神のやしろを想う 鹿島神宮・香取神宮編
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東に向かうときはいつも霧の中を進んでいる気がする。さえない天気、さえない気分。東はいつもこうだ。「JR武蔵野線」を東に進む。西に向かえば東京郊外。しかし東の千葉県に向かう。
私の気分は沈んでいく。気分が重く、目頭も重い。気が付けば「千葉駅」での「JR総武線」の車内で目が覚める。あわててホームに飛び出し、時間を確認。さらには時刻表を開く。7時34分成田行きがちょうど出発した時間だった。
7時55分「快速エアポート成田」が発車する。寝過ごしたおかげで一本電車が遅れる。この遅れが乗り換えに響き、最終的には1時間ほど予定より遅れてしまうことを、待ちぼうけをくらった20分間で確認。ダイヤ接続とはそうゆううもので、乗れたはずのものに乗れなかった心理的影響は大きい。今日は、あらかじめダイヤ確認をして来なかった。行く先々で、移動しながら時刻表を調べる。完全なるいきあたりばったり。千葉・茨城という地が、幹線から外れるととんでもないダイヤになってしまうことを、あらかじめ知った上での覚悟。行き先さえきめればなんも問題はない。
8時33分「成田」着。ここで30分の接続待ちを強いられる。暇だ。暇故に「18きっぷ」の特性を生かして意味もなく駅の外に出る。何もない街。駅前にはロータリーが広がる。観光案内板をみる。有名な「成田山新勝寺」は駅からかなり遠いらしくて、歩きたくもないぐらいの距離があるようだ。道理でタクシーがたくさんいるようだ。どこにでもたくさんタクシーはいるものだが、今日は夏休みとはいえ、ただの平日の曇り空。暇そうに私の事をみている運転手もいる。私は気にせず案内板を見る。小野派一刀流開祖「小野次郎右衛門忠明の墓」が「永興寺」なる寺にあるらしい。うーん渋い。ここでタクシー呼んで「小野忠明の墓」とかいえたら、格好良く風格が出てきて、私も本物らしくなるが、時間も暇も金もないので、墓と神社があるという事実だけを確認して成田からは退散。予定通りに待ちぼうけをしたあと9時03分「銚子」行きに乗り込む。実はこの電車は「千葉」発8時19分。つまり最初からこれに乗れば良かったのだけど、千葉で1時間待ちはいくらなんでもつらすぎる。ゆえに成田まではきては見たけど、状況は対して変わらない。
しばらくすると「ブチきれた高架」にブチあたる。「工事中の道路?」かと思ったが、おかしい、ここの線路が分岐して合流していく。「あれ、線路?工事中なの?」疑問符は増える一方だったが、すぐに思い当たる。「あっそうか成田新幹線か!」そう思った瞬間、上空になにかがかすめる。ジャンボ機だ。どうも頭の回転が鈍っている。ここは空港の街だったんだよなあ。いまごろ考え直す。「そうかそうか成田新幹線ねえ」いまだに、あの衝撃的な高架が想い出される。これはその筋はらいわせると禁句らしいので、これ以上は控えることにするが、それにしてもあの「産業廃棄物」的な高架モニュメントには度肝を抜かれてしまった。
電車はおそろしく何もないところを走る。まだ千葉県のはずである。しかし何もない。このようなところに住めといわれたら、あまりの退屈さに発狂しそうなぐらい何もない。レールもいつのまにか単線になっている。穀倉地帯をいく。まるで新潟の延々たる水田を想い出させてくれる光景。そういえば、この地も霞ヶ浦の潟の地であった。風景に想いを寄せる。そして、懐かしい新潟の地を夢想する。
ぬーっとした感じで、久しぶりに車掌の検札がまわってくる。のどかな昼過ぎの様相をかもし出してきた。まだ今日一日の目的の何も果たしていないうちにもはや疲れてしまっていた。
大戸駅9時28分。ここには「大戸神社」という「香取神宮」の摂社がある。それだけのことだが、地図を見ながら思わず首を伸ばす。別になんてことはないのに、最近は本格的に行く先々の神社を考えていた。まったく不思議であった。
