「京都の神社風景2 石清水・離宮八幡編」
<平成15年7月及び11月参拝・平成15年12月記>
「男山へ」「石清水八幡宮」/「飛行神社」/附記「離宮八幡神社」
「男山へ」
今年は京都に三回ぐらいいっているらしい。今回も用事があったので京都に寄り道してみた。
本当は土曜日・日曜日で休みたかったのだが、却下され日曜日と月曜日の休みを頂いたはずであった。ところが、いつの間にか休日のローテンションが変更され、気がついたら普通に日曜日の休みを頂戴しただけであった。つまり日帰りで関西に行く羽目となってしまったのだ。
私は日曜日に大阪のコンサートにいく。つまりまともに終わってから帰る手段はなかった。いや東京駅までは帰ることも可能であったが、自宅に帰るには終電ぎりぎりの瀬戸際で、帰り着かない可能性が高い。だからといって翌日も仕事があるのに大阪で一泊して朝一番の新幹線に乗るというのもバカバカしい。
そうなると選択肢は単純だった。もっとも大阪コンサートに行くのをやめるというのが一番安易で懐も痛まなく、正常な判断ではあるのだが。しょうがないからというよりもかなり積極的に大阪始発の急行寝台「銀河」の寝台乗車券を取得しておく。大阪コンサートも楽しみではあれどそれよりも銀河に乗るということも楽しみであったようだ。
やっぱりさすがに國府田マリ子だった。私は彼女のコンサートに参加するために始発の電車に飛び乗る。今週末は大雨だった。それも台風を呼んでしまうほどの。彼女は業界でも有名な雨女。大事なときはいつも雨に降られる。そんな彼女も今年結婚なされ、しばらくは雨がなかった。大阪の前に行われた埼玉と千葉の会場はバカバカしいほどの青空だった。ファンの間で「結婚にして運気がかわったのかな?」ともささやいたが、やっぱり雨女だったことが、なんとなくうれしい。雨も愉快なもので、台風をよぶ。もう12月だというのに。
朝4時過ぎに家を出て、東京駅6時20分の新幹線を目指す。これから乗り込むのが「のぞみ」。私にとって初めての車両でもあるので、なんとなく楽しみ。新幹線に乗るというのが楽しみというのも、子供じみていて愉快だ。
さて、今日は大雨だ。京都大阪も大雨なのだろう。行く場所は決まっていないが、雨であれでも行動は明確。
いつものとおりに神社をいくつは散策して、夕方にコンサート会場に着ければいいのだ。
そうでなければ、なにも好きこのんで始発の電車に飛び乗らない。どうせ大阪に行くのなら、寄り道した方が賢いだろう。おかげで目的を見失うという本末転倒ぶりになるのもいつものことなのだが。
新幹線は何年ぶりだろうか。かなり久しい乗り物だ。以前は「こだま」各駅停車にのって名古屋ー東京間をぼーっとのりつぶすようなこともしていたのだが。もっとも同じ特急券を購入してわざわざ各駅でまったりするというのが、とっても贅沢であることに当時は気がつかなかったものなのだが。
東京駅を6時20分に出発する。時間的にも6時始発も間に合ったのが面白くないが、まあ20分ばかりを急いでもいたしかたがない。最近の新幹線はシンプルだ。のぞみとこだまなんて。気がついたらひかりさんがいないのですが。
しかし新幹線。イス周りが広くて快適だ。さすがに新幹線。いままで劣等電車ばかりのっていたので、こんなことでも感心してしまう田舎者なのだ。そしてこんなつまらないことにも感心してしまう、ばからしさにあきれる。そのくせ最近は飛行機に浮気していたからな。本来の鉄モードを復活させるときかもしれない。
駅弁はいつもながらに高い。かなりぼったくりど満点なのが許せない。許せないし別に食べたいわけでもなから関係ないといえば関係ない。ただ、それでいて売れているのだからしゃくに障る。
発車がなめらかすぎ。いま、発車してしまった。静かでゆるゆるとしていて、軽やか。さすがだ。こんなことに感心しているようでは先がながいぞ。
