「安曇筑摩路探訪記」
<平成16年7月参拝>
その1.「若一王子神社」「仁科神明宮」「穂高神社」
その2・「伊和神社」「筑摩神社」「深志神社」「沙田神社」
その3.「矢彦神社」「小野神社」
前々から信州には行こうと思っていた。一シーズン前にも信州行きを計画していたが、見事に風邪でダウンし中止したということもあった。そして今回、前々から気になっていた「ムーンライト信州号」への乗車とともに、漸くにして決行の日を迎える。
なにやら台風が来ているらしい。もっとも雨天中止にするわけにもいかないから、天候的定めにしたがうのみではある。
こういう日に限って仕事は定時上がりだったりする。さて、いまから夜行電車が走るまでの時間が3時間ほどある。さしあたり旅先に必要な道具を持参してきているので、このまま旅モードに突入してもしても良いし、出発までを東京駅にて「寝台特急」出発をひたすらに見送っても良いのだが、いかんせん時間の使い方として間違っているような気がする。手元になる職場で必要であっても旅先には必要ない余計な荷物が腹立なので、これらを家に置いてこようかと思う。
一度、家にもどり、そして余計な荷物を置いて再び出発。むだにあわただしく家には5分も滞在していないが、とりあえず「台風」がきているらしく、雨が降っている。
さて、この雨はこの先どうなることか、と懸念しつつ、そんなこんなで私は「ムーンライト信州81号」にのるべく新宿駅を目指す。
新宿発車は23時54分。困ったことに翌朝5時8分には「信濃大町」に到着するという忙しさで、私の神社探訪は、あいかわらず無駄にあわただしく、ある意味で活気があった。
腰掛けた瞬間に「うわっ。座高がアサッ」な状態で「モハ182−42」の車内におさまった私は、帰宅途中の郊外電車を脇目に眺めつつ、優等特急車両を用いた「快速夜行」車内で、ウトリウトリする。さすがに早朝の信州路に赴くだけあってハイカーが多数。ところでハイカーの皆さんはなぜゆえに大荷物をあれほどに抱えているのかが激しく謎なのですが。もちろん山中泊予定ならそれほどの荷物になるのはわかるが、日帰り登山風でも大荷物なのがわからない。神社探訪な私も今後、本式に「山に登る」ことがあるかもしれないので、なんとなく気になる。
今の私は、普通に「モバイルリュック」、そして片手にカメラ用一脚。カメラ用一脚を持参している私は、こいつを杖に道中はウォーカーな予定ではあるが。
かなり空き目の車内は、のんびりムード。どうやら私の隣席客はいないようなので、広々と座席を使用。全体的に車内の埋まり度は半分を超えていないので、すこぶる快調な「夜行快速」を満喫する。青春18きっぷシーズン中の「夜行快速」としては、なかなか得難い環境。
車内は賑々しい。当然のごとく団体グループなハイカーがあっちでもこっちでも盛り上がっているが、それでも東京を抜ける頃には静寂につつまれはじめる。難を言えば「ながら」と同じく道中での停車駅が多いために、車内が消灯しないこと。それでも「ながら」と違い停車時間は短いので睡眠を遮られることはないのだが。不思議なもので、夜行電車での睡眠の場合、リズミカルに電車が走っている時は問題ないのに、停車となってしまうと、もはや寝られないというジレンマが待っている。
新宿駅の臨時夜行快速「ムーンライト信州81号」 |
松本駅。4時32分。ここで「急行ちくま・長野行」と接続する。むこうは夜行急行座席電車。こちらよりもより一層の空席の中で、早朝の乗りかえ接続が行われる。
松本をすぎれば、いよいよ大糸線。この先は未踏なる鉄路でもある。徐々に開け始める夜空。長野・岐阜・富山にまたがる大連峰を左手にながめつつ、電車は北上する。
5時8分。信濃大町。私はここで下車する。すがすがしい朝の空気を駅前で吸い込みながら、これから山に赴くハイカー客とはなれ、駅前から北上を開始する。誰もいない、早朝。こんな時間から知らない土地を「神社巡り」する私も酔狂人である。