佐原駅着9時32分。ここで「香取」にせよ「鹿島」にせよ乗り換えである。実はいまさらながらどちらの神社を先にいくかを決めていなかった。第一「香取」の行き方を知らない。「香取駅」から2キロぐらいあるけば着きそうだという、極めていい加減で無謀な計画しかなかった。
「鹿島神宮」行きの電車は9時41分の発車という。あと9分はある。とにかく今いる「佐原」からバスがあるらしいので、それの時間を探しに行くことにする。駅を出て、すぐにバス停は見つかる。ところがバスなんかありゃしない。いやあるみたいだけど朝と夕方で、肝心の昼時がない。つまりバスに乗れない。まあ、そのことがわかっただけでも収穫はあったということにしよう。観光案内所がある。そこで、行き方でも伺おうと思ったが、窓がしまっている。つまり不在らしい。ろくでもないし、時間がない。わからないので、わかりやすい「鹿島神宮」行きを決め電車に乗る。
電車に乗るときは、いつでも一番前の方に座る。これは鉄道趣味者の基本であった。しかし先客がいた。別に、そのこと自体は問題ではない。私は前席には固執しない。ここで問題なのは「成田」から乗った電車にも「彼」が先頭にいたということである。こんな、なにもない路線で鉄道趣味者とは珍しい。この先は「鹿島臨海鉄道」があるから、そちらに行くのかな、とその彼の行動を考え、素知らぬ顔で発車を待つ。
9時41分。予定通りに「JR鹿島線」は出発する。名目上は「香取」から「鹿島神宮」までの地方交通線ではある。時刻表的には「青線」の地方線ではあるが、わたしにとってはどうでもよく、感心はこの電車が「スカ色」車両で、まるで私の神社巡りの為に運行しているかの様相を醸しているだけだった。
「香取駅」。あたりを見渡し仰天する。無人駅。ただ「香取神宮最寄り駅」とある。しかし「無人」。地図によるとここから南に2キロらしいが、南には小高い山がある。まさかあれを越えるのか。もうイヤだ。これは絶対道に迷う。「香取駅」を見たとたんに自信を失い「しょうがない、佐原からタクシーか、途中までバスだ」という気になる。
線路は銚子行きと分岐。これから川を渡る。水郷地帯を行く。橋と高架が延長のように続く。高架から眺める。地上は水面と同一のものであり、かつては水害時にたいそうな苦労をしたであろうことは容易に推測できる。利根川を渡り、常陸利根川を渡り、北浦を渡る。あたりには茫々たる湖面が広がる。改めて地図で確認すると、水面を渡っている距離はたいしたものではなかったが、瞬間的には見渡す限りの湖面であった。このような光景を魅せられてしまうと、私にはここに「水の神」がおわしてもなんも不思議はないような場所であった。
「鹿島神宮駅」着10時02分。たしか私は朝6時に地元の駅を出てきた。そう考えると、かれこれ4時間もかかってしまった訳で、時間距離として4時間なら、西なら静岡、北なら水上、郡山ぐらいは行けるわけで、まさかこんなに時間がかかるとは思っていなかった。最も新幹線なら広島や秋田に行ってしまうわけで、ばかばかしく時間的な贅沢であった。
いつもどおりに駅前の案内板に目をやる。案内板によると近くには「水戸天狗党の墓」、ちょっと離れた所には「塚原卜伝の墓」があるらしい。なんというか、非常に「鹿島らしい」雰囲気をかもし出していた。道はなんの問題もなし。でも、目の前には坂が広がる。あまり坂を上りたくもない。地図上では坂がわからないのが最大の欠点だが、しょうがない登るとする。
しばしあるくと、門前町というか、まあ神社だからただのお土産屋通りとしておこう。とにかく、にぎやかな通りに出る。この突き当たりに神宮があるのは間違いないだろう。
「鹿島神宮」(延喜式内明神大社・常陸国一の宮・旧官幣大社)
神社らしい鬱蒼とした緑が目の前に現れる。まず私を出迎えてくれるのが社号碑と大鳥居。人の入りは思ったほど多くないようである。手水舎で身を清める。その向こうには摂社・末社がある。正面には楼門。この楼門は重要文化財らしい。寛永11年(1634年)に水戸初代藩主徳川頼房の奉納によるものであるという。いずれにせよ、存在感あふれる重厚な楼門であり、緊張の面もちで門の下をくくぐ。