そういえば品川駅が開業していた。そして気がついた。東京駅からのる人間よりも品川から乗る人間が多すぎることにショック。まさか品川がこれほどとは思わなかった。東京駅発車時点で10人位のぐらいの一車両が品川駅であっという間に満席になるほどのすごさ。なんというか、JR東海の戦略大成功、としかいいようがなかった。たしかに埼玉県人には関係ないのだが、東京南部・神奈川県をカバーするからかなり有効なのだろう。逆に新横浜の立場が微妙な気もするのだが。
新幹線も乗ってしまえばなんてことはない。あとはいつもどおりに眠気に襲われて、タイマーをセットして熟睡するだけであった。晴れていれば、ぼーっと景観を楽しんでもよいのだが、大げさな大雨が降っている。大体、傘を片手に大阪に行くというのも許せないのだが。
愛知県あたりで雨があがっていた。私は京都駅まで乗車予定。まっすぐ大阪に行くよりもなんとなく京都までにしておいた。最初だけは目的地をきめてある。
「石清水八幡宮」。むかしの私は稲荷さんと八幡さんは苦手であったというか興味がなかったのだが、箱崎宮や香椎宮、鶴岡八幡などに接して好意的な印象に変わっていた。石清水は八幡云々もあるが歴史的古社である。私がいかない理由はなかった。
京都駅で下車して、京都の空気を味わうだけで京都をあとにする。かなり寂しいが、京都ならいつでも来たいし、いろいろな味わい方がある。今日は京都の残り香だけで我慢しよう。京都駅から近鉄京都線に乗り込んで、阪急本線に乗り換える。
男山。山崎。淀川。木津川。賑やかな景観が四方を巡る。川と山がせめぎ合うこの空間は古来より交通の要所として重要視されてきた。桂川と淀川、木津川の合流地点にして、山崎を望むようにして川を挟んで男山が対座する地点。私は以前、山崎の離宮八幡には足を運んでいる。思えば「男山」はそのときから念願の地であったのだ。
八幡市駅を下車してケーブルカー乗り場に向かう。どうやら私一人のようだ。こういう場合、なんとなく居心地が悪い。ケーブルカーは定刻通りに運行する必要があり、別に私のためだけに運行しているわけではないのだが、それでも運転手と二人っきりというのはかなり微妙。もっともケーブルは一直線にわずか三分間で斜面を駆け上がってしまうのだが。
「石清水八幡宮(男山八幡)」 (官幣大社・二十二社の一つ・男山八幡)
<京都府八幡市高坊鎮座・朱印>
祭神:
誉田別尊・比淘蜷_・息長帯比売命
それぞれ応神天皇・后神・神功皇后のこと
比淘蜷_は宗像三神ともいう
由緒
南都大安寺の僧であった行教は、清和天皇の貞観元年(859)七月に宇佐神宮を参詣した際に宇佐八幡大神の「吾れ都近き峯に移座して国家を鎮護せん」との御神託を受け帰京。上京も途中に山崎の地にて「男山に鎮座」するむねの示現をうけ、朝廷に奏上。清和天皇の夢想とも一致しており、男山に社殿建立を決定。翌二年(860)四月に奉安創建した。
鎮座以来、朝廷の信任篤く国家鎮護王城守護の神として特別の崇敬をあつめてきた。鎮座地の男山は標高142メートル。
鎮座当初から八幡宮と護国寺が一体化しており、護国寺(石清水寺=神宮寺)によって管理。ゆえに延喜式神明帳には列格しなかったとされている。
中世期にはいわゆる二十二社列の第二位に列格し、伊勢神宮に次ぐ存在であり国家から篤く崇敬され、全国各地に別宮分社を奉斎。
さらには武門の源氏が氏神として仰ぎ、東国に鶴岡八幡宮を創建すると、守護地頭によって諸国に八幡宮がさらに分祀され、当社は八幡様の根本神社としてますますの崇敬をあつめた。
社殿は八幡造の典型を成しており、寛永十八(1641)年に徳川家光によって再建された重要文化財。
古来以来、石清水八幡宮と申してきたが、明治初年の神仏分離によって山内の寺院を破却し男山八幡宮と改称。しかし歴史的に由緒ある社号であったので大正七年に再び「石清水八幡宮」と改称している。
明治期には官幣大社列格。勅祭社。
京阪電鉄運営のケーブルカー |
男山ふもとの一の鳥居(後方に頓宮) |
参道 |
南総門 |
楼門 |
摂社・若宮社(左)と若宮殿社(右) |
摂社・石清水社と石清水の井 |
男山から比叡山を臨む 京都という盆地を感じる風景・・・ |