まっすぐに整った商店街を歩み、すぐに不審な気配を感じ取る。どうもなにかの祭礼があるらしい。沿道が飾られていた。そしてポスターには「若一王子神社例大祭」とある。
そうなのだ。私のこれから赴こうとしていた神社が偶然にも例大祭であったのだ。前日と本日、二日間とりおこなわれる例大祭。沿道は前日の祭りの気配を残しつつも、わずかながらの休息をしているようで、私にとっても幸いであった。
正直なところ、まつりに神社に赴くのは私は好みではない。日常の姿に接したかったから。それでも「ハレ」の舞台を否定するわけではない。はじめて赴くところならば、というわがままな発想ではあるが。
「若一王子神社」(旧県社・国指定重要文化財)
<長野県大町市大町鎮座>
主祭神:
伊弉冊尊・若一王子・仁品(仁科)王
由緒
一説に垂仁天皇の御代に仁品王がこの地に社を建て、伊弉冊尊を奉祀されたことにはじまり、のちに地元人らによって仁品王・妹耶姫夫婦の二柱を合祀して嘉祥二年(849)に創建されたという。
当社は紀州熊野社を勧進した古社。領主仁科氏の崇敬が篤く、鎌倉初期に仁科氏によって熊野那智大社より、第五殿の若一王子を勧進して「若一王子の宮」となったとされる。当社東の観音堂の本尊那智神社の御正体と同様の十一面観音であることによる。
祭礼は仁科氏が同じく勧進した仁科神明宮と前後しており、明治維新までは仁科神明宮の翌日に当社祭礼が継がれていた。
江戸期には松本藩主の庇護をうけており、現在の社殿は水野氏によって承応3年(1654)に大改修(建立は弘治二年・1556という)をうけたものであり本殿は重要文化財指定(旧国宝)。
明治維新前は神仏習合社。昭和8年に県社列格しており、現在は神社本庁別表神社。
正面参道 |
社殿正面 |
境内の三重塔は |
縁日屋台と鳥居と三重塔 |
拝殿、右隣が観音堂 |
国重文・本殿 |
左;観音堂。 神仏習合の姿をよく残す神社。 観音堂は仁科三十三番札所第一番 |
駅前から2キロほど、整備された綺麗な道路を北上すると「若一王子神社」の参道にであう。参道両脇には、一休み中のまつり屋台が並んでいたが、さすがに朝5時台。しずかなに寝静まる境内に足を踏み入れる。
参道を進むと右手に社殿が配されていた。そして「三重塔」がある。神社で塔をみるという環境がなによりも新鮮。昔はありふれていた光景かもしれないが、今ではいわゆる「神仏習合」の気配を如実に表す神社は、だいぶ少なくなったから。
たしかに例大祭らしい。それでも「まつりなんて関係ない」風に訪れた私。朝も6時をすぎると地元の人々も参拝に訪れる。そんなところに、地元に愛されている感じがうかがえ、それだけで私はうれしくなる。
まだ6時である。そんな時間なので、とりあえず「訪れた」という事実を胸中におさめて、駅に戻ろうかと思う。すがすがしい朝の日差しの中で、神と仏が同居する空間に佇みつつ、そんな気配が心地よかった。
駅に戻る。信濃大町発6時37分の電車に乗り込む。次の目的駅たる安曇沓掛駅には6時46分到着。ホームと待合室のみというシンプルな無人駅から、再び徒歩の人となる。
今回も道は一本道。ただ道中は長い。駅からまっすぐに歩いて、高瀬川をわたり、1.5キロ歩むと交差点。ここが「仁科神明宮」の入口でもある。さらに道をまっすぐすすみ、徐々に高台へと至る道を登っていくと、ようやくに鳥居にであう。
安曇沓掛駅から歩くこと2.5キロの道のり。7時10分だった。
「仁科神明宮」(旧県社・国宝)
<長野県大町市社字宮本鎮座>
主祭神:天照大神
由緒
宮山南麓の宮本集落に鎮座している。平安中期に「仁科御厨」鎮護のために勧進されたものとされるが創建年代は不詳。
社殿配置や形式は伊勢の内宮様式を採用しており、神宮同様に20年ごとの遷宮が行われてきた。