楼門を過ぎた左手には札所があり、右手には本殿と拝殿がある。そして正面はただ真っ直ぐなる道が延びており森に吸収されている。一瞬とまどう。私が想定していたものより拝殿は悪く言ってしまえばひなびていた。楼門の華やかさとはまったく正反対のものが存在していた。このような不遜な気持はあったが、拝殿にて参拝をすます。すました後で、横にまわり本殿をのぞき見る。本殿は拝殿とはまた違い、いや拝殿の静と楼門の動を取り入れた風があり、見事なものであった。いや、順番が違う、先に本殿ありきであった。また、本殿の後ろにひときわ一段と伸びている木が御神木であるという。
本殿、拝殿と参道をはさんで向き合う形で「宝物殿」があり、その右隣に「仮殿」というものがある。仮と言うから、本殿の仮なのではあるがこちらも重要文化財。神様の仮のお住まいというものだろう。思わず頭を下げて前を通行してしまったが、考えてみれば神様は本殿にいらっしゃるわけで、仮殿に頭を下げる必要性があるかは。はなはだ疑問であった。
奥にすすむ。現代の鹿島神宮は慶長9年の徳川家康の本殿造営(現奥宮)に始まり、元和7年の徳川秀忠に諸殿造営が行われ、本殿・拝殿・幣殿・石の間・仮殿等が当時のものであるという。
神鹿がいる。なんでも鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)のところへ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)のご命令を伝えに来られたのが天迦久神(あまのかぐのかみ)という神で、鹿の神霊とされていることから、鹿島神宮のお使いは鹿となっているという。神護景雲元年(767年)に藤原氏は氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日神社を創建。その時、御分霊を鹿の背に乗せ、多くの鹿を連れ一年がかりで奈良まで行ったという。
説明が不親切極まりない。なぜなら「鹿島神宮」ともなると歴史が深すぎ、簡潔に述べる術を私は知らない。
鹿島神宮は延喜式内明神大社。常陸国一の宮。官幣大社である。
御祭神は
武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ=詳細)
創祀は神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使いを使わし勅祭されたことに始まるという。武甕槌大神は、香取の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)とともに天孫光臨に先だって葦原中国(あしわらのなかつくに)を平定した神として知られる。その後、香取神宮と共に軍神として名高く、大和朝廷の東国平定に大きな役割を果たしたという。また「大鏡」では中臣鎌足の出身は鹿島の地であるといわれている。
武人の神、建国功労の神として奉るほか、武道の祖神、決断力の神、航海の神、また関東開拓により農漁業商工殖産の守護神、外常陸常の古例により縁結び安産の神、更には「鹿島立ち」の言葉が示すように交通安全、旅行安泰の御神徳などが古代から受け継がれているという。
通りを突き当たった右手に「奥宮」があった。奥宮の御祭神は武甕槌大神荒魂(たけみかづちのおおかみあらみたま)。本殿に和魂(にきみたま)である柔和・精熟などの徳を備えた神霊をお祀りし、奥宮には荒魂である荒く猛き神霊を祀っている。もともとは慶長10年(1605年)に徳川家康により本宮の社殿として奉建されたが元和5年(1619年)に2代将軍秀忠によって現在の本宮社殿が奉建されるに当り、現在地に引移して奥宮社殿となったものである。