うら寂れた気配。たぶん人の気配がないからだろう。前日は雨であった。晩秋色の木々たちがしっとりと濡れている。
ケーブル駅は社殿側からみると真後ろにあたるらしい。ぐるぐるっと回ると唐突に楼門に到達してしまった。正面参道を登るという正当な手段をとらなかったゆえに、これは致し方がない。帰りは参道を歩くとしよう。
石清水八幡宮。名実ともに八幡宮の代表格。
雨に濡れる石灯籠。七五三のお祝いに訪れる親子連れ。そして私のような目的意識がなくなんとなく導かれてきた人間もいる。日曜日の神社は忙しいのがわかっているが、朱印を頂戴しておく。
朝からいたって気分はよい。八幡様の神力は私の気分を高揚してくれる。この豪快豪壮な社殿に接し、もうそれだけで満足。さすがに良い神社だ。おもわず長居をするも雨上がりの空間がますますもって心地よかった。
神馬たる「おウマさん」に驚いてから表参道から下山する。山をおりる道すがら摂社をいくつか見聞しつつ。
ふもとの頓宮まで散策すれば、さしあたって男山は終了。男山に立て籠もった軍勢、すなわち南北朝期のことなんぞを思いながら山をみあげる。ついこないだまで太平記を読んでいたがゆえに、私はこの地にひかれたのかもしれない。
京都ののどぼとけたる男山八幡にたてこもった北畠春日少将顕信(顕家)や新田義興。そして山を囲む足利勢の高武蔵守師直と、それを撃破しようとする南朝の北畠顕家陸奥大将軍。北畠顕家は激戦のすえ阿部野に散り、4ヶ月近く立て籠もっていた男山の軍勢は源氏足利家の氏神であるにもかかわらず、非常にも高師直の手によって炎上。男山の軍勢は潰滅。数日後には新田義興の父たる大将軍新田義貞も戦死してしまう。まさに歴史が激動していた舞台でもある男山。
そんなことを想いながら男山をあとにする。
摂社・高良社(八幡の産土神) 兼好法師の徒然草の舞台。 |
摂社・高良社 石清水八幡を勘違いした僧の話がある。 |
石清水八幡宮頓宮は男山の麓 |
頓宮 |
頓宮境内から男山を臨む |
五輪塔(航海祈念塔)鎌倉期 大石であれど造立にさまざまな伝説がある |
この八幡市には興味深い神社がある。その名も「飛行神社」という神社。近代史を彩る「航空機」にまつわる異色の神社であれど主祭神は記紀以来の神(ニギハヤヒ神)というのも面白い。
それにしても南北朝から近代までめまぐるしい切替が必要だった。
「飛行神社」
<京都市八幡市八幡土井鎮座・朱印>
祭神:饒速日命(ニギハヤヒ命)・世界航空受難者の霊
由緒
祭神のニギハヤヒ命は古代の空の神とも言われ、天磐船にのって天降れた神。
飛行神社には中央にニギハヤヒ命、右殿に航空受難者の霊、左殿に薬祖神を祀っている。
飛行神社は二宮忠八が大正4年に自邸内に航空殉難者の霊を祀るために創始したことにはじまる。
二宮忠八は明治24年に日本人として初めて、そして独学にて「カラス型飛行器」というゴム動力によるプロペラ式の模型飛行機を発明し飛行に成功させた人物。プロペラ式の模型飛行機としても世界初の発明であった。
さらに二宮忠八は人を乗せて飛行可能な「玉虫型飛行器」を明治20年に設計し、上官であった長岡外史大佐に上申。しかし却下されてしまう。(長岡将軍はのちに「プロペラ髭の長岡」で有名になった将軍)
独力での研究を決意し軍を除隊した二宮は製薬会社に勤務する。愛媛県八幡浜出身の二宮は地名にゆかりを求めて京都府八幡市で飛行機の完成を目指していたが、明治36年にアメリカのライト兄弟によって有人飛行が達成されてしまい、失意の内に研究を断念。
以後は飛行機の研究からはなれていたが、世界各地で飛行機関係の事故が増えることに苦痛を感じ、大正4年に邸宅内に航空受難者を祭神とする祠を建立。
大正10年に同郷の白川義則陸軍中将と話をする機会があり、その際に「玉虫型飛行器」上申書の話が及ぶと、白川中将は陸軍航空本部に事実を確認し、明治26年という時期の発明に驚愕がわきおこり新聞記事に掲載される。長岡陸軍中将のもとにも新聞が届き、記事中の「長岡大佐によって上申書が却下」という事実に自らの非を認め、長岡中将は二宮忠八を改めて賞賛するとともに謝した。
