「日立電鉄沿線の古社」
<平成7年2月参拝>
平成17年3月31日。茨城県を走る日立電鉄が廃止される。私は鉄道ファンを兼ねているので、日立電鉄に乗りにいった。<日立電鉄の話題はこちらにて>ただ、神社ファンとしては沿線の神社も気になる。
そんなわけで、沿線の式内社に途中下車。
「長幡部神社」(式内社・旧郷社)
<茨城県常陸太田市幡町鎮座>
祭神:綺日女命 多弖命
里川の左岸、台地南端に鎮座。
延喜式常陸二十八社の一社。
当社は天孫降臨に従った綺日女命(記紀未記載の神)が、日向から三野(美濃)に移り、更に崇神天皇の頃に長幡部の遠祖である多弖命が三野から常陸久慈に移ったことが伝えられている。
当社はこの地方の「長幡部」が奉斎していた神社であろう。
中世以降に「小幡足明神」「駒形明神」と称される。
源頼義の北伐凱旋後に社地に「鹿島」「三島」「神明」「若宮八幡」が祀られ「四所明神」とされ、「長幡部神社」は衰退。元禄頃には社号を失い「鹿島明神」と称されていたが、のちに古老の口碑によって旧社名に復名。
明治五年、郷社に列格。
鎮座地の北西700メートルの地が元宮といわれた旧社地が伝えられている。また東50メートルの地には神座と称される石がある。
付近には幡山古墳群といわれる十数基の横穴古墳が分布している。
付近を流れる「里川」 |
堤防から幡町の集落をのぞむ 神社は集落の高台に鎮座。 意外と遠かった・・・ |
長幡部神社正面 |
境内 |
正面 |
拝殿 |
左写真: 本殿 |
日立電鉄小沢駅から北へ1.5キロ。JR常陸太田駅からは東に約2キロの地。切り通しの様な参道石段をのぼると高台に神社が鎮座。
実は時間がなかった。
9時21分に走行する日立電鉄を撮影後に、1.5キロ北上を開始。次の日立電鉄撮影時間は10時13分。持ち時間は約50分。余裕でゆとりがあると思っていたら、神社は意外と遠くて、おまけに台地上の高台。到着時間が9時50分。訪問するのに30分間かかってしまう。そして20分で撮影ポイントに向かわなくてはいけないわけで・・・マジで走りました。
時間に追われていたので滞在時間も一瞬。ほんのひと息しか滞在していなかったのだ。
それゆえに元宮も神座も見るゆとり無し。なにやら口惜しいが、この時の私は「鉄道趣味ファン」がメインだったので、いかんともしがたい。
猛烈ダッシュで次の撮影ポイントは10時10分になんとか到着。
神社にはなんら関係ないけれども、<日立電鉄〜ラストランへ>もよければ御覧下さい。おかげで良い写真が撮れました。
「泉神社」(式内論社・旧郷社)
<茨城県日立市水木鎮座>
祭神:天速玉姫命
常陸国の延喜式内社二十八社の一社「天速玉姫命神社」の論社。
創立年代は不詳。社伝によれば崇神天皇の頃の創建という。霊玉がこの地に降臨し、霊水が湧いて泉となり、霊玉を神体、神霊を天速玉姫命として祀ったのが起源という。
一説には天武天皇二年(673)に清水が湧き、水木の里民の夢枕に天速玉姫命があらわれ「吾を祀れば百病が癒える」とつげ、里民らは翌日に清水の泉に臨て社殿を建立したともされる。
鎮座地である泉ヶ森は常陸国風土記に記載される「密築里の大井」と推定されている。しかし風土記には当社の記載はない。
中世期には佐竹氏の崇敬をあつめ、享禄三年(1530)に佐竹義篤が社殿を造営している。
近世には元禄期に徳川光圀が当社を訪れ「井泉山」の号をつけたという。
明治六年郷社列格。
昭和58年5月、現在の拝殿が竣工。
正面 |
参道 |
拝殿正面 |
拝殿 |
左写真: 本殿 |
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泉。綺麗すぎる。感動だ・・・。 |
「密築里の大井」・・・境内地の泉は透明度抜群 |
日立電鉄及びJR常磐線の「大甕(おおみか)駅」から北東800メートル、日立電鉄水木駅からは南に600メートルの地に鎮座。
こちらは日立電鉄の撮影ポイントの時間はあまり気にしなくても良いのでゆっくりと参拝。
大甕駅で下車して、途中で食事休憩をしてから参拝。場所はなんとなくあのあたりの木々の固まりかな、とわかったが入口に到達できずに敷地円周をグルグル回った気がする。
低地にいたると水場の公園が広がり、その水源をたたえる泉が木々の中にある。これこそが「泉神社」の泉であった。
綺麗すぎた。ちょっと感動。噂には聞いていたが、ここまで綺麗な泉だとは思わなかった。残念ながら泉のなかの弁天社が修復中でシートがかぶさっており、景観はいまいちであるが、それでもコイの泳ぐ泉の鮮明度に胸が打たれてしばし佇む。
このあとは水木駅から日立電鉄に乗車して、再び「鉄道趣味モード」。なかなか「鉄道マニア」と「神社マニア」を兼任するヤツもいないだろうに。
参考文献
境内案内看板・由緒書
式内社調査報告・第11巻東海道6
他