私は、この奥宮で目を疑う。別に神社がどうのこうのではなく、そこに見知った人間がいたからである。見知ったというよりも、見たことしかない人間だが、先ほど鹿島線内で先頭車両窓後ろという展望席にいた彼が間違いなくそこにいた。そのことに対して私は目を疑ったのである。どうみても鉄道趣味者で神社巡りが趣味な人間は私ぐらいしかいそうにないと思っていたけれども、まったく私と同じ行動をしていた人間がいたようであった。まあ、なんというか、気にしないことにしてさらに奥に進むことにする。
奥には「要石」がある。神生の昔、香島(鹿島)の大神が座とされた万葉集にいう石の御座(みまし)とも、あるいは古代における大神奉斎の座位として磐座(いわくら)とも伝えられる霊石である。この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まる所をしらずといわれ、水戸黄門仁徳録には七日七夜掘っても掘っても掘りきれぬと書かれ、地震押えの伝説ともなっている。信仰上からは伊勢神宮本殿の心の御柱的存在である。
さて、奥まで到達したからには引き返えさねばならない。今度は摂社・末社にも足を運び、ひとつひとつ頭を下げながら戻る。我ながら、まことに信心深い人のようである意味おもしろかった。
鳥居に戻る途中で声をかけられる。どうやら参拝者の身元調査というようなアンケートを行っているようである。まあ、問題はないのでアンケートというか口頭試問を受ける。「ごくろうさまです、本日はどこからきましたか」「埼玉です。」「といいますと電車で?」「電車ですねえ。」「このあとはどちらに行かれます」「そうですね。香取の神宮に行こうかと思っています。」「香取ですか」うんぬんで身の入らぬ雑談をする。「香取駅」からの距離はかなりあるらしいという「有効な情報」をいただく。そんなことは先ほど眺めて瞬時に理解しているし、第一無人駅にろくなものはない。やはり電車で行く場所ではないらしい。どのみち「佐原駅」に行かねばならないらしいことはわかった。
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来た道を降る。実は一つ気になっていた「像」があった。「塚原卜伝」であった。「塚原卜伝」というと、私には剣豪という認識しかないが、鹿島・香取には昔から、剣豪に縁がある神社であった。どうも「塚原卜伝」は鹿島の人らしい。それも鹿島神宮の祠官の家の生まれだという。室町後期の剣客で、神当流の祖、名は高幹。神道流を学び一家を成し、あの足利将軍一の「暴れん坊」将軍である足利義輝の指南役をし、晩年は香取にて門弟を教えたという。1489年生まれ1571年没。
そんなことは、まあ良い。剣豪でも剣客とよばれた、ただ歴史上の人物の一人がそこに存在していた。この像は高台の途中にあり、見晴らしがすこぶる良い。特に「鹿島神宮駅」がよく展望できた。この駅は鹿島臨海鉄道との共用駅であり、まるで新幹線単一の駅、例えば「上毛高原駅」や「くりはら高原駅」や「安中榛名駅」のような雰囲気を持っていた。似ているというのではなく、あくまで雰囲気が、であった。利根川水郷地帯が産みだした低地の中でその駅だけがコンクリの重厚な造りで新幹線の高架ホームのような造りで飛び出ていた。風に乗って発車メロディーが鳴り響く。なりひびく…?あっ、発車だ。今更急いでもしょうがない。30分待てば次がやってくる、ということで、鹿島神宮駅で待ちぼうけをすることになってしまった。不思議なもので、時間感覚が欠如し始め、電車待ちなどは悠久の流れと比すれば大したものではないと、悟るかのようにぼっーと待つことにする。
11時40分。やっと鹿島線が発車する。行った道を再び戻るというのは面白くないが、鹿島線などは実質盲腸線なのでいたしかたがない。再び湖を渡り川を渡り、香取駅の寂れぐあいを見物し、腰も浮かぶ気も起きぬまま12時08分「佐原駅」に帰ってきた。
