私祭として「報国忠士」の招魂祭を執行したことに始まる。続いて文久三年七月に福羽美静ら津和野藩士十名が私祭で三条実万・徳川斉昭ら六十四名の受難者の霊を祀った。幕府をはばかってひそかに祀ったこの招魂の祠が靖國神社のルーツとされており、このときから約七十年後の昭和六(1931)年に靖國神社に奉納され、現在は「元宮」として本殿向かって左側の回廊外側に鎮座している。
官祭としての最初の招魂祭は、鳥羽伏見の戦いに始まる一連の戦争の最中である慶応四(明治元・1868)年六月二日に、江戸城西丸大広間に於いて斎行された。ただ、この招魂祭は東海道総督府による陣中慰霊祭ともいうべき性格で、この時招降された魂は東征軍発遺以来の戦没将士であり、そこには鳥羽伏見の戦での死者は含まれなかった。
東海道総督府(四月発布)に少し遅れて新政府太政官府は五月に「癸丑以来受難者ノ霊ヲ東山ニ祭祀ノ件」「伏見以来戦死者ノ霊ヲ東山ニ祭祀ノ件」として二つの布告している。
布告第一の「癸丑以来受難者ノ霊ヲ東山ニ祭祀ノ件」では「癸丑」すなわち嘉永六(1853)年のペリー来航以来の国難に際し「皇運の挽回」の為に尽力した志士たちを受難者とし、王政復古が実現した現在、それは国家に対して大いなる勲功があった人々であったと判定し、その志士の霊魂を合祀するという旨が布告されている。
布告第二の「伏見以来戦死者ノ霊ヲ東山ニ祭祀ノ件」では鳥羽伏見の戦以降の戦死者を合祀の対象とし、さらに「これより後も王事に身を捧げて斃れた者達の霊」も合祀の対象としている。この布告によって合祀されるのは兵乱に斃れた者達の霊も含む、「王事」すなわち皇室、そして国家のために身を捧げた者の霊も祀ると布告し、この招魂が永続的にな祭祀施設として「靖國神社」建立の礎になり、これがいわば「招魂社」の起源であるといえる。
京都で発せられたこれらの太政官布告によって、七月十日に招魂祭が斎行された。これは江戸城で前月に行われた陣中慰霊祭のような招魂祭ではなく、新政府主催の国家的行事として大きな意味合いを持っていた。この前後に京都府、山口・福岡・高知・熊本・鳥取・久留米の諸藩が京都東山にそれぞれ招魂祠を建立しており、このころから諸藩においても藩内の戦死者を祀るようになった。(この東山霊山の諸藩の小祠を合祀ししたものが京都の霊山護国神社である。)

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ちなみに霊山の地は文化6年(1809)に村上都トによって霊明社と称する葬祭組織が創設されていた。ゆえに幕末の志士たちがこの墓地に埋葬されていても違和感はなく、そののちに霊域が社地に選定された。京都府や山口・高知・福岡・熊本・鳥取・久留米などの旧藩は霊山山上に各々招魂社を建立してきた。
昭和12年に各藩の小祠を統一合祀し、同14年に新社殿を造営。占領時期には京都神社と一時的に改称。昭和45年に霊山歴史館を竣工させ今に至る。

東山霊山は「維新の道」として整備されており明治維新の礎となった先人たち1043名の有名無名の志士たちの墓が静かに佇んでいる。

京都霊山護國神社
京都霊山護國神社参道入り口
京都霊山護國神社
拝殿
京都霊山護國神社
社殿
京都霊山護國神社
社殿
京都霊山護國神社
境内の鎮魂碑たち
京都霊山護國神社
境内の鎮魂碑たち
京都霊山護國神社
ラダ・ビノード・パール博士の碑
京都霊山護國神社
坂本龍馬(左)・中岡慎太郎(右)の墓
京都霊山護國神社
木戸孝允の墓
木戸孝允墓のそばに私の大学の先輩達の
寄せ書き石板があった。
京都霊山護國神社
霊山山中内でもっとも古い官祭招魂社
山口藩招魂社(明治元年5月・右)
左は霊山招魂社

心の準備が出来ていなかった。八坂神社から南下すると「霊山護國神社」。せっかく近くにあるのだからいってみようという気楽な気持ちで足を運んでいた。
高台寺を横目に駐車場が両脇に多い参道をのぼる。しばし登ると奧まったところに「護國神社」がある。境内に足を踏み入れた瞬間に気持ちが激しく入れ替わる。
境内には慰霊・鎮魂の碑が林立していた。そうなのだ。ここは幕末から昭和の激動を駆け抜けた魂たちが眠る聖地なのだ。歴史が凝縮していた。私のちっぽけな知識もフル回転される。拝殿での参拝もそこそこに、私は御霊たちが眠る霊山へとのぼる。パール氏に敬意を表し、坂本龍馬墓にもうでる。ここは龍馬ファンの聖地。ある意味、方向性も違っていた。龍馬ファンというか龍馬オタクの気配が溢れていた。すくなくとも私にとっては遠慮したい気配。
有名無名の戦士達がねむる。知った名前、知らない名前。接するたびに脳裏に活躍が描かれる。
霊山の奧まったところに木戸孝允が眠る。なぜかそこに一枚の石版があった。多くは龍馬墓のちかくにおかれていた石版なのだが、ぽつんと一枚おいてあるので私も目が留まる。
・・・?
なんか私の出身大学の名前が書いてある、というか大学の先輩達だった。かなり苦笑。不思議な邂逅だった。

そろそろ日も傾きつつあった。
どうも、この地にはまた通うことになりそうだった。まだまだ山で感じなくてはいけない英霊たちの気に溢れていた。靖国よりも、自然に近い穏やかな気配に包まれていた。


このあとは京都駅に戻って、大津駅まで移動して、そこにて宿泊。
当初の予定では翌日は大津から東上する予定だったのだ。しかし何年ぶりかの京都の空気に魅せられてしまった私には耐えられなかった。結局、翌日京都に舞い戻って、さらなる神社探訪を参拝。
その時に神社は「松尾大社」から次ページにて掲載です。


参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名辞典・京都府


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