以後、二宮忠八の業績は国定教科書にも記載され一躍全国に広がった。
二宮忠八は邸内の祠を本格的な神社にすることをめざし、神々のうちで「天の磐船」とニギハヤヒ命を航空の神とすることを決意。奈良県生駒郡の矢田大宮の磐船社から分霊し神社とし、自らも神職試験を合格して名実ともに体制を整えた。
昭和11年、二宮忠八は71歳で没している。
現在の社殿は平成元年に飛行原理発見100周年を記念して造替されている。
飛行神社正面 |
零式艦上戦闘機機首部分 |
・・・拝殿? |
本殿 |
吉村昭『虹の翼』では二宮忠八が物語となっているらしい。私はいくつか吉村氏の書籍を読んでいるのに、この本が未見というのがかなり口惜しい。ただ、この事実はいま知ったわけで、神社に詣でていた時はそんなことはしらない。知っていたことは伊予八幡浜で模型飛行機を飛ばすことに成功した人物=二宮忠八がいたということだけ。
それだけだけれども、ここに由来の神社があるということは知っていたので足をのばしてみた。
飛行神社という神社は、外見からして異風を漂わせていた。正面がまるで神社のイメージではなかった。それこそ教会を思い起こさせるかのようなステンドグラスが拝すべき場所にほどこされていた。さすがに本殿は正しい神社建築ではあったが。
なんとなく立ち寄っただけではあれど、私は近代史を専攻していた人間。先人たちの偉業に頭を垂れ、国難にたちむかった偉人たちに感謝する。
場違いだけれども朱印を頂戴して、そろりそろりと飛行神社をあとにする。
八幡市のあとどこに行くべきか。地図をみると「京阪電鉄」が宇治に向けて線路を延ばしている。なんとなく逆行してしまうのが気になるが、それよりも「国宝」の存在が私をひきよせる。そうなのだ。宇治には日本最古の神社建築にして国宝指定の神社があるのだ。
私が行かないはずがない。もういくしかないだろう。
ただ紀行文的に寄り道をする。半年前に関西に旅行していたときに時間が中途半端にあまったので「山崎」にいた。歴史的に著名な山崎八幡をみてみようと思って。この山崎は男山に馴染みが深い。ゆえにここに掲載しておこうかとおもう。
平成15年7月参拝
「離宮八幡宮(山崎八幡)」(大山崎八幡宮・府社)
<京都府乙訓郡大山崎町鎮座>
祭神:
応神天皇・神功皇后・宗像三神・酒解神(式内の地主神)
由緒
嵯峨天皇の離宮「河陽宮」の跡に祀られた故に、離宮八幡宮と呼称。
当社が鎮座する天王山は淀川を挟んで男山と対座している。この地は大阪と京都を結ぶ水陸交通の要所。
貞観元年に行教が宇佐八幡の神託をうけて勧請する際に当地に留まり、のちに男山に移したとされている。
中世以来、この地で灯油「荏胡麻油=神社仏閣の燈明用油」を製し、石清水・大山崎に献じた由緒から、朝廷は当社に油司の免許を与え山崎に「油座」の制度がひかれ、諸国における油販売権の独占総元締めとなった神社である。なお豊臣秀吉によってこの制度は改められたが、いまでも全国の油業關係者の崇敬が篤い。
幕末の「禁門の変」では長州藩の屯所となり兵火で社殿焼失。以前は水無瀬まで及ぶ広大な神領を領しており「西の日光」と呼ばれるほどの社殿を構えていたという。
離宮八幡正面 |
境内 |
境内 |
石清水の井 当地の湧き水から石清水とも。 |
司馬遼太郎の『国盗り物語』のイメージがあまりにも大きすぎた。美濃の蝮が、山崎の油を盛大にうりさばいていた、あの山崎八幡宮の存在。いまは線路によって社地も縮小されて、私の想像上よりもかなりちいさかった。
静かだった。
「本邦製油発祥地」と「河陽宮跡」という歴史の息吹が静かに境内を包んでいた。
ここを訪れていた私は、帰りの飛行場にむかう途中。夕方で、だいぶ疲れていた私は、油のイメージを膨張させ、そして神社の存在を実物以上に大きくみていた。
参考文献
神社由緒看板及び御由緒書
飛行神社発行「二宮忠八小伝」
神社辞典・東京堂出版
角川日本地名辞典・京都府