さて、佐原からどうしよう。考えても仕方がないので、観光案内所に行き、まずは地図を頂戴する。地図をもらうというのは、基本中の基本で、私はどこに行くにしてもまずはこの行為をする。
さて、地図に目をやる。そこには、「レンタサイクル」の文字が…。そうかその手があったか。ということで荷物を持って一目散にレンタサイクルの貸し出し所に向かう。まずは、開口一番。「レンタだいじょうぶですか?」「ああ、どうぞ。まずはこの用紙に記入して…。」「えっと、貸し出し条件とか料金とかはどうなってます。」「ああ、無料で貸すよ。ただし守ることはきちんと守ってのことだけど…。」ということで、あわてむせながらも、あわてて喜ぶ。向こうも不思議に思っただろう。なんせ、勢いが凄かった。いまさらながら、どうも佐原市で運営している無料レンタサイクルらしく、おかげで私は助かった。ただ、市営ということもあり自転車は旧型。おまけにギヤもなく、快適さは期待できない。ただ、これで徒歩以上に活動範囲も広がった。まずは、一目散に「香取神宮」にむかって自転車をこぎ出す。こう書くとなんてこともないような書き方だけれどもこの距離約4キロ。久しぶりに自転車をかっ飛ばす。佐原の町並みは度肝を抜かれるぐらい凄く、さすが「小江戸」と水郷の街という感じが漂う。自転車をこぎながらも落ち着かず、町並みを見入るが、とにかく走る。自転車で爆走するなんてことをするのは高校以来のような気もする。なんだ私もまだまだ若いじゃないかと、自惚れながら「神社までの道を」快調にすっ飛ばす。
「香取神宮」(延喜式内明神大社・下総国一の宮・旧官幣大社)
実際行動してみると何も問題なく到着。参道やらお土産屋やらも気にせず、ずんずんと自転車は突き進み、石段の下にてやむなく下車。ここに自転車置いて盗まれたらどうしようかという疑念が頭に浮かぶが香取の神の神力を信じて、置いておくことにする。
参道を登ると、鳥居があり、石段。その向こうに総門(神門)がある。突き当たりに手水舎があり、そこで身を清めると道は右手に続き、一段と朱がまぶしい楼門がある。楼門を潜るとそこは異様だった。本殿と拝殿があるらしい。あるらしいのだが、どうも修復工事中。これはいただけない。精神上はまだ良いが、問題は写真に撮れないことであった。まあ。神様はそこにいらっしゃる。不平を言わずに参拝することにしよう。なんでも鹿島神宮では平成14年4月に式年大祭御舟祭が、香取神宮は式年大祭神幸祭が行われるという。どちらも12年に一度しか行われないもので、そのための修復工事であろう。これは、でもいただけない。もしや来年またいらしゃいとの神のお告げか。いずれにせよ、いつも通りに頭を下げ、御守りを授かる。境内を散策していると、そこに場違いなものを発見する。「練習艦かとりの錨」であった。「かとり」は昭和45年に建造された海自艦であり、平成10年に除籍になっている。戦前から「鹿島」「香取」は練習艦の艦名として襲名されており、現在は除籍された「かとり」にかわって平成6年に竣工した「かしま」が若き幹部候補生を教育するために活躍している。この「かとり」は役目終わりいわば艦のふるさとでもあるこの香取に戻ってきた訳で、とにかく何よりもうれしかった。
散策を続ける。ふと目の前で見てはいけないものを見てしまったかの罪悪感にかわれる。神様にお仕えしている「巫女さん」が、まああの格好だから暑いのはわかる。しかし、あの格好で腕まくりをして、たすきがけの様にして裏へと歩いていた。なんというか、異様な格好ではあった。せめて表の人前に出るときは「巫女さん」としてイメージを壊さないで欲しいと思う次第であった。
「香取神宮」は延喜式内明神大社。下総国一の宮、官幣大社である。
御祭神は
経津主大神(ふつぬしおおかみ=詳細)
経津主大神は天照大神の御神勅を奉じて鹿島の武甕槌大神とともに国家建設の基を開かれ国土開拓の大業を果たされた建国の大功神。御神徳は国家鎮護・国運開発の神、民業指導の神、武徳の祖神として広く仰がれている。御創祀は神武天皇18年と伝えられ、現在の御社殿は徳川五代将軍綱吉による元禄13年の御造営であり本殿は重要文化財である。