現在の社殿は寛永十三年(1636)に松本藩主松平直政が式年造営を奉仕したものである。社殿は本殿と中門、両社を連絡する釣屋で構成。
本殿は神明造で、古式室町期の様式を備えている。文献上、永和二年(1376)以来とぎれることなく二十年ごとの式年遷宮が行われ、修補されてきたものであり、神明造の原型式を保存している最古の社殿として本殿・釣屋・中門が国宝指定されている。
参道正面 |
境内地入口 |
三本杉(中央杉は枯れてしまい幹のみ) |
杉の巨木が多い境内 |
二の鳥居で参道は直角に折れる |
厳かなる参道 |
三の鳥居は平成五年第六十一回伊勢遷宮古材を使用 |
神門 |
左奧が仮宮。右、本殿(国宝) |
本殿(国宝)、及び釣屋(国宝)、中門(国宝) |
本殿 |
釣屋、中門 |
本殿 |
釣屋、中門、拝殿 |
参道をあゆみ、突き当たりの左手。石段の上に社殿がある。伊勢と同じくする「神明の社」がそこに鎮座している。その姿をみた瞬間に、衝撃が身体をはしる。胸中の鼓動がひときわに高まる。
念願だった「仁科神明宮」。その優雅淡麗で清楚さにあふれた国宝社殿に接し、ことさら丁寧な敬神の意を表す。以前、伊勢の神宮様に詣でたときとおなじような心の高ぶり。心の臓がバクバクといっている。完全に虜になっていた。前から右から左から、飽きもせず様々の方向から社殿を拝し見聞する。
7時55分。ようやくに気が済んだのか、神社をあとにする。思えば45分間、神社境内に滞在していたことになる。その間、全くの無人。参詣者もおらず、神職の姿も確認できず、それこそ「国宝」たる神社と私は忽然と対座していた。至福の時でもあり、すでに朝8時の時点で、この日一日を満足していた私がいた。
再び安曇沓掛駅まで歩いて戻る。未知なる距離を歩む行きよりも、すでに心得ている帰り道のほうが、ペースもよっぽど快調。8時20分に駅に到着し8時39分の上り電車をまつ。
8時55分。穂高駅着。今度は駅のほど近くの「穂高神社」なので、さして歩くこともないので心配ないのだ。朝の境内掃除光景をながめつつ、ゆっくりと参詣。
「穂高神社」(信濃国三の宮・旧国幣小社・延喜式内名神大社・穂高神社本宮)
<長野県南安曇郡穂高町穂高鎮座・朱印>
主祭神
中殿:穂高見神
左殿:綿津見神(ワタツミ神)
右殿:瓊瓊杵神(ニニギ神)
別宮:天照大御神
若宮:安曇連比羅夫命
若宮相殿:信濃中将(御伽草子のものぐさ太郎)
由緒
創建年代は不詳。神代期に主祭神たる穂高見神が人跡未踏の穂高岳にご降臨し、中部山岳地帯を開発するとともに、梓川流域安曇筑摩を開拓したという。
信濃国の古社として延喜式神明帳記載の名神大社。
安曇族は海神(ワタツミ)系宗族として北九州で栄えていたが、活動範囲を次第に拡げ、その一部が信濃国安曇野に定住し「安曇郡」の発展に貢献したとされている。当社は安曇氏が祖神を奉祭してきた古社。
明治5年郷社、明治15年県社、昭和15年に国幣小社に列格。現在は神社本庁別表神社。
穂高神社奥宮は穂高岳直下の明神池湖畔に鎮座。嶺宮は奧穂高岳(3190M)山頂に鎮座。
正面鳥居 |
二の鳥居 |
拝殿(拝殿後方に中・左・右の三社本殿あり) |
舞殿・拝殿、御神木 |
舞殿 |
若宮社 左手後方のケヤキ<井上靖「けやきの木」の古木> |
奉納神船 |
安曇連比羅夫像<白村江の戦いで戦死> |
どうも朝早すぎる行動をしているせいで、動作も緩慢になっているようだ。
穂高神社は駅から三分のみちのり。若干疲れ気味の身体を休めるのにも最適な環境。信州安曇の山中でワタツミたる祭神をまつる如実な「海の気配」を感じつつ、ゆっくりと参拝。
ゆっくりと行動していたのも、次の電車の時間を考えて動いているともいえるが、穂高神社には9時40分まで滞在し、穂高駅を9時59分に発車する電車に乗り込む。
この先は松本市内まで一気に南下予定。
参考文献
境内案内看板
角川日本地名大辞典20・長野県
神社辞典・東京堂出版