おおかた用事はなくなった。鹿島に比べてこちらは参拝に不便であり、人の入りも少ないようである。それでも並の神社以上には参拝者はいるが…。一通り回ったら、戻るだけである。ただ、帰り道に気になった脇道があったのでそちらに行ってみる。
「護国神社」と「要石」への案内が出ている。しかし、道はもはや獣道の様であり、誰もこちらに歩もうとする人はいなかった。しばらく草木に埋もれる道を進むと鳥居と護国神社の社号碑が見える。ところが、先に進んでみたところ、もう仰天するしかなかった。開けた空間に素木の鳥居。そしてこじんまりとしたやしろ。思わず声を失う。ただ護国の力となった人々の事を思うとこれだけでも、この心がけだけでもありがたいものだと思う。しばらく、私はこの空間を離れることができない位、神々しい空間がそこに存在した。
さらに奥に進む。地面は泥道で、ただ山の中を突き進んでいるような気しか起きなかった。薄暗い場所に、人知れず苔さびた石柵があり、なかには石が鎮座している。どうやらこれが「要石」らしい。鹿島にくらべるとこの香取は何から何までもが地味で、いたいげであった。ふと、この石を見たとたん感じてしまう。
古伝によればその昔、鹿島香取の二柱の大神は天照大神の大命を受け、葦原中国を平定し、香取ヶ浦付近に至った。しかし、この地方はなおただよえる国であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。これは地中に大きな鯰魚(なまず)が住みつき、荒さわいでいると言われていた。大神たちは地中に深く石棒をさし込み、鯰魚の頭尾を押さえ地震を鎮めたといわれている。香取神宮要石は凸形、鹿島神宮は凹形で地上に一部だけあらわし、深さ幾十尺とされている。貞享元年(1664年)3月、徳川光圀公が香取神宮に参拝の折り、要石を掘らせたが根元を見ることができなかったという。
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香取にせよ鹿島にせよ、光圀は石を掘らせたようで、らしいというかなんというか、いずれにせよ、こんなことで歴史に記されたことは、不名誉極まりないように思える。
一度、境内から外へ出る。本来ならここも境内だろう。しかし、現在ではどうにも神社の敷地外といえるようなところから横道を進む。横道というかとんでもない急坂が横たわっていた。角度としては45度ぐらいはあったろう。極端かも知れないが私にはそれぐらいに感じられた。なぜ、そんな道を登っているかというと、この先に「奥宮」があると案内板に書いてあったからである。
急坂の右には草むす公園というか、廃墟と化した滑り台。それはまあ良い。問題は左にあった。私はその一角がどうにも気になる。そこには「穴」があった。多分、穴である。竹でふさがれているから当然中には入れない。草の藪の向こうが気になる。まあ、帰り道にして、まずは「奥宮」に向かう。
私は鹿島の様な立派なやしろを想像していた。ところが、予想に反して先ほどの護国神社のようにすっきりとした「奥宮」があった。誰も気づかないような場所で、表の華やかな神宮と相反するように存在していた。この社殿は昭和48年伊勢神宮御遷宮の折の古材を使ったものであるという。
「奥宮」の隣には、こちらもひっそりとして何かがある。どうも墓のようで板には「天真正伝神道流始祖祖飯篠長威斎墓(てんしんしょうでんしんとうりゅうしそ・いいざきちょういさい)」とある。なんでも香取神道流の始祖で室町時代に形成された、我が国最古の流儀であるという。
そんなことはまあ良い。私としてはさきほどの目にした穴が気になる。藪を押し分け、草むす地へと足を踏み出し、穴を覗く。さすがに覗いもなんだかわからない。気持としては防空壕の跡ということにして立ち去ることにする。